2章B 謎のボタン
世界は残酷だ。貧富の格差の拡大は止まることを知らない。
日本にも絶対貧困の地域が各地に生まれている。各暴力団の抗争によって財産を失った者が多くいるのだ。警察官をはじめとする公務員の給料も決して高くはない。
だが、能力主義の暴力団に比べれば命を失うリスクは低いとされている。今の日本は、かつてほどの力はないが、曲がりなりにも国家だ。そこらの暴力団と比べれば安定している。
太郎とセレナは麻薬取引の調査として、スラム街に来ていた。周囲にはボロボロの小屋がならび、混沌とした街並みに人々が行きかう。
「相変わらず、ひどい状態です。」
「全くだ。」
セレナの言葉に太郎は同意した。
ここで生まれた者の多くは死ぬまでここで暮らすことになる。一攫千金などありえず、一生奴隷のような人生を送る。人種は様々。
日本が数十年前まで行っていた、発展途上国の労働者の大量受け入れで日本の人種は一気に多様化した。セレナの父親は、そんな労働者の一人から公務員の立場にまで成り上がれたものだと聞く。
だが、そのような事例は特殊で、それらの労働者の子や孫の多くは日本人に交じり、このスラムで暮らしている。
「こんな世界で俺を変えたい。でも、俺一人がそんなことを言っても、何も変わらない。」
「芽里先輩……」
太郎はもともと無責任な父親に捨てられた人間だ。
記憶はあいまいだが、5歳の頃父親から家を追い出され、しばらくスラム街を彷徨っていた。食事を与える物などなく、体はガリガリにやせ細っていた。身売り業者ですら、見向きもしなかったほどだ。
そんな命の危機にあった太郎を救ったのは、一人の警察官だった。太郎は偶然、とある事件の現場に居合わせ、その警察官に保護されたのだ。太郎はその後、その警察官の息子夫婦に引き取られ不自由のない生活を送ることができた。
今の太郎があるのは、警察官と親代わりをしてくれたその息子夫婦なのだ。太郎は、このことから警察官にあこがれ、夢を実現させた。
「先輩一人の力じゃ難しいかもしれないですけど、同じことを考えている人は世界中にたくさんいます。きっと、その人たちが集まれば。」
セレナの言っていることはとてつもない理想だ。叶うはずがない。
でもそうあってほしいと思うほど、太郎はこの現実を辛く感じていた。
そんな中、不意におかしな外見の男が、目についた。
男は黒い仮面をかぶっていた。デザインは真っ黒な顔面に赤い目があるシンプルな物。怪しさ満点だが、逆にここまであからさまだと逆に不自然だ。
太郎は、何となく関わりたくないと感じ、目をそらす。しかし、どういうわけかこの仮面の男は、太郎の方を見るや否や、こちらに近づいてきた。
「ようよう、そこのお二人さん!元気かい?」
男は太郎たちに話しかけてきた。
太郎たちは一応隠密調査のため警察だとわかる格好はしていない。男にとって二人は金を持っていそうなカップルあたりだとでも思ったのだろうか。
「何でしょうか。」
太郎は正直面倒だなと思いながらも、応じる。
「お兄さん、戦闘員とかやっていますか?」
「えっと、まあ一応、その部類に入りますかね。」
暴力団、護衛部隊、自衛隊、警察、あらゆるところで戦闘員は存在する。自分に戦闘経験があるかを答えたところで問題はない。
「戦闘員をやっていると、ピンチに陥ることってありますよね。」
仮面の男は、声のトーンを一段階あげて話す。武器商人か?
しかし、隊員一人に売り込むよりも組織単位で売り込んだ方が、効率がいい。これでは、目的が読めない。
「武器なら間に合っていますが。」
「いえいえ、武器ではなく、戦力です。現在わたくしの組織では、先着一名様限定で、ピンチの時に1回我々の組織からの救援が受けられるスイッチをお渡ししています。」
「は?」
ますます意味が分からない。1回だけ、組織の救援を受けられるスイッチ?子供だましにしても雑すぎはしないだろうか。
「何言っているんだ、あんた。」
この男は頭がおかしいのではないか。太郎はそう感じたが、どうにもこの男を振り切る気にならない。
最初は感じなかったが、話すうちに太郎は、この男に妙な親近感を感じるようになっていたのだ。
「まあ、騙されたと思って1回使ってみてください。」
男は太郎に、円形のボタンを渡すとそそくさと人込みに消えてしまった。
「な、何だったんでしょう?」
「さあ、だけど、あの男はどっかであったことがある気がするな。」
太郎は、心のどこかにぬぐえないモヤモヤを感じた。しかし、彼にそのことをゆっくり考える余裕は与えられない。
「先輩、本部から通信です。」
「どうした?」
太郎の問いかけに、セレナは緊迫した様子で答えた。
「至急、指定の場所に集合するようにと。見つかったようです、取引所の位置が。」