理不尽な目に遭ったときの自分の守りかた
みなさまごきげんよう。
もしくは初めまして。くろつです。
今回のお題は、日々の小さな(でも積み重なると地味にダメージがでかい)理不尽のかわしかたについてです。
実は過去エッセイにご感想を頂いたなかに、個人的にちょっと考えさせられる文章がありまして。
それは「自己中心的な人間に虐げられてきた」という記述だったのですが、これを読んで私は思いました。
そっか、そう感じるのって自分だけじゃなかったんだ。
そうだよね、自己中心的な人間が周囲にいると、虐げられるよね。簡単にスルーなんて人間なかなかできないよね。
しばらくそのことを考えていたところ、なんとなく自分なりのアンサーが出たので、エッセイに書きたいぞってなりました。
ご感想及び引用にご快諾を下さったかた、誠にありがとうございました。
◇◇◇
理不尽。
これについては、お読み下さっている人それぞれが、日常で起こる避けづらい嫌なことを思い起こして下さればグッドです。
通りすがりの人から悪意をぶつけられることもあるだろうし、距離をとろうとしてもとれないような身近な人の悪意もあることでしょう。職場とかもそうで、無神経な人がいるからといって、行かないという選択肢はなかなかない……。
いちいち「えっそれちょっと待って?」と声をあげるほどではないけれど、後になるほどじわじわいやな気持ち。
あるある、そういうことって。
まぁ、かくいう私自身、短所渦巻く人間でして、「あれっ、さっき言葉選び間違えたぞ……」と思って冷や汗をかく時もあります。
それに気がついたらできる限り、「さっきごめんなさい」と勇気を出して伝えるようにはしているんですけどね。
自己中心的だったり、デリカシーがなかったり、笑顔の裏にきっちり悪意があったりする人が一定数いて、理不尽な思いをすることもたびたびある。
そんな時、「いろんな人がいる」とか、「気にしないほうがいい」とかよく聞きます。
それはもちろん真実で正論なのですが、それで本当に気にしないことができる人間ってどれくらいいるんだろう?
──で、結論から言うと、私の出した答えはこう。
「~よりも、幸せになる」
そう、理不尽な悪意をぶつけて来た人よりも、自分のほうがひそかに幸せでいよう。
ちょっと腹黒さがのぞいてる気がしないでもないですが、今回のエッセイはそういう趣旨の話です。
◇◇◇
ここでひとつ白状しますね。
幸せってなにか、ずっと考えてたけどわからなかったんです。
もちろん、大好きな人と会って話すとか、行きたかった山に登るとか、憧れのカフェでパンケーキを食べるとか、文句なしに幸せです。
でもそんなイベントは毎日ないうえに、時間とお金、ものによっては準備や体力も必要だったりします。
それだと、日々小さく(頼んでもないのに)積まれていくダメージのリカバリーにはなりにくい。
女性誌によくあるような、美味しいものを食べる、欲しかったものを買う、プチ旅行をする等々、それもちょっと現実的じゃないと私は思うんですよ。
だってモヤモヤするたびにそれをやってたら、太るし、休みがつぶれるし、お金も飛んでいく……。
なんか変だなあ。世間で「ストレス解消にはこれがよき」と言われてることと、私自身の実感が一致しないなあ。
そう思ってたんですが、雑誌に出ている『ストレス解消』が、基本お金のかかることなのは、考えてみたら当たり前でした。
だって資本主義経済下の雑誌の役割って、購買意欲をそそることだもん。
要するに、なにが幸せかって自分で考えるしかないんだなー。
そう気づいて、考えてみました。
私って、どんな状態が幸せ?
答えはこうでした。
「余裕があって安心感があること」
じゃあ、どういうのが「余裕があって安心感がある」状態だろう?
私の場合は、たとえばこんなことでした。
・ひとりきりで好きなだけ眺める朝日。
・あたたかさ。
・読むべき本もやるべき家事雑用もたまっておらず、やること全部終わってる状態。
・余裕があったから、ふと起きたイレギュラーな事態にも落ち着いて対応できた事例。
これが、お金もかけず、手間もそれほどかけないで、かつ自分で作れる「幸せ」の形でした(くろつのケース)。
致命傷にはならないけど、なんだかイラッとする。
さらっと笑顔でかわしたけど、よく考えたら失礼なこと言われたよね今。
何度もそのことを思い返しては嫌な気分になってしまう。
そんなことって日々あると思うんです。
そんな時、自分で作った自分だけの幸せを思い出してひそかににやけましょう。
そういうことです。今回のエッセイの趣旨は。
嫌なことはランダムにやってくるけど、そのたびにちょっとにやけるようなことも自分でつくれば、その都度、こまめに、リセットできる。
たとえば。
毒親が勝手に捨てたらしい自分のものをゴミ箱から見つけ出すとか。
追及しても本気で反省なんてしてくれませんから、心の中でこう思います。
今後はより周到に自分のものは自分で守ろうっと。と同時に、今日はよく眠れたから朝日を眺めてのんびりする時間がとれたんだったっけ。あれは我ながらいい時間過ごせたなあ。
考えてみたら毒親は幸せそうに見えないもんね。いつも聞こえよがしに不満や文句を呟いてるし。
うん、それに比べて今朝の私は幸せだったよ。
よし、今日もぐっすり寝て明日もまた余裕ある朝を過ごそうっと。
たとえば。
歩いていたら後ろからぶつかられて、謝るどころか暴言吐いて去っていかれるとか。
ぽかーん、でもああいう人が幸せそうにも思えないし、私は私で幸せだし。
そうそう、空気は冷たいけど今年見つけたレッグウォーマーがすごくよくて、ちょっとしたお出掛けが苦にならないんだよねー。冬でも寒さが気にならないっていいなあ。
そうだ、今日はあったかいお鍋にしようっと。んでさっきの人より確実に小さな幸せを積み重ねてやるー。
しかもこれ、受け身の幸せじゃないもんね。自分で作ってるんだもんね。
うん、私ってなかなかやる……。
◇◇◇
以上、私の場合の「~よりも、幸せになる」のテストケースを書いてみましたが、いかがでしょうか?
なにが快適で、なにに幸せを感じるかは人それぞれです。
と同時に、私自身もこの試みを始めたばかりです。
なので、これをお読みになったみなさまが「私はこうするといい感じよ」っていうのがあれば、ぜひとも教えて頂けると幸いです。
ぶっちゃけ、今の日本、気が立っている人が多めな気がしてます。
気が立っている人=なにかしらで切羽詰まってイライラしている人、とも考えることができるため、自分自身がそうならないことも大切ですし、そうした人から身を守るセーフティネットを作るって大事かなと思うんです。
このエッセイが、そうしたことを考えるフックになれたなら、そして互いの情報収集の場になれたなら、書いた人間としてとても幸せでございます。