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Unmade -歪みし世界の中、人身御供となりて奏でた仮初めの青春譚-  作者: イチジク浣腸
光と影

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尊き者ども

薄暗い家の中。

 燻る薪の香りと、湿った石壁の冷たさ。

 遠くで、何かがぽとりと落ちる微かな音がした。


 ――目の前にいるのは、エゼル・ノクス。

 あの快活な瞳も、今はただ虚ろに空を彷徨っていた。


 「エゼル……!」


 ノアは、震える指先で彼に手を伸ばす。

 だが、エゼルは動かない。

 彼はまだ、己の幻に囚われている。


 (あの日の俺と、同じだ)


 心臓が軋む。

 独りきりの暗闇で、助けを叫んでも誰も来ない、あの地獄。


 ――けれど。


 ノアは、そっと膝をついた。

 かつて、自分に手を伸ばしてくれた存在がいた。

 だから今度は、自分の番だ。


 「……エゼル」


 声は低く、だが震えなかった。

 火の粉がはらはらと空中を漂う中、ノアは静かに言葉を紡いだ。


 「起きろ。お前は、まだ終わってない」


 応えはない。

 だが構わない。届くまで、何度でも。


 ノアは、彼の肩をぎゅっと掴む。

 その手のひらから、冷たい感触が皮膚を通して、心にまで伝わってきた。


 「……聞こえるか、エゼル」

 「この世界で、お前を置いていくつもりはない」


 ぐらり、と。

 エゼルの指が微かに動いた。


 ノアは目を伏せ、ふっと息を吐く。

 そして、呟いた。


 「天にあっても地にあっても、われひとり、主の御業みわざなり。」


 この世に、たった一人しかいない、かけがえのない自分。

 その尊さを、教えられたから。


 だから今、ノアはそれをエゼルに向けた。

 世界で唯一無二の、お前を、置いてはいけない。


 「立てよ、エゼル・ノクス」

 「お前は、俺が……救う」


 その声が、確かに彼の胸を打った。

 エルゼの瞳に、微かに光が戻る。

 まるで長い悪夢から、ようやく目覚めたかのように――。


エゼルの瞳に、色が戻り始めた。

 闇に沈んでいた水面が、静かに陽光を映すように。


 「……ノア……?」


 かすれた声。

 迷子の子供のような、途切れそうな呼びかけだった。


 ノアは、ただ静かに、彼を見つめ返す。

 この手を離すな。

 この現実を信じろ。

 無言の意志を、全身で伝える。


 エゼルの表情が、苦悶に歪む。

 幻影がまだ、彼の心を縛ろうとする。


 ノアは、強く、彼の腕を引いた。

 ぐらりと、エゼルの身体が傾く。


 「……怖いか」


 ノアは低く囁いた。

 まるで、自分自身に言い聞かせるように。


 「なら、怖いまま来い。――それでも、僕はお前を連れていく」


 ばちり、と。

 エゼルの胸の奥で、何かが弾けた。


 空気が震えた。

 囲炉裏の火が、ばさりと炎を立てる。

 煤けた天井に、エゼルとノア、二人分の影が、大きく揺れた。


 エルゼは、口を開きかけた。

 だが、言葉にならない。

 ただ、震える指先が、ノアの手を探す。


 ノアは、迷わずそれを握った。

 冷たかった指が、じわりと体温を取り戻していく。


 「……そうだ」


 ノアは小さく笑った。

 目の奥に、ほんの一瞬、ひどく懐かしい温もりが宿った。


 「お前はエゼル・ノクスだ。誰にも、否定できない」


 エゼルの目に、ぽろりと涙が浮かんだ。


 それは敗北でも、弱さでもない。

 ただ、確かにここに『在る』ことの、魂の証明だった。


 ノアは、ぎゅっと彼を引き寄せた。


 暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。

 この朽ちかけた家の中で、二人だけの静かな、けれど圧倒的な勝利の瞬間。


 エゼル・ノクスは――幻覚を破り、帰ってきた。

 

床に崩れたエゼルを支えながら、ノアはぐっと周囲に目を光らせた。

 空気にはまだ、異様な圧が残っている。

 囲炉裏の火はかすかに揺れ、炭の焦げる匂いが鼻を刺した。


 と、その時。

 軋むような声が、闇の隙間から聞こえた。

「お仲間一人は、まだ意識が戻らないようだねぇ……。あれじゃベルゼブブ様の器にはなれないね。」


 その声は、煤けた暖炉の火を撫でるように、じりじりと部屋の空気を焦がしていく。


 ノアは一歩、前へ出た。

 その靴音が、乾いた床に鋭く響いた。


 「テメェ何様だよ、勝手に品定めしやがって―オレたちを利用しようなんて、寝言は見逃せない。」


 冷たく澄んだ声。

 目は、凍った湖面のように静かで、だがその奥で何かが――黒く、燃えていた。


 隣でエゼルが、ゆっくりと立ち上がる。

 手には、無言でナイフを構えていた。

 その仕草は、どこまでも自然だった。まるで呼吸をするように、戦いに身を投じる準備ができている。


 「レタルは、オレたちが取り戻す。」


 ノアの声が低く、熱を帯びる。

 “僕”ではない、“オレ”。

 闇を切り裂くような意志の音だった。


 アブリミーナは、嗄れた喉でくつくつと笑った。

 「ふふ、ふふふ……できるなら、やってみるがいいさ。ああ、どこまでも……愛しいな。無力な子どもたちよ。」


 暖炉の火が、不意にぱちりと爆ぜた。

 その瞬間、部屋に走る長い影が、ノアとエルゼを怪物のように包み込む――だが、彼らの意志を蝕むことはできなかった。


 ノアはそっと視線を横に流す。

 エルゼは一度だけ、無言で頷いた。


 合図はそれだけだった。



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