6章C 心から求めた助け
雨に濡れる路地。東京東部の下町の地域は、低層中層のビルでごった返していた。道行く人々とは目も合わせず、レインコートを着たゴードンはとある場所に向かって歩を進めていた。焦っても状況は変化しないことは分かっている。
しかし、自然と足早になってしまい、反対方向から歩いてくる人を避けるのも鬱陶しく感じる。
「着いた。」
雑居ビル街の一角にある、不自然に小ぎれいな建物。2階建ての無機質な鉄筋コンクリート製。事務所兼住宅のこの建物に入るため、ゴードンは、玄関に設置された機械にスマートウォッチをかざす。
スマートウォッチが一般的に普及したこの世界では、専用の機械にかざすことで、スマートウォッチがインターフォンを兼ねる形がとられている。
スマートウォッチから映し出されたホログラムには、黒いマントにフードを被ったゴードンと同じくらいの年齢の少年が映し出された。短髪の日本人の少年だ。
「来たな。ゴードン。入れ。」
彼が短く、そう発するとすぐにホログラムが消え、同時に玄関の鍵が自動で開いた。
ゴードンはやや緊張した面持ちで、その扉を開け、中に入っていった。
小雨が落ちる。傘を持ってくるべきだったかと、太郎は少し後悔する。
見慣れたはずの住宅街。静かな道。そんな自宅への道のりが、とてつもなく懐かしく感じた。確かに家には1週間近く帰っていない。
だが、それだけではない。この静かな町に、敵はいない。殺し合いはない。気を張ることもない。仲間を失うこともない。
家が見えてきた。3階建てのグレーのマンション。横の駐車場には半重力車両やホバーバイク、電気自動車などが止めてある。
マンションの入り口にたどり着いた太郎。一匹の野良猫が彼の前を駆けていった。
「お前は自由だな、猫さん。周りの事を気にせず、自分ことだけでいい。俺もそんな生き方をしてみたい。」
動物に話しかけるとは、自分は相当に疲れているな。太郎はそう考え、部屋に早く入ろうと一歩踏み出した時だった。
「よう!太郎。大丈夫か?」
聞き覚えのある声に、呼びかけられた。咄嗟に振り替えると、そこには、あの仮面の男、参次郎が立っていた。
「何の用だ。赤い鳥のリーダー。」
太郎はため息をつき、訝し気な目で参次郎を見る。彼の目には、これまでの警戒や驚きではなく、拒絶があった。
「そんな言い方ないだろう?その右手に持っている物が、すべてを物語っているぜ。」
参次郎は、陽気な様子を崩さず、指摘した。太郎の右手には、参次郎から渡されたあのボタンがあったのだ。
「そのボタンの効力、忘れたか?ピンチの時に押せば、俺が駆けつける。」
「いいや、覚えているさ。そうか、俺は押したんだな、このボタンを。」
太郎は、ボタンをじっと見つめた。押したことを忘れていたというよりは、意識的に記憶から消し去ろうとしていた、というのが正しい。
「何かの気の迷いに押してしまったのかな。気にしないでくれ。」
自分は、こんな信頼性の欠片もないボタンに手を出していたのか。太郎は自らの行動を、心の中で嘲笑った。
太郎は参次郎に背を向けると、マンションの中へ入ろうとする。
しかし、参次郎はそれで終わらせるつもりはなかった。
「本当に気の迷いなのか?」
短く、そう問う参次郎。シンプルなその問いに太郎は足を止めた。話しかけてきているのは、仮面をつけた反社会勢力の男。
取り合う義理はない。だが、無視することはできなかった。参次郎は続ける。
「お前は、心から助けを求めたんじゃないのか。このボタンを押したときも、今も。お前の心がピンチだから、誰かに駆け付けてほしかったんじゃないのか!」
確証はない。参次郎の考えすぎかもしれない。だが、今の太郎の姿を見るとそうとしか考えられなかった。
「素直になれよ!上司は騙せても、俺のことまで騙せると思っているんじゃねえ!」
参次郎に向き直る太郎。参次郎の表情は、相変わらず仮面に隠されていてわからない。彼がどんな顔をしているかも。
だが、太郎の心の中で、彼の太郎を叱る顏がありありと浮かんできた。
「何でもお見通しかよ。あんたは……」
太郎の目には涙がこぼれていた。
すべて、参次郎の言う通りだ。彼は、太郎の頭の中を開けて覗き見たように理解していた。
太郎は無理をしていたのだ。稲垣や、他の隊員に心配をかけないように。自分を保つために、感情を殺していた。
だが、それも限界だった。誰かにすがりたかった。導いてほしかった。
「仲間を……本当に大切な仲間を……守り抜けなかったんだ。」
彼の脳裏にはずっと、広山とセレナの姿があった。
「あいつらに俺はどう謝ればいい。殺し合って、殺し合ってその先に、仲間の笑顔はない……どう生きて行けばいいんだ!」
雨は強まっていく。
しかし、太郎は服が濡れるのもはばからず、叫んだ。参次郎はその叫びを嫌な顔一つせず聞いていた。
「苦しいんだ……辛いんだ……向き合えないんだ……」
太郎はその苦しみを、絞り出し、吐き出した。今までにないほどみっともなく、無警戒に。
一番親しい仲間を失ったことで真の意味で彼はその苦しみを味わっているのだ。参次郎はその全てを受け止め、口を開いた。
「俺も、大切な仲間を失ってきた。そのたびに絶望してきた。今でも引きずっている。」
参次郎と太郎は同じ人間ではない。性格的にはかけ離れている。
だから、太郎の気持ちをすべて理解できるわけではない。
だが、それは共感の可能性その物を消し去るものではなかった。
組織を動かすものとして、参次郎は戦いの中で大事な仲間を失うこともあった。その時の参次郎は、今の太郎につながる部分があるかもしれない。
「絶望を引きずるしかないのか。」
「そうだ。仲間の事をきっぱり忘れて立ち上がれるはずはない。どうせ、どう足掻いたってうじうじと後悔するしかないんだからな。」
参次郎の頭の片隅に、今は亡き盟友の姿が浮かんだ。三途の川の向こうで、まだこちらに来るなと叫んでいる。その人物が死んだのは3年も前の事だ。
しかし、参次郎の心にはいまだにその人物の姿が焼き付けられ、離れない。仲間の死は、自らを呪い続けるのだ。それでも、そこで立ち止まるわけにはいかない。
「俺は戦い続けなければいけない。とりあえずは今できることをやるしかないんだ。」
どれほど、縛られていても、呪われていても。世界の戦いは続く。命を懸けた闘争を止むことを知らない。
ならば、失った者に縛られてでも、今居る者を守るしかない。戦って、前に進むしかない。太郎は、参次郎を見てゆっくりと問う。
「できるのか。俺に。呪いを引きずり続けて前進することが。」
太郎の瞳は、表情のない仮面を注視していた。
「できるさ。俺はこれでも、人を見る目はある。お前は強き者だ。強き者なら、その使命を全うできる。」
強き者。根拠などどこにもない。
しかし、参次郎の言葉は力強く、太郎の体に大きな力を与えてくれるように感じた。
涙を拭き、顔を上げた太郎。そこには、やはりあの怪しい仮面の男がいるだけ。その、怪しい仮面に太郎は、救われた気持ちになった。
「赤い鳥のリーダー、あなたは宗教勧誘の天才になれるよ。人の心の弱いを理解し、適当なことを言えば、みんなコロッとあなたの言うことを聞くようになるよ。」
太郎の皮肉のこもった言い方は、失礼極まりない物だった。
しかし、その口調はとてもすがすがしい。今まで虚ろであった心の中を何かが満たしてくれたようだ。参次郎はクスっと笑う。
「皮肉を言えるほど回復したならもう問題ないだろう。でも宗教団体は興味ねえな。ハハハハハ!」
参次郎の目的は、太郎にはわからなかった。名もなき一人の警察官の手助けをして、赤い鳥の利益になるのだろうか。
気まぐれなのか、目的をもってやっているのか。それでも、太郎は参次郎に大きな好感を持った。きっとこのように、赤い鳥の隊員一人一人と向き合ってきた人間なのだろう。
そんな中、参次郎は唐突にとある人物の名を出した。
「そうだ。お前、警察なら稲垣さんのこと知っているか?」
「当たり前だ。あの人から多くの事を学んだ。それで?」
赤い鳥と警察はかつて何度か戦闘を行っている。稲垣の名を、参次郎が知っていることは不思議ではない。しかし、なぜ彼の名が出てきたのか。参次郎は太郎の答えを聞くと、安心したように笑った。
「そうか。じゃあ、お前は大丈夫だな。あの人は心強い。」
どうやら、参次郎は稲垣の事を高く評価しているようだ。
「稲垣さんは俺たち赤い鳥の事もよく思ってくれている。」
「そうなのか。」
「口には出してくれないがな。俺の目に狂いはない。稲垣さんは赤い鳥のよき理解者だ。」
太郎は、これまで稲垣が、どこかの暴力団のことを理解したと聞いたことはなかった。だからこそ、かつての太郎なら、参次郎から伝えられたこの内容を信じることはできなかっただろう。
しかし、今は違う。参次郎のような人間なら稲垣と上手くやっていけそうな気がしたからだ。
参次郎は太郎に、
「じゃあな。」
というと、ゆっくりと立ち去って行った。
「ああ。」
太郎は、家族を見るような目で彼の後ろ姿を見送った。




