名もなき男
あの日、空が裂けた。
……いや、違う。
空などという気高い言葉は、あの光景には似合わない。
それは、黒く膨れた膿のようなものだった。
いっそ、「魔王の嘔吐」と呼ぶべきだったのかもしれない。
目の前で人が──食われた。
ハエだ。数え切れぬほどの、羽音の悪魔たちだ。
それは地面を覆い、空を食い、声を、骨を、記憶を貪った。
「助けてくれ」と叫んだ男の頬が、
一秒後には骨だけになっていた。
泣いていた少女は、次の瞬間には静かだった。
あれは死ではない。削除だ。
存在という事実ごと、食われる。
あのハエどもは、天使が作り損ねた“終末の器”に違いない。
俺は逃げた。
妻がいた。娘もいた。
なのに俺は──逃げた。
気づいたら、下水の中でひとり、膝を抱えていた。
誰かの指が浮かんでいた。魔法の名残の焼け痕と共に。
名前のない、何の意味もない死。
それが、そこら中にあった。
外から鐘の音が聞こえた。
優しい音だった。
──あれはセラフィエル学園の鐘だった。
なんの皮肉か、そこだけは、光が差していた。
なぜだ?
なぜあそこだけ、あの悪魔の軍勢が避けて通った?
神の箱庭か? いや、違う。
あそこにこそ、神殺しの火種が眠っている。
きっと、奴らはそれを“恐れた”のだ。
それを考えている自分が、滑稽だった。
妻と娘を見捨て、見苦しく生き延びた俺が。
なにを知った風に、神を語っている。
俺にはもう、名前すら不要だ。
ただの「生き残り」だ。
死者にすらなり損ねた、不完全な亡霊だ。
それでも、あの日の鐘の音だけは──
未だに、耳の奥に、焼き付いて離れない。




