幻惑に沈む谷
世の中には、時として霧の深き谷に入り込むことがある。
それは物理の谷であることもあれば、心の谷であることもある。
人はその霧の中で声を聞き、己の輪郭を確かめようとする。されど、その声すら偽物であるかもしれぬと気づいた時、なおも歩みを止めぬ者のみが、生の尾を掴み得るのであろう。
この物語に登場する三人の若者は、理由を持って、その谷へと足を踏み入れた。
彼らが見たものは、老女の幻か。
それを語るには、まず一杯の茶を共にしようではないか。
なに、恐れることはない。ただの昔語りである。
──して、君は、霧の向こうに何を見るだろうか。
馬車の軋みがゆっくりと消え、三人は石畳の街道を離れて土の道へと足を踏み入れた。夕暮れの光が長い影を引き延ばし、草のざわめきが遠くの山鳴りのように聞こえてくる。
レタルは地図を膝に広げ、道筋を確かめながら進む。エゼルは背後で詠唱の準備をしつつ、視線を周囲の気配に巡らせる。ノアだけが、何ひとつ気負う様子もなく、淡々と足を運んでいる。
「──本当に、ここから谷までは一本道かい?気味が悪いね。」
後ろを歩むレタル・レギウスは、肩からかけた革袋の重みを感じつつも、その表情を崩さない。彼の性質は、慈しみと冷徹を併せ持つ。時折、石壁に生える苔の色の移ろいを指で撫で、思慮深げに地図を照らした。
レタルの乾いた声に、ノアは顔を上げずに答えた。
「山道だって僕からすれば遊園地だよ。どこで何が起きるか分からないから楽しい。」
その声には抑えた楽しげな響きがあって、レタルは視線を険しく細める。だがノアの表情はほんのり緩み、まるで退屈を知らぬ子供のようだった。
少し進むと、藪の切れ間から黒じょっぱい霧がのぞく。夕日の朱が湿った空気に滲み、辺りは一瞬、血のように赤く染まった。
ノアは立ち止まり、霧の向こうを見やった。口元だけを緩ませ、低く――ほとんど自分にしか聞こえないくらいの声でつぶやく。
「待ってたぜ、こういう感じ。」
彼の性格は、平素は静謐を旨としながらも、好奇心が瞬く間に表情を掠める。まるで風薫る初夏の夜空を見上げるかのように、今の彼はこの危険な霧路を――言葉にならぬ昂奮で楽しんでいるようにも見えた。
その眼差しは、無垢な少年のそれでありながら、同時に深淵を覗き込む騎士の厳かさをも宿していた。
「この足音……聞こえるか? 谷が呼んでる気がするんだよな。俺達が流す血の音を、楽しみにしてるってさ。」
エゼルが口元を覆って、くぐもった声で言った。
「……谷じゃなくて、お前の狂った頭の中じゃないのか、それ。」
「いや。俺の中のヤツも騒いでるけどな。」
⸻
谷底へと続く獣道を、ノアは小気味よい足取りで下っていた。霧は依然として濃く、谷の壁面に苔が張り付き、岩肌から滴る水音がどこか遠い世界のもののように響く。空は青くもなければ灰色でもなく、ただそこに「在る」ことだけが確認できるほどに、沈黙に包まれていた。
「なあ、退屈しねえ? 谷ってのは、もっとこう……獣とかバンバン出てくるのかと思ってた。霧だけかよ。期待外れもいいとこだ。」
その声は希望に満ち、周囲の闇を拒むかの如く柔らかな光を孕んで響いた。
ノアは前を歩きながら、振り向きざまに笑う。肩に掛けた銃のホルスターが軽く鳴った。
「……退屈してるのはお前だけだろう。」
後ろから続くエゼルは、眼差しだけで木々の隙間を見張りつつ、ぶっきらぼうに応えた。草の背丈は彼の腰を過ぎており、脚に当たる葉の冷たさが妙に現実感を呼び起こす。
先刻のノアのような好戦性は示さぬが、風の変わり目や木の囁きに敏感に反応し、仲間の足取りに乱れが生じぬよう絶えず配慮していた。
「退屈してるわけじゃない。」
レタルは言った。しんがりを歩くその声音は落ち着いていて、霧に吸われてもなお芯を残して響く。
「けど、静かすぎる。……もしかしたらこのあたり、誰か住んでるかもね。」
ノアは顔をしかめた。
「こんなとこに?仮に安全だとしても崖の途中だぞ?」
その時、霧の奥に、木造の屋根がふいに姿を現した。三人の歩みが止まる。屋根は苔むしており、煙突からはかすかに煙が上がっている。
「……家だ。」
エゼルの声が低くなる。
「生活の匂いがする。……誰か、生きてる。」
ノアはその民家に近づくと、手のひらでそっと扉を叩いた。
木の軋みが応える。
やがて、静かに扉が開かれた。
姿を現したのは、老婆だった。年の頃は七十を越えているだろうが、その目は驚くほど澄んでいて、まるで渓谷の水源のように澄明であった。
「……旅人かね?」
声は細く、けれど確かだった。
「そうです。渓谷を歩いてる途中でして……少し、峠越えの案内図を借りられますか?支給された地図がわかりづらく。」
レタルは内心で舌打ちしていた。
(ノア、お前の力があれば、地図なんていらねぇだろ……)
地図を借りる演技など、私にとっては茶番だった。ノアが“あれ”を使えば、土地の流れも気脈も見える。山道の先に何があるかすら、感じ取れるはずだ。
だが、ノアはあえてそれをしない。見せない。まるで、普通の人間を演じることに意味があるとでも言いたげに。
(お前の楽しみに巻き込むなよ、ノア・エヴァンス...)
レタルの瞳が、ノアの後ろ姿を刺すように見つめていた。
レタルが丁寧に頭を下げると、老婆は静かにうなずいた。
「ほう、若いのに礼儀を知っとる。入りなされ、少しばかり茶を淹れてやろう。」
家の中は質素であったが、清潔で、土間には炭の香りが漂っていた。囲炉裏に小さな火が灯り、茶釜が静かに揺れている。
「……こんな谷に、一人で?」
ノアが辺りを見回しながら尋ねると、老婆は笑った。
「人里はな、どうにも騒がしくていけん。……わしは、昔、竜を見たことがある。」
その言葉に、三人の背筋が微かに伸びた。老婆は、土間の隅に据えられた竹の籠に手を伸ばし、干菓子の詰まった古びた菓子鉢を引き寄せながら、
まるで独り言のように、ぽつりと口を開いた。
「この谷は、かつて“竜の喉”と呼ばれておった。ほれ、向こうの崖の裂け目、あれが竜の口に似ておるだろう。」
そう言いながら、盆の上に菓子を三つ四つ並べた手つきには、妙にこなれた温さがあった。
「それで“喉”か。……なるほどな。」
ノアが面白そうに笑う。老婆は彼をじっと見つめた。
「おぬし、血の匂いがする。」
その一言に、部屋の空気が僅かに揺れた。レタルが目を細め、エゼルは腰の短剣に手をかけかけた。
「何者ですか、婆さん。」
「心配いらん。ただの昔語りじゃよ。」
老婆は首をすくめると、囲炉裏の薪を一つ、軽くくべた。火がぱちりと音を立てて弾けた。
「けれど、気をつけなされ。……この谷にはまだ、“あれ”がいる。」
「“あれ”?」
レタルが問い返す。老婆は一度口をつぐみ、そして遠くを見るように語り出す。
「竜の血を吸った獣じゃ。人の言葉を喰い、人の声を真似る。ここらでは“言葉喰らい”と呼ばれておる。夜になると……声が聞こえる。死んだ者の声も、生きてる者の声もな。」
沈黙。火の音だけが続いた。
ノアは、真剣な顔で言った。
「そいつ、どこにいるんだ?」
「知らん。……けれど、お主たちのような目をした若者が、かつてこの谷に消えた。それだけは確かじゃ。」
老婆の目は、すでに夢と現の境にあるようで、だが不気味な冴えを湛えていた。
エゼルは、そっと立ち上がった。
「感謝します。……ここを発つのがよさそうだ。」
レタルも頷いた。
「ありがとう、お婆さん。……またいつか、生きていれば。」
レタルが腰を浮かせかけたそのとき、老婆の手がぴしゃりと卓を叩いた。
「待て待て、茶を飲まんか。」
ぴたりと動きを止めたレタルに、老婆は釜の蓋を器用に開けながら続けた。
「山越えの話をするのに、口が渇いたままでどうする。そう急いでは、山の神にも笑われるぞい」
湯気の立つ茶碗が目の前に置かれる。
その香りは、少し焦げた麦と、なつかしい草木の強いにおいが混じっていた。
「……ありがとうございます」
そう言ってレタルは茶を口に含んだ。




