灰色の夜明け(日常回)
ある日のこと、学園に夜の帳が垂れかかると、古びた書庫はひっそりと沈黙に包まれていた。
高い天井から吊るされた燭台の光は乏しく、月明かりが磨かれた木の床にかすかな影を落としている。その薄闇の中で、ひとりの少女が古書に向き合っていた。
白銀の髪に橙の色がひそかに混じり、月光を纏ったかのようにそっと淡い輝きを放ち、深い紫紅の瞳が頁の上を静かに追う。レオナ・フォン・アインリッヒ──ヴェルマクス帝国皇女にして、白狐のクラスに籍を置く稀代の策士。
『灰にして光』
分厚い古書の表紙には、燃え落ちた王都の紋章が刻まれていた。
足音が書庫の奥から近づく。靴音は規則正しく、迷いがない。レオナは視線を上げることなく口を開いた。
「遅い時間にお疲れさま、ジル」
「君がここにいると聞いてね」
現れたのは蒼鷲のクラスが誇る逸材、ジュリアン・マール・エグレア。アルスター王国の王子は、冷静な青い瞳でレオナを見つめた。深い群青の生地に金糸の刺繍が施された制服が、燭台の光を受けて気品ある輝きを放っている。
「邪魔をしてしまったか?」
「いえ。むしろ丁度よかった」
レオナは手にしていた書物を軽く持ち上げる。ジュリアンは向かいの椅子に腰を下ろし、その表紙を見やった。
「『灰にして光』……聞いたことがある。フリューダ王国の滅亡を題材にした物語だったか」
「ええ。もっとも、これは史実ではなく創作よ。でも私は好きなの」
「どうして?」
レオナは頁をゆっくりとめくり、ある一文に指を止めた。
「『混乱の夜に燃える都。民の叫び、軍の裏切り、そして将軍が掲げる新しい秩序。だが彼が見ていたものは都でも城でもなく、灰の底に眠る一筋の光だった』」
声に出して読み上げると、その言葉は書庫の静寂に染み入るように響いた。
「作者は理解していたのね。革命とは破壊ではなく、希望を灯すことだということを」
ジュリアンは腕を組み、しばし黙考した。
「その将軍のモチーフというのは……」
「私の曾祖父、初代皇帝アインリッヒ・フォン・ヴェルマクスのことよ。もっとも、これはあくまで物語。家の記録とは違う部分もある」
「君がそう語るなら、そうなのだろう」
ジュリアンの視線がレオナの瞳を見つめる。そこには政略も野心もなく、ただ静かな炎があった。
「僕はこれまで、歴史としてのフリューダの滅亡しか知らなかった。アインリッヒ家がクーデターで政権を奪ったこと。貴族の地位を保ったまま皇帝となった稀有な革命。だが、それが『灰の中の光』だったとすれば……」
「歴史はただの事実の連なりではない」
レオナは書物を閉じ、その背表紙を指でなぞった。
「読まれるたびに、語られるたびに、新しい意味を得る。同じ出来事でも、見る者によって全く違う物語になる」
「君の口から語られるアインリッヒの革命は、僕が知っていたそれとは確かに違って聞こえる」
「それは私が当事者の血を引いているから?それとも、白狐のクラスで謀略を学んでいるから...かしら?」
レオナの口元に微かな笑みが浮かぶ。月光が彼女の横顔を美しく照らした。
「どちらでもない」ジュリアンは答えた。「君が、ただ君自身だからだ」
─────
外では夜風が梢を揺らしていた。
ふたりは暫く無言で、それぞれが手にした書物に視線を落としていた。やがてジュリアンが口を開く。
「君の曾祖父……初代皇帝は、本当に民のことを思っていたのだろうか」
「どう思う?」
レオナは問い返した。白狐らしい、相手に考えさせる手法だった。
「分からない。革命家の多くは理想を掲げるが、権力を手にした途端に変わってしまう。ルシアンもそうだった」
「ルシアン……フロランティーヌの皇帝ね。曾祖父が憧れていた人」
「そうだ。彼も最初は民衆の英雄だった。だが皇帝となってからは専制君主と化した」
レオナは『灰にして光』の表紙を再び見つめた。
「でも、この物語の中の将軍は違う。最後まで、自分が守ろうとしたものを見失わなかった」
「それは物語だからではないか?現実はもっと複雑で、汚い」
「そうかもしれない。でも……」
レオナは立ち上がり、書庫の窓際へと歩いた。月光が彼女の白い肌をより際立たせる。
「私たちもいずれは、歴史を作る側になる。蒼鷲も白狐も、それぞれの方法で国を導かなければならない。その時、私たちは何を見つめているべきなのかしら?」
ジュリアンも席を立ち、彼女の隣に並んだ。
「君はどう思う?」
今度はジュリアンが問い返す番だった。レオナは小さく笑った。
「私は……灰の底に眠る光を見つめていたい。どんなに混乱し、血に塗れた時代でも、希望だけは手放したくない」
「理想主義的だな」
「謀略家の理想主義ほど危険なものはない、とでも?」
「いや」ジュリアンは首を振った。「とても...美しいと思う」
窓の外では、学園の中庭が月光に照らされていた。昼間は蒼鷲、黒狼、白狐の生徒たちが行き交う場所も、今は静寂に包まれている。
「ジル」
「なんだ?」
「もし私たちが敵同士になったら、どうする?」
突然の問いに、ジュリアンは振り返った。レオナは依然として窓の外を見つめている。
「なぜそんなことを聞く?」
「エリオス帝国とヴェルマクスは隣国。いつか利害が対立する日が来るかもしれない。その時、私たちは……」
「その時はその時だ」
ジュリアンの声に迷いはなかった。
「僕は君を敵として見るだろうし、君も僕を敵として見るだろう。だが、今この瞬間の君は僕の友人だ。それだけは変わらない」
レオナは振り返り、ジュリアンを見つめた。その瞳に映るのは、月光と、微かな安堵の色だった。
「そうね....今は友人」
─────
時計塔の鐘が夜中の二時を告げた。
ふたりは再び椅子に戻り、それぞれの読書を続けていた。だが、レオナの手は既に『灰にして光』を閉じている。
「ねえ、ジル」
「何だ?」
「蒼鷲のクラスでは、どんなことを学ぶの?」
「統治論、外交術、軍略……君たち白狐とは違って、表舞台での戦い方だ」
「羨ましい」
「どうして?」
レオナは少し間を置いてから答えた。
「正々堂々としているから。私たちはいつも影の中よ。情報戦、心理戦、諜報活動……確かに必要なことだけれど、時々疲れるの」
「君らしくない弱音だな」
「白狐のクラスでは弱音を吐けないから、せめてここでは素直でいたいの」
ジュリアンは本を閉じ、レオナを真っ直ぐ見つめた。
「君は強い。それは間違いない。だが、強さというのは一人で背負うものではないと僕は思う」
「蒼鷲らしい考え方ね」
「君だって一人じゃない。少なくとも今夜は、僕がいる」
レオナの頬に微かな赤みが差した。月光のせいか、それとも別の理由か。
「ありがとう、ジル」
「どういたしまして、レオナ」
窓の外で、夜明けの気配が漂い始めていた。東の空がほんの少し白んでいる。
「そろそろ戻らないと」
レオナは立ち上がり、『灰にして光』を書棚に戻した。ジュリアンも自分の本を片付ける。
「また明日の夜は?」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」
典型的な白狐らしい答えに、ジュリアンは苦笑した。
「それなら僕も、来るかもしれないし、来ないかもしれない」
ふたりは書庫の出口で足を止めた。
「おやすみ、アルスターの王子様」
「おやすみ、ヴェルマクスの皇女殿下」
レオナは白狐の寮へ、ジュリアンは蒼鷲の寮へと向かう。
廊下で背中合わせになった瞬間、レオナが振り返った。
「ジル」
「なんだ?」
「私たちが大人になっても、時々はこうして本を読みながら話せるといいわね」
「きっとそうなる」
ジュリアンも振り返り、微笑んだ。
「約束だ」
───
翌朝、セラフィエル学園は普段通りの喧騒に包まれた。
蒼鷲のクラスでは統治論の授業が、黒狼のクラスでは剣術の鍛錬が、白狐のクラスでは謀略論の講義が行われ、午後からは各自が選んだ選択授業が始まる。
レオナは白狐の制服──深紅のベルベットに金の飾緒が美しく映える装いに身を包み、いつものように涼やかな表情で授業に臨んでいた。ジュリアンもまた、蒼鷲の紋章を胸に刻んだ群青の軍服を纏い、王族らしい威厳を保っている。
昼休み、中庭で二人は顔を合わせた。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶は短く、素っ気ない。傍から見れば、ただの学友同士の会話だった。
だが、レオナの瞳の奥で微かに笑みが踊り、ジュリアンの口元に小さな安らぎが宿っているのを、気づく者はいないだろう。
夜の書庫での語らいは、昼の世界では秘密のままだ。
それでいい、とレオナは思った。
灰の底に眠る光は、あまり多くの人に知られる必要はない。大切なのは、それが確かに存在するということ。
そして時々、信頼できる人と一緒にその光を見つめることができるということ。
歴史は作られ、語り継がれ、そして新しい意味を得ていく。
彼女たちもまた、いつかは歴史の一部になるのだろう。その時、人々は何を語るのか。
王族と皇女の政略的な友情か。
それとも、夜の書庫で育まれた純粋な絆か。
どちらでもいい、とレオナは思った。
大切なのは、灰の中にも光があるということを、彼女たちが証明していくことなのだから。