00,良い男、ビギニング!!
美川家は、平安時代から現代も続く巫覡の家系である。
先祖が「水神の寵愛を受けた」とされ、人智を超えた物理的治水術を行使できると言う。
美川は、世のため人のために在り続けた。
そして人々が求める声に応えるべく、その血統と筋肉は進化を続け――
「……普通の子に産んであげられなくて、ごめんね」
床に伏した母が弱々しく手を伸ばし、今にも泣き出してしまいそうな息子の頬を撫ぜた。
息子はまだ七歳だと言うのに、筋骨隆々として、テレビで見るようなプロレスラーにも引けを取らない体格をしている。
その身ひとつで荒れ狂う河川を鎮められるほどに発達した、実に美川的肉体であった。
なんと頼もしい事だろう。
しかし、世は現代社会……。
治水を始めあらゆる【奇跡】が科学によって再現され、特別な力が不要になった時代。
巫覡への畏敬を失ったこの時代において、彼はその歳不相応な恵体を周囲から気味悪がられ、心無い言葉や視線に晒されているのが現実だった。
……美川の在り方は、何も変わっていない。
ただ、世界が変わり果てた。
畏敬と共に尊ばれるはずの巫覡が、怪物として畏怖され目を背けられる世界に。
「悲しい思いをさせてしまって、本当にごめん」
母は悔やんでいた。
水神の寵愛なんてものに負け、愛する我が子を普通の人として産んであげられなかった事を。
……美川と言う存在が、決してやましいものではない事は理解している。
そもそも彼女が愛し、結ばれたのもまた美川の血統。
だがそれでも、悲し気な息子を見ていると……己の無力を恨まずにはいられないのだ。
「……違います、母上」
そんな母の謝罪に、息子の口から放たれたのは否定であった。
「僕はこの体で、悲しい思いなんて少しもしていません」
息子は「泣いてなるものか」と拳を堅く握り、決壊寸前のダムめいた瞳で母の顔を真っ直ぐに見据える。
「ただただ悔しいのです。母上にこんな謝罪をさせてしまっている、自分の不甲斐なさが」
「……!」
たっぷり溜まった涙液の奥にありながら、その瞳はどこまでも真っ直ぐ輝いていた。
息子の言葉が、母を気遣ってのでまかせではなく、本心から紡がれている証左だ。
「僕がもっと上手く生きていれば……少し体が大きいくらい些事だと思われるほどに、立派な人間として生きていれば、もっとお友達をたくさん作って……母上にこんなにも心配をさせずに済んだ。そう思うと、悔しくて悔しくて、仕方が無いのです……不出来な息子で、申し訳……ありません」
やはり耐えきれなくなったか、息子はその無骨な手で目元を覆い隠した。
そんな大きな体でどうやって出しているんだと驚いてしまうくらい小さな小さな声で「……ごめんなさい……」と呻く。
「……あはは……母さん、とんだ早とちりね。恥ずかしい勘違いをしていたわ」
……我が子を過小評価するなど、親としてまだまだだ。恥ずかしい。
そんな自嘲も交え、母は余力を振り絞り口角で頬を押し上げた。
泣き震える愛息子へ、力いっぱいの笑みを向ける。
「皿助。あなたはまだ、幼いだけ。とっても優しい素敵な男の子。いつか必ず、誰からも愛される【良い男】になる。――少し特殊な体で生まれたくらいで、心配する事なんて何も無かった」
この子に必要なのは、慰めや謝罪などではない。
叱咤と激励――親として最期に示すべきものを確信し、母は息子の頬を撫でていた手を放した。
掌をいっぱいに広げ、息子の前へ差し出す。
その所作は、この母子の絆。
昔から「二人で約束を交わす」時には、掌と掌を合わせてハイタッチをしてきた。
「ほら、いつまでも泣いているの? 良い男が滴らせる水は、決して涙ではない。分かるわね?」
「……はい……!」
「よし、良い子……母さん、天国でも――ううん、仮に地獄に堕ちたって、来世に生まれ変わったって、しっかり見ているから。しんどい時は休んでも良いけど、元気な時はちゃんと頑張るのよ? それから、私の分も長生きしなさい」
「……うん……がんばる……! 絶対、長生きする……!」
涙声と共に零れたその言葉は、先ほどまでのカッコつけた喋り方とは違う。
七歳の男子として相応な言葉。されど、そこに宿る信念は大の大人にも負けはしない。
息子は涙を拭った手を大きく広げて、母がかざした手に添い合わせる。
母子の絆、掌と掌を重ねて、誓う。
「お母さんがずっと笑って見ていられるように、ぜったい……良い男になってみせる!」
美川皿助、当時七歳。
この日の誓いを胸に、彼は英雄としての――否。
あらゆる涙を拭い去る【良い男】としての人生を歩み始めた!