最終話 本当に欲しいもの
オリヴィア様は続けた。
「恵まれた地位、能力を持ちながら、それに溺れて、威張るだけ。あまりに物悲しいわ。あげくに隣国の王子に取り入って婚約者になるつもりだとか。厚顔も極まれりね」
「なんなのよ……! あなたが言ったんじゃない! 『あなたは本当に欲しいものは何も持っていないのね。かわいそうな人だわ』って」
思わずオリヴィア様と顔を見合わせる。
言った? 言ったような気もする。と記憶を探しているのがありありとわかり、やがて、「ああ、確かに言ったわね。かといって私のせいにされても困るのだけれど」とオリヴィア様は呟き頬に手を当てた。
その間に義姉は続けた。
「こんなはずじゃなかったと思うのは、私が本当に欲しいものを手に入れていないから。それなら今私が持っていないもので、もっと私を幸せにするものはどこにあるのか? 物語の主人公は必ず幸せになる。だから片っ端から読み漁って、私の欲しい幸せを探したけれど、この国にある物語はどれも王子と結婚することばかりが幸せだという」
確かにそうかもしれない。
主人公が庶民であったり、貴族の隠し子であったり、魔法使いであったり、立場が変わるだけで終着点はいつも同じ。
誰もがわかりやすい幸せではあるけれど、現実でそれが自分にとって幸せかどうかは人それぞれでしかない。
現実は辿り着く先に幸せなど保障されていないから。
「それで他に何か幸せはないかと探しているうちに、夢を見るようになったわ。それは毎日違う物語で、見たこともない斬新なものばかり。その中に、私と同じように努力を強いられるばかりで、何もかもを義妹に奪われる物語があったの。これだと思ったわ。私はこの主人公のようになれば幸せになれる。そう思ったから、計画を立てたの」
「それはつまり、夢で見た主人公の物語をなぞろうとしたということ?」
「そうよ。本当に欲しいものは、私をただ愛してくれる人。聖女だとか、優秀だとか、そんなこととは関係なく、私一人を愛してくれる人の元へ行かねばならない。ちょうどよくクレイラーンの王子が来るとわかっていたから、学院の音楽祭の日に合わせて王都に来るにはどの町を回るか計算して探しに行ったのよ。音楽祭での提案は彼を喜ばせているでしょうし、それを私がしたのだとわかればすぐに優秀さにも気が付くし、聖女である私をクレイラーンに連れて帰りたいと思うはずだから」
待て待て待て。
聖女だとか優秀だとか関係なく愛してくれる人がいいと言っていなかったか?
なのに咥えたネズミを飼い主の元に運んでくる猫のように、手柄を携えて会いに行くなんて話が破綻していないだろうか。
「私の言った言葉の意味を、まったく理解できなかったのね」
オリヴィア様の言葉に、義姉は訝しげに眉を寄せた。
「それはその物語の主人公の幸せでしょう? いくら物語をなぞったって、クリスティーナが幸せになれるわけじゃないわ」
「そんなことはないわ! だって、私と主人公は同じ境遇なのだから。求めるものは同じはずよ」
「それで? 隣国の王子と出会って、あなたは幸せになったの? そうではないからクリスティーナのおかげで音楽祭が成功したと褒められたくて、こんなところまでやってきたのではなくて? 自分は間違っていないと思いたくて、必死で現実から逃げている。家を出る前と同じように、また『こんなはずじゃなかった』と思っているから」
オリヴィア様の言葉に義姉が目を見開き、それからぐっと歯ぎしりをするように押し黙る。
「幸せになるために足掻くことは大切なことだと思うわ。けれど、自分が本当は何を欲しいのかもわからずにあれこれと手を伸ばすから、それを手に入れても満たされない。大事にできない。いつもあなたが『こんなはずじゃなかった』と言うのは、誰かが欲しがるものではなく、あなた自身が欲しいものが何なのかわかっていないからよ」
その言葉に、私も考え込む。
私は私の欲しいものをきちんと理解しているだろうか。
その上でそれを手に入れるための行動をしてきただろうか。
流されて生きてきただけではないのだろうか。
父が亡くなり、生活に困窮しかけたところに救われ、恩を返そうと立ち働いてきた。
その中で義姉に疎まれ、平和な生活が欲しいと願った。
だから平民に戻り、自分で事業を興そうと考えた。
結局それは実現することなく、レガート殿下の婚約者となり、本当に欲しいものが何か考えることもないまま、流れに流され今この場に立っている。
義姉も黙り込んだまま、反論することはなかった。
そうしてしんと静まり返った中、くるりと扉のほうに向きを変えたから、慌ててそれを止めた。
「お義姉様、この部屋から出てはなりません。この城には今、様々な立場の方たちが集まってきています。お義姉様が突然いなくなったことで、振り回され、恨みを持っている人がいてもおかしくはありません。どうか今日はこのままここにいらしてください」
そう告げると、義姉は口元を引き結んだまま部屋の隅へと歩いていき壁にもたれた。
義姉がじっと考え込んでいるのがわかった。
きっとこれまで何を言っても通じなかったのは、私が義姉のことを理解していなかったからなのだろう。
初めて義姉に何かが響いた様子を目の当たりにして、私はアンジェリカ様とオリヴィア様に心から感謝した。
けれど義姉には見えないようそっと二人に礼を告げると、揃って「そんなものはいらないわ」と返された。
「ローラにクリスティーナのことなどわかるわけがないのよ。あなたたちは何もかもが違うのだから」
オリヴィア様の言葉にアンジェリカ様も頷いた。
「私たちには少し、ほんのすこーーーーーーしだけ、似ているところがあった。それだけのことよ」
「何でも一人で解決できるわけじゃない。だから生徒会という組織は複数人で成り立ち、国王を支える人たちがいる。クリスティーナのことはローラが一人で抱え込むことではなかったのよ。ほら、そこのきんに……王太子殿下とて諫められなかったのだから。できる人がやる。それだけのことよ」
「ありがとうございます」
言葉にならなくて、それしか言えない私に、アンジェリカ様が扇をぱらりと開いた。
「まあ、本来ならこういう場はレガート殿下に譲るべきところだったのでしょうけれどね」
「いいえ。あれは殿下が譲ってくださったのよ。言いたいことなんてとっくに言ってあったのでしょうね。だって彼女、レガート殿下が口を開いたときだけ及び腰だったもの」
「え」
そうだったのだろうか。そんなことまで気づかなかった。
「ですから最後くらい私たちにすっきりさせてくれてもいいでしょう?」
オリヴィア様も冷たく見える笑みを口元に広げて、扇でぱさりと覆い隠した。
それでも私は二人に深く礼をして、それから義姉の元へ歩いて行った。
「お義姉様。平民の子でしかなかった私を受け入れてくださったこと、心から感謝しています。だからお義父様にもお義姉様にも恩を返したかった。それだけでした」
「別に……。恩を返してほしいなんて思ったこともないわ」
わかっている。
そんなところは好きだった。
義姉を嫌いなわけではなかった。
徹底的に相性は悪かったけれど、価値観も考え方も何もかもが違ったけれど、ただそれだけの話。
何か言おうとしたけれど、何を言っても余計なことのように思えて、私は黙って礼をして背を向けた。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
式の開始が告げられ、その場が散会となっても義姉は部屋に残った。
傍には義姉を案内してきた女官がつけられ、部屋の外には兵士が見張りに立った。
けれど義姉が勝手に部屋を出てくることはないだろう。
私は何度も練習した通りに式を進めながら、ずっと考えていた。
私が本当に欲しいもの。
そのために私がすべきこと。
それは生きる意味と言ってもいいのではないだろうか。
これまでのようにあれよあれよと流されるまま、そういうものを持たずに生きることもできるし、それはある意味楽なことかもしれない。
何にも執着せず、振り回されずに済むということだから。
けれど、せっかく生きているのなら見つけてみたい。
「レガート・クライゼルの名にかけ、妻の身も心も守っていくことを誓う。そしてこの国の王太子として、共にこの国を守っていくことを誓う」
向き合ったレガート殿下を見上げると、その黒い瞳はまっすぐに私を映していて。
前はただどうしたらいいかわからなくなるばかりだったのに、今はそれをまっすぐに受け止めている自分がいる。
そしてその瞳が私に向けられていることを、幸せだと思う。
ああ、そうか。
私はいつの間にか本当に欲しいものを見つけていたのかもしれない。
けれどこれからは、それを失わないよう、そして相手にも同じように与えられるようにしていきたい。
欲しいものは得るばかりではなく、大事にし続けなければならない。
だから。
「ローラ・ファルコットは、今よりローラ・クライゼルとして、この国の王太子を、そしてこの国を支えていくことを誓います。そしてレガート・クライゼル殿下を心から愛し、慕い続けることを誓います」
レガート殿下の瞳を真っすぐに見上げると、その瞳が見開かれて。
やがて晴れ渡るような笑みが広がった。
「愛している、ローラ」
「はい。私もレガート殿下を愛しております」
素直に言葉が転がり出た瞬間、私の唇は殿下の温かなそれに塞がれていた。
「ほっぺ!」
ほっぺにするはずでは!!
思わず心の叫びの一部が漏れてしまった。
この場でほっぺとか恥ずかしさしかない。
せめて頬って言いたかった。
しかし一気に顔に血をのぼらせる私を前に、レガート殿下は平然としていた。
「危ない所だった。早くその口を塞がなければ、このままローラを抱き上げてここから連れ去ってしまうところだったからな」
なんだその言い訳は。
そう思うのに、頬の熱は引かない。
「予定にないことをしないでください! 私が手順を間違えたらどうするのですか?」
「先に予定にないことを言ってくれたのはローラだろう? そもそもあんなかわいらしい顔で私を見上げてきてよく言う」
「ど……、そん……!!」
どんな顔ですか、とも、そんなこと今言わないでくださいます?! とも言葉にできなかった。
わたわたとして口が全然回ってくれない。
慌てる私にレガート殿下が、ふっと笑い――
「ぅん!? ――っ!!」
なんで、二回目!!!
しかもさっきより長い!
まだですか!
ちょ、みんな見てるんですけど!!
そうだった、今は私たちの結婚式だ。さっきからずっと見られているのだった。
これはまずくないだろうか。
いい加減離れてくれないだろうか。
そう思うのに、心臓のようにばくばくとうるさく脈動を伝えてくる耳に入り込んでくるのは、わーとかきゃーとかいう歓声だった。
王太子の結婚式って、こんな賑やかなものだったっけ。
もっとこう、厳かな――
「いいわ、もっとやりなさいレガート!」
キャーって言ってるの王妃殿下だった。
嘘だろ、である。
そういえばこの方はもともとざっくばらんな人だった。
だからといって王家がこんなことでいいのだろうか。
そう思うのに、目の端に映るエドワード殿下は「いいなあ……ちゃんと誰か探そう……」と呟いているし、もう一つの隣国の来賓もパチパチと拍手をしながらにこにこ見守っている。
こうあらねば、とガチガチに固まっていたのは私のほうだったのかもしれない。
意外と世界は寛容で、誰かの幸せは広がり、誰かを幸せにしていくものなのかもしれない。
目の端では立ち合い人がレガート殿下の肩をそっとタップし、「そろそろ倒れられますよ」とにこやかだ。
やっと離された私は、平然を装うこともできずに、ただ顔を真っ赤にして息を整えることしかできなかった。
「ローラが幸せになるところを見届けられてよかったわ」
そんなハンナの声が聞こえて、はっと頭上を見回す。
まさか、どこかへ行ってしまうのだろうか。
そう思ったのが伝わったのか、「いやいるけどね? クライゼルの王都も楽しいし」と続いて、私はほっとして肩の力を抜いた。
母が亡くなってから、私はずっと一人で駆け回ってきたつもりだった。
けれど一人では生きていけないことがわかっていたから、笑顔を武器にして、時には人に助けを求め、慣れない世界でいつまでも慣れないままにやってきた。
そのうち気が付けば周りにはたくさん味方がいて、私は欲しいものをあれもこれも持っていた。
私は私が手にしているものを大事にしよう。
私が手にしてきたものを誇ろう。
きっとそれが私が欲しかったものだから。
そして、これからも自分の本当に欲しいものはなにかと問いかけていこう。
絶えず。
手にしているものを忘れないように。