神vs堕天使
人は、傷を隠すのが上手くなるたびに、少しずつ“人”でなくなっていく気がする。
それは強さではなく、ある種の鈍さであり、痛みを忘れることによってしか保てない均衡だ。
この物語に登場する少年たちもまた、それぞれのやり方で自分の心を隠している。
神を宿した者、救いを拒んだ者、そして誰よりも優しかった者。
血は記憶を継ぎ、運命を刻む。けれど、それに抗うようにして、彼らは今日を生きている。
これは、そんな彼らの物語だ。
何も知らないふりをして、すべてを見透かしている瞳が、あなたの心にひっそりと影を落とすことを願って。
——あなたにとって、痛みは敵だろうか。
それとも、誰かに触れた証だろうか。
翌朝の空は、鉛色の雲が低く垂れこめ、冷たい風が石畳を撫でていた。
セラフィエル士官学園の威厳に満ちた正門。その重い鋼鉄の扉は、青緑の錆を宿し、扉の上には帝国の紋章が嵌め込まれていた。
両脇の石柱の上には、三体の青銅の獣が空を睨んでいる。
中央に翼を広げる蒼鷲。
左に牙を剥く黒狼。
右に尾を巻く白狐。
曇天の光に濡れた蒼鷲の翼は、今にも羽ばたこうとするようでありながら、錆びついた鎖に繋がれているようにも見えた。
その静けさを破るように、帝国軍から派遣された輸送用の魔導馬車が現れる。
封印術の鎖が這う重厚な車体、鋼鉄の馬が吐く魔蒸気は白い霧となり、石畳を曇らせていく。
黒漆の車体に刻まれた帝国紋章が、曇天の下で鈍く光った。
ノアはその光景を一瞥し、淡い冷笑を浮かべながら車に乗り込む。
座席に身を沈め、魔蒸気のくぐもる車内で、眠たげに呟いた。
「ふぁぁ...早起きは3ディオスの得?とかいうけどさ...3ディオスなんざ、絨毯のほつれ安いさ。そんな端金で眠りを売る僕たちは……実に愚かだね。」
その言葉は、白い蒸気に溶けて、外の灰色の空と同じく、鈍くかすんでいった。
対照的に、レタルは制服の下に魔装具を固く締め、緊急時用の魔道具も完璧に身につけていた。
その瞳は冷静で、揺るぎなくノアを見据えている。
「ノア、三ディオスを軽んじるのは愚かだ。
それに、今回の任務は遊びではないよ。強敵がいる以上、私たちの力が真っ向から試される。」
ノアは細めた目に薄く笑みを浮かべた。
その笑みは冷たく、どこか虚ろだった。
「知ってるさ。だからこそ、僕は少しだけ楽しみにしてる。それに”僕たち”なら、どんな相手でも、絶対に退屈なんてさせないだろ?」
魔導馬車が静かに動き出す。二人を乗せて、帝国の影の奥深くへと向かって。
その背後で、セラフィエル学園の高塔に立つエゼル・ノクスが、薄く目を開けた。
「……始まったか。」
その声は、夜風にかき消された。
魔導馬車の内部は意外にも静かだった。外装こそ重厚で厳ついが、中は吸音魔法が施され、揺れ一つない快適さ。窓の外を流れる景色は、のどかな帝国の田園風景から、次第に荒野めいた地形へと変わっていった。
レタルは窓に肘をつき、外を見つめていた。
「ノア。これ、ただの調査任務じゃないかもしれない。」
ノアは手帳に何やらいたずら描きをしながら、気だるげに答えた。
退屈を嫌う彼にとって、じっとしている時間は苦痛の種だった。
「帝国がわざわざ学生を使う時点で、妙だよね。……裏に何かある。少し胸騒ぎがするね。でも、問題ない。やることは変わらないさ。」
「君って本当に…どうしてそんなに、動じないんだろね。」
「逆に聞くけど、どうしてレタルはそんなに真面目なの?」
レタルはくすっと笑った。
「暴走機関車の君を誰かが止めなければいけないからだよ。それが私だよ。」
馬車が止まり、二人は降車する。そこは《灰の谷》と呼ばれる、帝国の辺境地だった。
魔力異常が報告されたのは、谷の奥にある廃教会跡。かつて異端の宗派が拠点としていた場所で、今は人も寄りつかない。
風が肌を刺すように冷たい。谷全体に、どこか死んだ空気が漂っていた。
「ここ、嫌な匂いがするね。魔力っていうより、もっと…根深いもの。」
ノアは地面に手をかざした。草の下に、わずかな魔素の残滓がある。何かが地中で脈打っているようだった。
「やっぱり。誰かがここで“何か”をやってる。」
レタルも頷いた。
「…探索開始しよう。日が暮れる前に、手がかりを。」
「うん。でも焦らないで。こういう場所って、急ぐほどロクなことにならないから。」
**
廃教会の扉は、ほとんど自然に朽ちていた。だが、内部は不自然なほど整然としている。埃がない。割れたステンドグラスが、誰かの手で掃き清められたように片付けられていた。
レタルが囁いた。
「誰かが、つい最近までここにいた。」
ノアの目がわずかに鋭くなる。
その瞬間だった。
「おや、来客か。」
暗がりから、ローブをまとった男が姿を現した。
肌は青白く、目は光を反射しないほどに沈んでいた。まるで“生”を終えたものが、無理やり歩いているような雰囲気。
「歓迎しよう。帝国の若き兵士たちよ。」
ノアとレタルは即座に身構えた。
ノアの声が、冷たく沈む。
「…誰だ。名を名乗れ。」
男はゆっくりと口角を上げた。
「我が名は…レヴィン。“かつて神に触れた者”とでも呼んでくれたまえ。」
その瞬間、空気が凍った。
ノアとレタルの間に、張りつめた緊張が走る。
そして次の瞬間、影が溢れ出す。廃教会の床から、壁から、祭壇の裏から。
「来るよ、ノア!」
「わかってるよ!...ようやく退屈が晴れるな。」
そう言って、ノアの指先が光を帯びる。神の力が、静かに、しかし確かに目を覚ます——
廃教会の空間が、ゆっくりと歪んでいく。
まるで壁の奥に別の次元が滲み出すように、空気がねじれ、光が沈み込む。ローブの男は、自らの胸元をゆっくりと引き裂いた。皮膚が裂け、赤黒い血が地に滴り落ちる。
レタルが目を見開く。
「……まさか、自傷によって“顕現”させる気か?」
ノアは一歩前へ出た。いつのまにか右手に生じた透明な結界が、男の血に反応して微かに軋む。
「“血塗ラレシ啓示”か…。神の残響を引きずり出す、神の如き業。」
男は笑った。その血塗れの口元は、もはや人間のそれではなかった。
「私は《サミーザ》の力を宿した者。嘆きと救済の裏返しを知る、万象の棄教者。」
裂けた胸から、黒い光が噴き出す。
それは血ではない。呪いに近いもの。意志を持つ負の奔流だった。教会全体が悲鳴をあげるように軋み、古びたステンドグラスが一斉に砕け散った。
男が即座に詠唱する。
「“巨人の盾”!」
光の盾がノアとレタルを包む。だが、その中でノアは平然と片手をポケットに突っ込み、舌打ちした。
「やれやれ。堕天使ってのは、ほんとロクなのがいない。」
男の身体の中から、サミーザの“化身”が立ち上がる。幾本もの腕を持ち、眼窩のない仮面をかぶった異形の存在。慈悲と残酷を同時に刻んだその姿は、狂気と威厳を等しく備えていた。
「我は問う——誰が救いを望んだか?」
サミーザの声が、響く。否、脳内に直接流れ込んでくる。
「我が力は代償を求める。血、痛み、そして——信仰の破壊。」
ノアの表情が冷える。すっと目元から笑みが消える。
「レタル、盾は任せた。こっちは僕が“抑える”。」
「無茶だ、ノア——!」
「…大丈夫だ。俺は、こう見えて“最高に性格が悪い”。」
その言葉が空気を切り裂いた。ノアの瞳が深紅の焔に燃え上がり、
足元から命気と聖力が渦巻き爆発する。
まるで凍てつく嵐の中心で世界を震わせるかのように。
そして、氷の刃のように鋭く澄んだ蒼光が、ノアの背から迸った。
神の力——唯一神の力を受け継ぐ末裔が持つ“絶対秩序”が、サミーザの呪詛と衝突する。
「さて、サミーザ。君は誰を救おうとしたんだい?」
ノアの声は、かすかに笑っていた。
「少なくとも、僕じゃないね。」
そして、戦いの幕が静かに上がる。
聖力
唯一神の力を受け継ぐ者、神や唯一神の使者に選ばれし者にのみ与えられる祝福の力。
聖剣を扱う者、天使を宿す者はこの力で世界の理不尽に抗う。力は秩序であり、光そのもの。
扱えるモノはごく僅かである。
命気
命そのものに宿る波動。植物、風、水、大地──自然と心を通わせた者が呼び起こす強大な力。癒しと破壊、両極の顔を持つ“生の力”。操作を誤れば死が待っている。
神、天使、悪魔の力を使う――それは、祝福された者たちの特権だ。
だがこの世界には、力を使うだけでは飽き足らず、“そのもの”を自分の元へ引きずり出そうとする者がいる。
「血塗ラレシ啓示」――それは業。
ただの祈りではない。これは、神々と己の境界を削り取り、魂ごと差し出す行為である。
選ばれし者にしか許されない。
神との契約を超えて、神を“顕現”させる禁業。
命を賭けた召喚であり、肉体を蝕む契約であり、精神を蝕む儀式。
術者の身体は神の器へと変じ、
魂は神の声に侵食され、やがて“個”としての境界は曖昧になっていく。
それでも彼らは顕現させる。己を超える存在を。
サミーザ――“否定の天使”を。
かつて天上で記録を司ったこの堕天使は、
未来を“修正”し、定められた運命すらも血と共に塗り替える存在。
オルカーネイションは奇跡ではない。
これは明確な意志、渇望、そして絶望から生まれた業。
神や悪魔を呼ぶ。
だからこそ、それは“業”と呼ばれる。
凡百の術者では決して扱えない、神を欺き、神を裂き、神を現世に引きずり出す、人ならざる意思の証明。




