静かなる忠言
放課後の教室には、まだ陽が残っていた。
西窓から差し込む光は、柔らかくも儚げで、教室の床に細長い影を落とす。
その光は、まるで今にも消えてしまいそうな、どこか頼りなげな存在のようだった。
「ノア・エヴァンス、今度は魔導薬学の実習をすっぽかしたらしいな。」
ジル・マールは窓際に立ったまま、手にした書類をちらりと見せる。その視線は冷たくも鋭いけれど、どこか遠い場所を見つめているようでもあった。
以前より少しだけ、彼の怒気は柔らいでいる。
まるで前の諍いが、遊びのように感じられるほどに。
ノアは背もたれに寄りかかり、片目をかすかに開けて、その声はどこか遠くで響くように、気だるげに答えた。
「……寝てた。お昼寝すやすやタイムを、総監やクリスタルハイト陛下にお願いしておいてくれ。」
「悪いが、君のつまらない冗談に付き合う気はない。」
その言葉が部屋の空気に小さな波紋を作る。
だがその時、静かに開く扉の音が響いた。ノックもなく、ただ確かな足取りで。
「賑やかですね。二人が同席すると、空気がなんとも居心地悪く硬くなる気がいたします。」
声は柔らかく、しかし凛としていた。
黒狼の制服を纏った女──エレナ・セラフィムがそこに立っていた。
逆光に照らされた亜麻色の髪が、かすかに揺れている。
「……セラフィム伯爵令嬢。」
ジルはほんのわずかに頭を下げた。
王子としての威厳を崩さぬまま、年若き礼節を静かに示すような所作だった。
「蒼鷲の副寮長殿、あまりに杓子定規でいては、部下の心は離れてしまいますわ。あなたの指導に必要なのは、規則の厳守だけではなく、彼らの信頼を得ることです。」
「…ご忠告、感謝します。統律会の伯爵令嬢としての助言、真摯に受け止めます。」
「これは忠告ではございません、あくまで一伯爵令嬢の感想でございます。」
剣戟のような言葉の応酬だが、どこか心地よいのはエレナの声音が風のように柔らかく、しかし芯が通っているからだ。
彼女はノアの机のそばに寄り、ふいに問いかける。
「まあ、ノア王子殿下。今日のお昼は、きちんと召し上がったのかしら?」
ノアは顔も上げず、少しばかり肩を揺らして笑った。
「……その呼び方、悪意あると思うんだけどな。
一応は食べたよ。ただし、レタルから差し出されたのは冷えきったオーツブレッド。
噛みしめるたびに、心までも冷たくなっていく気がしてね。」
エレナは微かに唇の端を持ち上げた。その顔には笑みと、なにか遠くを見通すような冷静さが混じっている。
「なら、今から食堂まで付き合いなさい。冷めきったパンじゃ、王族の体躯には毒よ。」
「命令か?」
「進言よ。でも、あなたは従った方がいいわ。
一年のうちからそんなものを主食にしていたら、いずれ体の芯までカビてしまうわよ?」
「……進言、ね。君はいつも、なんで僕に手厳しいんだろうね。」
「あなたが、ちゃんとしていないからよ。」
「……わかったよ、付き合うよ。」
ノアの言葉を聞いたエレナは、それきり何も言わず、ふと微笑を浮かべた。
その笑みは、どこか硬質で、それでいて冷たくはなかった。
光を背に受けた横顔は、凛然としていて、まるで戦場に立つ騎士のようだった。
ノアは肩をすくめ、わずかに息を吐いた。
この人には、どうにも敵わぬ気がする――そう思いながら、椅子の背に手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。
「……ジル、行ってくる。心配するな、後で先生にしっかり謝るからさ。」
「……誰も心配などしていない。」
冷静にそう告げると、ジュリアンは淡々と書類のノアの名前が載ったページを裏返し、静かに伏せた。
エレナはその様子を見て、静かに頷いた。
背を向けながら言った。
「君たちが睨み合っている限り、この学び舎は戦場のままよ。」
「なら、どうすれば良いのですか?」
ジルの問いに、エレナは足を止めずに答えた。
「お互いを信じ、己を貫くことが肝要でございます。」
その言葉は空間に残響した。
──黒狼の令嬢が去ったあと、蒼鷲と紅の少年は何も言わなかった。
だが、その日からノアの机に届く注意書きは、一行だけ優しくなったのだった。




