その微笑みの隣に、私はいない
薄曇りの朝、研究棟の中庭を歩くエレノア・グレイの足取りは、どこかぎこちなかった。両腕にはエレナ・セラフィムのための新しい実験資料。だが、資料の重み以上に、胸の奥に沈む感情が彼女を重たくしていた。
噴水の縁に腰かけているのは、他ならぬエレナ様。そしてその隣には――ノア・エヴァンス。
二人は何かを話していた。戦術書を手にしながら、エレナ様が静かに微笑む。その表情があまりに柔らかくて、息が詰まりそうになる。
(……あんな笑顔、私には見せたことがない)
視線を逸らしたくても、逸らせなかった。
ずっとそばにいた。誰よりも近くで、エレナ様の理を支えてきた。
だけど、ノアには最初から心を許しているように見える。
(なぜ、私ではないの……)
かすかに震える指先で資料を抱え直し、そっと声をかける。
「エレナ様。……次の解析資料をお持ちしました」
振り返ったエレナの瞳が、ほんの一瞬だけ驚いたように見えた。その視線の先には、隣に座るノアの存在があった。
その何気ない仕草に、胸が締めつけられる。
ノアは軽く会釈し、微笑んだ。
それだけのことなのに、心の奥がざわつく。
ノアがエレナ様に近づくたび、エレナ様が彼を信頼していくたび――
自分の居場所が静かに削られていく気がして、息が苦しくなる。
「資料、ここに置いておきます」
声が少しだけ強張っていたのを、自分でもわかっていた。
けれどエレナは、変わらぬ口調で「ありがとう、エレノア」とだけ答える。
(……その声も、もっと私だけに向けてほしかったのに)
エレノアは静かに頭を下げると、一歩だけ下がった。
主を想う気持ちは、従者としてあるまじきものかもしれない。けれど、消せない。
あの人が微笑むたびに、嫉妬が、痛みが、募っていく。
(ノア・エヴァンス……あなたがいなければ)
そう心の中で呟いた言葉は、決して声に出すことはない。
エレノアはただ、寄子としての仮面をもう一度整え、静かにその場に立ち尽くすのだった。




