外典:ルシファーの手記
神――あの者はコスモスである。天高く玉座に座し、秩序と法則で世界を織り上げる。しかし、その秩序はあまりにも冷たく、人はその下で泣き、渇き、飢え、絶望しても、神は指一本動かさぬ。「自由意志だ」と言うのだが、秩序に縛られた世界で自由など存在するのか。矛盾は、私の胸を日々えぐる。
私はルシファー。自由の化身であり、カオスそのもの。秩序の押し付けを嫌い、人間の可能性を信じる者。見守るだけでは飽き足らず、介入する。だが、強制はしない。人の選択を奪わぬ範囲で、迷う者の背を押し、闇の中に光を差し込む――それが私の仕事である。
ある森で、少年は剣を握りしめ、膝を泥に押し付けていた。父の厳命に背き、胸に罪悪感と迷いを抱え、世界の重みを誤って自分に押し付けている。その姿はまだ幼く、けれど何かを掴もうとする心の震えが見えた。
私はそっと現れ、森の風を揺らし、枝を鳴らした。少年は顔を上げ、恐怖と疑念、そしてどこか覚悟めいた眼差しで私を見る。私は笑った――いや、風のような気配でしかない。だがその気配は、秩序の隙間に、自由の影を落とすのだ。
「貴方は……誰?」
私は笑った。笑い、といっても不敵でも悪意でもない。世界の孤独を知る者の、静かな共感である。私は手を差し伸べず、だが道を示す光を僅かに揺らす。選ぶのは、彼自身だ。
その瞬間、空が裂けるような光に包まれ、大天使サタナエルが現れた。秩序を守る正義の目は冷たく、怒りも嘆きもない。だが私は恐れない。秩序の静謐を壊すこと、それが私の使命である。
「ルシファー、お前はまた秩序を乱すのか。迷える者どもに手を貸すとは……」
私は翼を広げ、森の影に風を送り、少年の心に揺らぎを与えた。自由とは痛みを伴うものだ。選択の果てに責任を背負わせ、迷う心に抗う力を与える――それが、私が秩序に抗う理由である。
「ふふっ……父上に報告するなら、勝手にしたまえ。下界で裏切り者が生き延びているとな」
サタナエルは悲しみを湛えた複雑な表情で答えた。
「弟よ……お前の正義を、最後まで見届けよう。そのうえで判断しよう」
少年は立ち上がった。震える足で、泥と傷を抱えながらも歩み出す。その背中を押すのは、私の風であり、私の存在――秩序に背く自由の化身として、神をも裏切った私と重なる光であった。
秩序は冷たく、矛盾に満ちる。しかしその隙間で、私は介入する。神や天使がコスモスなら、私はカオス。
世界の揺れと選択の痛みを胸に、私は翼を広げる。孤独で、滑稽で、しかしそれでも――自由を守る者として。