影のままでいろ
黒い霧に包まれた世界。視界はすぐにぼやけ、何もかもが歪んで見える。レタルの足元はしっかりしているはずなのに、まるで空中に浮かんでいるような浮遊感を覚える。霧の中に漂う冷たく湿った空気が、肌に刺さるように感じる。
そして、白い光――それが、レタルの目の前に浮かび上がった。まるで雪明かりのように、どこか温かく、しかし同時に冷たさを感じさせる光。耳に届くのは、かすかな焚火の匂いと、風に揺れる毛皮の衣の音だけ。その香りは、あの頃の母親の記憶を呼び起こす。
「お前は、誇り高きトカプ・アナラ族の血を継ぐ子だよ。名前はレタル、“白い光”――闇夜に瞬く雪明かりの名だよ。」
母の声――優しさと力強さ、けれどどこか不安定な響きがあった。母の姿が霧の中に浮かび、レタルの心を引き寄せる。
「……おとうは、来ないの?」
幼い自分が、膝を抱えて座り、母に尋ねる。無邪気な問い。しかし、その答えが胸を締め付けるように響く。
「あの人は都の人だ。海の神、山の神と話す心を持ってはいないのさ。」
母の言葉が重く胸に沈む。その言葉に、レタルは無意識に耳を傾け、深く頷く。しかし、どこか心の奥では、それを信じたくない自分がいる。その葛藤が、霧の中でぼやけていく。
その瞬間、景色が一変する。
強烈な光が走り、次の瞬間には、宮殿の廊下に立っている自分がいる。冷たく輝く石の床、赤い絨毯の上に一人、ひときわ小さな少年――レタルが立っている。
「妾の子が、この家の戸を叩くとはな。」
冷徹な男の声。それは、父親の声。氷のように冷たい声がレタルを貫く。レタルは言葉を失い、その場に立ち尽くす。彼の目の前には、王家の威厳を誇る男――父が立っている。
「名も、家も、お前には与えぬ。お前は、影のままでいろ。」
冷徹な声が、空気を切り裂くように響いた。その声には一切の温もりが無く、ただ硬直した冷たさが宿っていた。まるで遠くから響く鐘の音のようであり、耳に届いた瞬間、レタルはその言葉を、目の前に突きつけられた鋭い刃のように感じた。言葉が身体の中を走り抜け、瞬時に全ての感覚を奪っていった。彼はただ立ち尽くし、言葉を発することすら許されぬかのように、重たい空気に圧し潰されていった。
その男の目――父親のそれは、まるで底知れぬ深い井戸のようだった。視線は冷たく、遠くを見据え、まるでレタルという存在が、ただの影のように、そこにあるべきものではないかのように扱われている。音も無く、ただその冷たさだけが、息を呑むように胸を圧迫する。
拒絶感が強烈に身体を支配する。吐き気が込み上げ、息がしづらくなる。手足が重くなり、体が動かない。視界が揺れ、耳の奥で母の声が響く。だが、それは消えていき、代わりに冷徹な父の言葉だけが反響する。
「影のままでいろ」――その言葉が、レタルの中に蠢くように反響する。
まるで過去の一切を切り捨てるような、無情な決断のようであり、ただ闇に呑まれるがままでいることを強要されているようだった。
無念さが胸の奥にこびりつき、眼前の光景は次第にかすんでいった。
それでも、ふと感じたのは、言い知れぬ孤独と、絶望と、そして――その絶望に少しだけ抗いたいという、僅かな意志だった。
彼は無意識のうちに、口を開く。
「……それでも、俺は、生まれたんだ」
その言葉が、まるで自分を取り戻すために発したように響く。しかし、すぐにその意識が薄れていく。再び、レタルは幻覚に呑み込まれていくのを感じる。過去の自分、幼い頃の自分が、必死に今の自分を見つめ返す。それが逆に、自分の心を揺さぶり、混乱を招く。
その瞬間、目の前に現れたのは、まさに自分――かつての幼いレタルだ。だが、今のレタルはその目を見つめることができない。目を逸らして、彼は後ろに一歩下がる。過去の自分が、ますます遠くに感じる。
「俺は……生まれた」――その言葉が、だんだんと力を失い、次第に幻覚の一部になりつつあった。
レタルの足元が崩れ、視界はどんどん白く染まり、彼の意識は過去と現在が交錯するように、泡のように消えていく。
彼は言葉を失い、ただその場に立ち尽くしながら、次第に自分を見失っていく。
そして―― その瞬間、視界が急に揺れた。すべてが色を失い、濁った霧の中に溶け込んだ。レタルは、再び闇の中に囚われていくのだった。




