第9話 奏でる人たちのあとで
「どういうことですか?」
「普通に断ればいい。ローラは私の婚約者だ。おいそれと国の外へ連れ出せるわけがないだろう。留学だなんだと言われても、今は王太子の婚約者として学ぶべき大事な時だと言えば角も立たない」
確かに。
普通に考えてこの急な交代劇では、音楽留学などしている場合ではない。
「それに……いや、やめておこう」
「ええ? なんですか、気になります」
「なんにせよ、ローラを連れて行かせはしない」
そんな言葉にいちいちどぎまぎしてしまう。
動揺せずにいられるようになればいいのに。
必死に冷静を装っていると、ふ、と笑う吐息が聞こえて顔を上げた。
「本当に根から真面目なのは私でもクリスティーナでもない。ローラだ。そんなことまで頑張らなくともいいのに」
冷静を装っていることを見透かされることほど恥ずかしいことはない。
「今はそれも楽しいしな」
やっぱり昼も夜も殿下は殿下だった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
それからはレガート殿下とアンジェリカ様の入れ代わり立ち代わり地獄のバイオリン多重奏な生活が続いた。
私が王宮に出向いてもエドワード殿下や義姉に会うことはなかった。
エドワード殿下は元々の予定通り、翌日には城を出てクライゼルを見て回っているらしい。
義姉は城の部屋に留め置かれている。
まあ、軟禁状態だ。
音楽祭当日を迎え、私は吐き気に見舞われるほどの緊張をなんとか腹に押し込め、レガート殿下と共に馬車に揺られていた。
「ローラはよく練習した。あの不協和音からここまでのレベルになったのだから、そのことは自信を持っていい。あとはやれることをやるだけだ。緊張することなどない――と言っても緊張するものは緊張するのだろうな」
「その通りです。胃が痛いです。吐きそうです。アンジェリカ様に往復ビンタしていただいたら目が覚め――いや、吐くか……」
「そう悲観することはない。アルシュバーン公爵令嬢の胸を借りるつもりで挑めばいい」
「そうですね。落ち込むのと反省は演奏が終わってからにします」
出る言葉すべてが後ろ向きだ。
やれるだけの努力はしたが、本番で失敗せずやり通せるかどうかはまた別だ。
「ところで。我々は婚約者同士だ」
「はい」
急に何の話だろう。
「想い合っているということも判明した」
「……ハイ」
「であるならば、いま一歩踏み込んでもいいか?」
何の確認ですか。
「それは具体的にどういう……?」
「婚約者として許されてしかるべき線というものがあると、以前にも話しただろう」
たしかにそんなことを夜の野獣な殿下が言っていた気がする。
「手をつなぐとか、そういう……」
「そこからでいい。ロクに手をつないだこともないからな」
「それは、その、いいですけど……。一体どこで?」
聞くのと同時にレガート殿下の手が差し伸べられた。
今か。
「馬車の中で???」
「外で手を繋いで歩いてくれるのか?」
「いえそれはすみません」
墓穴を掘った。
町では手を繋いで歩く恋人たちもいるが、貴族の場合は見かけない。
けれど公の場でないところでは手を繋いでいるものなのだろうか。
それよりは他の人に見られていない今のほうがまだいい。
そう考えてそっと殿下の手に手を重ねる。
殿下は優しく私の手を取ると、口元に持っていきキスを落とした。
「――――で、殿下?!」
「さて、着いたようだ」
ゆっくりと馬車が止まり、レガート殿下が私の手を引きながら降りる。
気づけば吐きそうなほどの緊張はどこかへ行っていた。
それどこではなくなったというほうが正しいけれど。
もしかして、気を逸らしてくれたのだろうか。
「さあ、行こう」
「はい」
殿下の隣を一緒に歩き出す。
前はあんなにもぎこちなかったのに。
何故だか今は、レガート殿下の隣にいると心のどこかが落ち着くような気がした。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
優勝はオリヴィア様が率いるカルテットに決まった。
音楽的な素晴らしさは私にはやはりよくわからないけれど、上手い下手で言えば文句なく一位だと言えた。
ということは、私の『感性』を褒めるためエドワード殿下がやってくるはずだ。
そう身構え、出場者の席から立ち上がった私の元へとやってきたのはレガート殿下だった。
その後ろにエドワード殿下の姿がちらりと見え、「す」と一音を発したのはわかったが、それすらもレガート殿下が掻き消した。
「素晴らしい演奏だった。感性もない。上手くもない。だが毎日毎日練習に励んでいたことを私は知っている。努力しても何でもできるわけではなく、歯がゆい思いもしたことだろう。それでもローラは挑み続けた。その諦めない姿を美しいと思った」
ほんのりと口元を緩めるレガート殿下に、会場中の視線が集まった。
ざわつく中に「嘘でしょ?! レガート殿下が笑ってる……?」「表情筋生きてた……」「美しいとか仰るのね……」という声が聞こえ、唖然とした顔や色めき立つような様子が見える。
「あり……がとうございます」
「婚約者となり、急な環境の変化に戸惑い、苦労する面もあったであろうが、ローラは文句を言うのではなく、何事にも前向きに取り組んでくれた。この国が混乱することもなく、こうして音楽祭も無事に開催され、以前と同様に平穏に日々が過ぎているのは、ローラの尽力があってのことだ」
何と答えればいいのかわからない私の手を取り、レガート殿下が跪く。
辺りのざわめきが大きくなり、私の頭は真っ白になった。
「そんなローラであるからこそ、国のために結ばれた婚約であった。私はずっと国のため生きる覚悟をしてきた。しかし今は、国のためだけではない。どんな時でも前向きに進み続けるその姿を支えたいと思う。四角四面にしか考えられない私に新しい世界を見せてくれ、こんな仏頂面しかできもしない私に様々な顔を見せてくれるローラを心から愛しいと思う。ずっと私の傍にいてほしい」
「はい……」
思わず答えたそんな私の声は一瞬で掻き消された。
「あの殿下が?!」
「愛しいとか……! そんな言葉も口になさるのね?!」
「感情あったんだ……いえいえすみません何でもありません」
悲鳴のような声が響く中、殿下は私の手に優しくキスを落とした。
これさっきも見たやつ!!
私を見上げ、ぼそりと殿下が呟く。
「一度練習はした。もう慣れただろう?」
そういうこと?
最初からこの場でエドワード殿下が隣国へなんて言い出せないようにこんな騒ぎを起こすつもりで、だけどゆっくりと、とか約束したから事前に馬車で手に口づけたってことか。
筋は通したぞと言わんばかりではないか。
きっと、付け入る隙を与えないように公の場で好意を示してくれたのだろう。
けれど前から好意があったと思われれば、私が義姉から殿下を奪ったと見られかねないから、今好きになったと聞こえるように話してくれたのだ。
計画的で、練られた言葉。
そのはずなのに。
そこに確かに心があるとわかるから。
私を見上げる瞳がどんなにいじわるそうに笑っていたとしても。
「一生慣れる気がしません」
「大丈夫だ。人生は長い」
つまりは、これからもこんな日々が続いていくということで。
それをどこかこそばゆいような思いで聞いてしまう私がいるのは、やはり私もレガート殿下を好きだからなのだろう。
結局エドワード殿下は言葉を発する機会もなく、静かに背を向け歩き出した。
しかし扉へと向かっていたその足が一瞬ぴたりと止まり、驚愕したように斜め上を見上げる。
そこにハンナの姿がふわふわと浮かんでいるのが見えた。
何か話しているなと思うと、エドワード殿下は突然足を速め、ツカツカとものすごい勢いで会場を出て行った。
一体ハンナは何を言ったのだろう。
家に帰り、ハンナに尋ねるとなんということもないように答えてくれた。
「『この国まで妖精を連れ戻しに来たの? だったらまた川を堰き止めるわよ。二度と妖精たちに干渉しないで』と言っただけよ」
緑のないところには妖精も生き物も住まない。いなくなったのはただそれが理由だ。
決して母のせいなどではないし、私を連れて帰ったところで緑のないところに妖精が戻ってくるわけでもない。
国の発展は必要なことだろう。
だが本当の豊かさとは何か。
今のクレイラーンの道先に国の発展があるのか。
そこをよく考え、国民に道を示すのが君主というものなのではないのだろうか。
「人間の国が一つつぶれたところで私たちには何の関係もないわ。国があろうがなかろうが、緑はそこにあるものなのだから。ただし住処を奪うようなことをされれば黙ってはいない。ただそれだけの話なのに、何故クレイラーンの先代と今代の王は理解しないのかしらね」
国同士の争いがなく、落ち着いているこの時にと国の発展に動き出したところなのかもしれない。
だが見境なく森を切り開いても自分たちの首を絞めるだけだ。
エドワード殿下がクレイラーンに帰り、正しく国を導いてくれることを心から祈った。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
そうして、私とレガート殿下は結婚式の当日を迎えた。
学院を卒業してからという予定を早めたのは、私の存在に気が付いたクレイラーンが横やりを入れてくる可能性を考えてのことだ。
まだクライゼルに滞在していたエドワード殿下もクレイラーンの代表として出席することになっている。
城に留め置かれたままだった義姉は、今日という日こそ室外に出ることは許されていない。
「ローラ様、おめでとうございます」
「あなた、いつものふわふわとした意匠ではないドレスも似合うじゃないの」
「お二人とも、ありがとうございます」
満面の笑みで花束を渡してくれたのはアリア様。
意外そうに、けれどどこか満足げに私を見下ろしたのはアンジェリカ様。
私はこれまであまり着たことのない、スラリとした線でありながら生花の飾りをあしらった華やかなドレスに身を包み、母の形見であるルビーのネックレスを着けている。
その生花の飾りにはハンナが載っていることだろうけれど、今は姿を消している。
今は結婚式の準備中であり、支度の済んだ私は親しい友人たちと控室でゆっくりと過ごしているところである。
これは王妃殿下が結婚する時に国王陛下が緊張を和らげようとそのような場を設けてくれたことから始まっているそうで、それが嬉しかった王妃殿下が私の時も同じようにしてくれたのだ。
室内にはお茶やお菓子が置かれていて、ちょっとしたお茶会のよう。
そこに集ってくれたのは、生徒会の面々や、アンジェリカ様、オリヴィア様、それと以前から親しくしてくれている友人たちだ。
アンジェリカ様とオリヴィア様がいるのは逆に緊張するのだが、お二人にはお世話になったことでもあり、何より『そのような場があるなら私たちを呼んでおいて損はないわ。お互いにね?』と言われたこともあり、呼ばせていただいた。
レガート殿下も支度を終えてこの場に来ており、ジョアン様やマーク様と歓談している。
他にレガート殿下の親しい人もこの場に呼び、私に紹介をと王妃殿下は仰っていたのだけれど、「特にいない」と答え黙って肩を叩かれていた。
場は和やかで、見慣れた面々に囲まれていると緊張も和らいだけれど、それでも手順を間違えたらどうしよう、言うべき言葉を忘れてしまったらどうしようと、失敗への不安は尽きず、私はそわそわと気が気ではなかった。
そんな私に気づいたレガート殿下が傍に寄り添ってくれていたのだけれど、余計に本番のことが頭から離れなくなってガッチガチになってしまったので、そっと距離をとって見守ってくれている。
このつかず離れずの距離がありがたいのだけれど、正直を言えばこれはこれでガッチガチになるのである。
何故ならば、レガート殿下の正装が格好良すぎるから。
白を基調としたその装いに金の装飾が映えて、腰に下げた宝剣も似合っている。
筋肉はその正装の下に押し込められスラリとして見え、誰がどう見ても一国の王子である。
キラキラと華やかな装いが似合うのは、やはりレガート殿下の体躯も顔も、一言で言えば『格好いいから』である。
決して見た目で好きになったつもりではなかったけれど、結局はその顔も好きだったのだろう。
そう言えば前から眩しいと思っていたしな、と考えていると、遠慮がちなノックが響いた。
恐縮せんばかりの顔を覗かせたのは、この城に仕えている女官だ。
「和やかにお話しされているところを申し訳ありません。あの、家族なのだから招かれるべきだと仰っている方がおられまして、確認をと……」