火種
教室の空気は、まるで冬の池に張った薄氷のように、ぴんと張りつめていた。
エミールは椅子を引く音も荒く、隣の生徒の腕をひねり上げた。
「おい、そんな目で俺を見るな。
この俺は、エリオス帝国アシュフォード侯爵家の嫡子だぞ。同じ蒼鷲でも、格というものをわきまえろ……痛むか? ふん、いい薬だ。」
少年の呻き声は、すぐに机と壁に吸いこまれて消える。
エミールは薄く笑い、己の指先にかかった小さな運命を楽しむようであった。
ジュリアンはその様子を横目に見ながら、胸の奥で静かに怒りを噛んでいた。
(またか……ほんと、救いようがない)
声に出せばこぼれ落ちそうなその思いを、彼はただ眉間の皺に沈めるしかない。
その時、椅子が小さく軋んだ。
ノアが立ち上がったのである。
彼の声は低く、刃のように冷えていた。
「やめろ、エミール。……また、恥をかきたいのか?」
一瞬、教室の時間が止まる。
エミールは嗤い、ノアの胸ぐらを掴む。
その目には、己の世界を乱されることへの不快がありありと浮かんでいた。
しかし、次の瞬間、拳が走った。
乾いた衝撃音。
エミールの身体が一歩よろめく。
誰かが小さく息を呑んだ。
「──やめるんだ、二人とも」
低く落ちる声が、凍りついた空気を解かした。
メトセラ・アサリエル先生である。
彼は二人の間に歩み寄り、ノアの肩に手を置いた。
その手は重くもあり、どこかあたたかくもあった。
昼の光は高い窓から石畳の廊下を斜めに射し込み、冷たく澄んだ空気を揺らした。
王族の子弟も集う名門学園の歴史が染み込んだその床は、長年磨き上げられ、硬く滑らかに光っている。
足音は静かに響き、廊下の奥へと緩やかに消えていった。
やがて辿り着いた古い教室の扉を、メトセラ先生は静かに押し開けた。
中は誰もおらず、長い時を経た木製の床には薄く埃が積もっていた。
窓から射す柔らかな光が埃を淡く浮かび上がらせ、遠い昔の記憶のように室内を満たす。
壁際に寄せられた古びた机と椅子がひっそりと佇み、微かな風に揺れるカーテンが時折音もなく震えた。
メトセラ先生は扉を閉め、ゆっくりとノアに向き直った。
その瞳は厳しさと優しさを同時に宿し、沈黙の中に重みを持って問いかける。
「なぜ暴力に頼った?」
ノアはゆっくりと顔を上げた。
王族の血がもたらす自然な気品はそこにあったが、口元にはあどけない不遜さが浮かぶ。
まるで、世界の常識など初めから歯牙にもかけぬ少年の眼差し。
「圧倒的な弱者をなじる行為が……許せなかったんですよ。あんなこと、見てられなかった。」
言い終えて肩をすくめる仕草は、謝罪とも反抗ともつかない。ただ、何かを選ぶ自由が自分には当然あると信じている者の、危うくも眩しい傲慢さが漂った。
先生はしばらく黙って、少年の横顔を眺めていた。
大きな窓から射す午後の光が、古い机の上に細い筋となって落ち、
そこに漂う埃の粒を、銀色の霧のように浮かび上がらせる。
静かな部屋の中で、時計の針の音だけがかすかに響いた。
やがて先生は、低く、よく通る声で口を開く。
「怒りにまかせた暴力というものは、ぱっと燃え上がるうちは頼もしいが、所詮は藁火だ。
胸の奥に落ちた言葉は、やがて火種になり、ゆっくりと人の心をあたためる。」
ノアは、窓の外に目をやった。
その眼差しには、王族に生まれた者特有の、どこか世のことを遠くから眺める余裕が漂っていた。
けれど、瞳の奥には、まだ削り残した少年の生意気さが、かすかな光のように揺れていた。
「拳で与えられた痛みはすぐ消える。
けれど、言葉は遅いかわりに、心に残る。
急がぬ火だけが、人の中で静かに燃えるものだ。」
その声は、叱責でも諭しでもなく、
静かな湖に小石を落としたように、静かに波紋を広げた。
ノアはしばらく黙っていた。
胸に渦巻いていた熱が、形を変えてどこかに沈んでいく。窓際の埃の粒が、いつの間にか陽の光を反射し、水面のようにきらめいて見えた。
やがて彼は、ふてぶてしい笑みを浮かべ、片手で後頭部をかきながら言う。
「……まあ、やれるもんなら、やってみますよ」
その声には、反抗と承諾が半分ずつ混じっていた。
幼さと気品、そしてどこか憎めぬ奔放さが、青年の横顔に同居していた。
廊下の隅では、ジュリアンがそっと様子を窺っていた。
彼は小さく息を吐く。
(あいつ……ただの問題児じゃないな。特別のバカだ...)
視線の奥に、ほんのわずかだが敬意が滲んでいた。
そこへ、たまたま通りかかったエゼルも足を止めた。
ノアの俯いた横顔を見て、心に何かが触れる。
(似ているな……俺と)
彼の胸の奥に、静かな親しみが生まれた。
この日、胸の奥に沈んだ思いは、
すぐに形を取ることはなかったが、
どこか遠いところで、ひそやかに灯をともしていた。




