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田園にて(エリオス帝国の日常)

朝もやの切れ間から、ようやく陽の光が差し込んできた。馬のひづめが泥に沈み、冷たい水分が靴のふちを濡らす。私は首都から二日、東の田園へ向かう道を一人で進んでいた。国の誇る呪紋技術は、この地にも惜しげなく施され、麦畑のあちこちに青白い光が揺れている。しかし、その光は美しくも何ともない。地面は粘つき、踏むたびにかすかな苦みと薬品の匂いが立ち上る。


 村の入り口に近づくと、古びた石塀の向こうに広がる畑が視界を埋めた。麦は丈こそ揃っているが、穂はやせ細り、粒はひび割れ、根元の土は紫に変色している。魔法刻印師が「肥沃を約束する」と掲げた呪文は、一時的に地力を引き出したものの、結局は栄養分を吸い尽くし、土を焼き尽くしてしまったらしい。呪紋の回路には高周波の魔力が流れ続け、細胞レベルで微生物を死滅させる。化学調合師が併用した「酸化結晶分解剤」が労を倍増させた結果、畑は病み、失われた地力を取り戻すすべは見当たらない。


 石塀のわきに腰かけていた男が顔を上げ、鍬を地面に突き立てた。年季の入った作業着は黒い煤と土でまだらに染まり、手のひらにはひびが入り、血のにじむ跡があった。


「調子はどうだい?」

「調子……ですか。まあ、これが俺らの調子さ」


 彼は苦笑しながら土をすくい、その紫の粒を指先でつぶした。「豊かさは呪文に消え、化学には高い代償が伴う。それでも麦は刈る。腹を満たすには、それしかないからな」


 広場では、子どもたちが錆びた魔具の残骸をあちこちに並べて遊んでいた。爆薬用に開発された小型結晶が爆ぜて欠けた破片は、まるで妖精の翼のように輝き、不安定な魔力を放っている。唾を吐きかけると、小さな火花が散った。遊び道具にも命の危険があるという現実が、この村の日常なのだ。


 井戸のそばに置かれた木桶からは、黒く濁った液体が絶え間なく溢れている。若い男たちがそれを抱え、近くの小川へと捨てに向かっている。川の水は元は清冽だったが、今では魚影が消え、岸辺の石はぬるりと滑る。化学と魔力の混合排水が生態系を破壊し、農民の命綱を奪っている。


 老婆が畔で黙々と脱穀にいそしんでいた。鎌で切った麦束をすり合わせ、穂から粒をこそげ取る。腰をかがめるたびに杖の呪符がかすかに光り、呪文を呼び起こしているらしい。しかし彼女の老いた顔には、一瞬の活力すら戻っていなかった。


「最初は、呪紋のおかげで収穫が二倍になったと聞いた。だが、その後は半分、三分の一……」

 老婆は、小さな声で続けた。「今じゃ、呪紋がなければ何も残らない。呪文は刈り取られた麦とともに消える。土は呪いを抱えて続くのみ――私たちはそれをただ受け入れるしかないのよ」


 私はノートの白紙に墨を走らせた。


「呪文が土地を刈り取り、人が再び耕す。富は呪文の輝きとともに消え、残るのは疲れた手と粘つく土──この村の無言の誇りと諦念を、誰が救うのか」

 午後になり、陽光が直接麦畑を叩きつける。呪紋の光は逆に痛々しく、照り返しで目を細めざるをえなかった。湿度を孕んだ風がかろうじて土埃を巻き上げ、その中に混じる化学薬品の匂いがむせ返るほどだ。


 村は静かだ。帰省した役人の影はなく、賃金労働者を管理する遠隔監督機関もこの地には入らない。帝都の声は、呪文の騒音にかき消され、届くことはない。農民たちはそれぞれ黙して麦と向き合い、日没とともに家路を急ぐ。薄暗い家の中で、夕食は細い麦粥が主であり、手に入る魔具の残骸が鍋の蓋代わりだ。


 私は馬にまたがり、村を後にする。老婆が杖を上げ、男たちが鍬を肩にかけ、子どもたちが遠目で手を振った。呪紋の光は夕焼けに染まり、青白さを失っていく。煙突の煙はゆらりと立ち上り、空の色と混ざり合った。


 帰り道、私は思う。魔法と化学が手を組んだ産業は、この村に何をもたらしたのか――それは一瞬の豊かさか、永続する苦難か。いや、それ以前に、人々の暮らしをどう定義すべきか。呪文の輝きに目を奪われるあまり、失われるべきでないものを忘れてはいまいか。


 馬の蹄音が、静かな夜道に響く。私はノートを閉じ、首都の帰途についた。

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