わるいこでごめんなさい
黒霧の中に、エゼルの目には何一つとして灯りの姿は映らぬ。ただ、ひたすらに濃密なる霧がその周囲を包み込み、何もかもがすべて不確かなものとなっていた。足元に踏みしめる感触すら定かでなく、ただ沈黙の中に身を置いているのだった...
やがて、沈黙の底から――くぐもった唸り声が這い上がってきた。
それは人の呻きとも獣の咆哮ともつかず、どこか懐かしくも忌まわしい記憶の淵をかき乱すようだった。
エゼルは、足元からじわりと伝わる微かな振動に、眉をひそめた。
戸の向こう――闇の奥底から、それは確かに忍び寄ってくる。
黒霧が廊下を這い、空間をぬめるように満たしていく。音はすべて霧に呑まれ、世界は不自然な静寂に沈んでいた。
だが、その沈黙の底で――かすかに、金属が擦れる音がした。
細く、鋭く、神経を引っかくように。
扉の向こうで、錠がかすかに緩む音。
床板を這うように這い出る、不揃いな足音。
エゼルは息を呑み、背後の壁に寄りかかったまま、ただその音に耳を澄ませる。
汗びっしょりの革靴のかかとの跡が、踊るように廊下を刻むたびに、胸の奥がざわついた。
やがて、扉が半ば開き、甘く冷たい煙草の匂いがじわりと零れ出した。
それは、母の身体にまとわせていた――夜ごと取り替えられる男たちの影を宿した匂い。
「……ただいま」
かすれた声が、廊下の奥から流れてきた。
エゼルは目を閉じ、震える唇の端でかすかに笑おうとしたが、その笑みは恐怖に凍りついた。
扉の隙間に映る母の横顔は、いつもの優しさとは似ても似つかぬものだった。
滴るような黒髪を縛り、細い肩には夜の冷えた風が纏わりついている。
「遅くなってごめんなさいね」
その一言は、おそらく謝罪のつもりだったのだろう。だが、
どこか刃物のように研ぎ澄まされ、エゼルの胸を深く突き刺すものだった。
彼は声を上げることも、動くこともできず、ただ息を呑むのみ。
足元が消え、時間が凍りつき、世界は再び黒霧に覆われた。
その夜もまた、エゼルは自らの無力を知るばかりであった。
──
彼の部屋は、薄暗く、静寂に包まれていた。壁に掛けられた時計の針が、規則正しく時を刻む音だけが響いている。エゼルは机に肘をつき、頬杖をついたまま、じっと扉の方を見つめていた。
母親が帰ってくる気配はない。彼は何度も時計を見上げ、時間が過ぎるのを確認するが、扉の向こうからは何の音も聞こえてこない。ただ、静寂だけが彼を包み込んでいた。
エゼルは立ち上がり、部屋の隅にある古びた鏡の前に立った。鏡の中には、まだ幼さを残す少年の姿が映っている。その顔には、不安と孤独が滲んでいた。
「母さん、帰ってこないかな…」
彼は小さな声で呟いたが、その声は部屋の中に虚しく響くだけだった。母親はいつも夜遅くまで帰ってこない。そして、帰ってきても、彼に何かを言うことはほとんどなかった。
エゼルは、母親の帰りを待ちながら、心の中で様々な思いを巡らせていた。母親が何をしているのか、彼にはよくわからなかった。ただ、彼女が長時間家を空けていること、そして帰ってきた時の空気が、彼にとっては不安で仕方がなかった。
夜が更けるにつれて、部屋の中はますます暗くなっていく。時計の針が進むたびに、エルゼの胸にはぽっかりと穴が開いていくような感覚が広がっていった。
彼はただ、母親の帰りを待ち続けるしかなかった。その時間は、彼にとっては永遠のように感じられた。
そして、その夜もまた、エゼルは自らの無力さを痛感するばかりであった。
やがて、薄闇の中で――かすかに、扉の向こう側から足音とは違う、重い物音が響いた。
それは、何かが床に乱暴に投げつけられるような、鈍い衝撃音。
エゼル思わず息を飲み、手のひらに汗をにじませたまま、声を失った。
──母の怒り。それが今、自室の扉を隔てて爆ぜようとしている。
扉が乱暴に開かれ、光と影の隙間に母の姿が映った。
その目は血走り、頬にはわずかに涙が乾いた痕があった。
「何度言わせればわかるの!」
母がそう叫びつつ、エゼルの机の上に置かれたノートをひったくる。
ひらり、とノートのページが床に散らばり、インクの匂いが立ち上る。
「お前はいつも――生意気ばかり!」
言い放つと同時に、机の角に手をついていたエルゼの肩を、ぐいと強く握りしめた。
痛みに思わず肩をすくめる。凍りつくような力に耐えながら、彼は必死に俯いてこらえた。
「人の心配ばかりして、何もできやしないくせに!」
母はそこで震える声を止め、エゼルを睨みつける。
その眼差しには、拭いきれぬ失望と憎悪が混じっていた。
エゼルは唇を噛みしめ、やり場のない悔しさに瞳を閉じる。
胸の奥で「痛い」とだけ、しかし声も出ずに震えた。
「――ほんとうに、クズね」
針のように鋭い言葉が、エゼルの心を裂いた。
母はふいにバサリとその手を離すと、乱れた髪をかき上げ、背を向けた。
静けさが再び廊下に戻る。
転がったノートの端が、かすかに揺れていた。
エゼルは手首の痛みを押さえ、散らばったページに視線を落とす。
そこには、母の言葉の残響と、自らの無力がくっきりと刻まれていた。
──その夜もまた、彼は、自らの存在を否定される痛みを抱え、孤独に震え続けるのだった。
やがて、廊下の黒霧の中に──母の嗜みと化した低笑いが響いた。扉が勢いよく開き、そこには見慣れぬ男が立っていた。
男の瞳は冷たく、がっしりとした体躯を革のコートが包む。母はその腕を絡ませるように寄り添いながら、エゼルを一瞥した。
「ほんとにごめんね、許してエゼル。」
その言葉は、先の「ただいま」の微かなぬくもりなど微塵も含まず、ただ重力だけを伴ってエルゼの胸に落ちた。母は小さく笑うと、男と手を繋ぎ──まるで子供を振り切るように──エルゼの声も届かぬ速さで廊下を去っていった。
──振り返ってくれると思ったのに。
ドサリと響いたのは、母のバッグが廊下に落ちた音か。エゼルは震える両脚をこらえ、かろうじて立ったまま、ただその背を見送るしかなかった。
やがて、扉が静かに閉まり、鍵が締まる──金属同士の短い響きが、再び世界を闇の深淵へと沈める。
エゼルはようやく、呆然とした足取りで廊下を振り返った。そこに母も男も、もういない。
──そうか、もう帰ってこないんだ。
胸の奥にぽっかりと穴が開き、ひとりきりの静寂だけがエルゼを包む。彼の中で、母への最後の期待が音を立てて崩れ落ちた。
「……母さん」
呼びかけは、霧の中に吸い込まれて消えた。声は彼自身の胸にだけ響き、答えはどこにもなかった。
その瞬間、エゼルは──文字通りの孤児となったことを、深い魂の底で知った。




