芸術性とエンタメ性の違いについて考察していく。
よくよく世間では「芸術性とエンタメ性、どちらをどれほど取るか」などという文言があるが、僕個人から言わせれば、これは大いに間違いだ。
なぜ間違いなのかと言えば、この言葉はさも「芸術性とエンタメ性は反比例しており、どちらか片方を立たせればどちらかが立たなくなる」と言っているように見えるからだ。
僕の意見としてはこうだ。「芸術性はエンタメ性に内包される」と。
そも、エンタメ性とはなんであろうか。これの答えは、「より多くの人を楽しませること」であると僕は思う。
無論であるが、ひとつの作品で全ての人間を楽しませることなど不可能だ。どう足掻いても我々が楽しませられる人間は、作品を見る人口の7割、多くても8割もいかない(なんなら半分程度になるかもしれないが)程度である。そういう意味で、エンタメというのはある種の切り捨てが不可欠であり、ターゲットを絞る行為は必須であり、且つ仕様の無いところがある。
しかしそれは、例えば根本的な思想性や根差した文化性、そうしたものや個人の人生経験などから来る好みや性癖の違いで切り捨てるべきであり、単に作品の描写の仕方や作り方という面から切り捨てていくのは違っている。加えて言うが、特に僕の言った切り捨て対象は、全体的に尖っている(好みや性癖の偏りが激しく、自らの好み以外は受け入れられない人間)者に限定しており、世の大半を占める偏っていない人間はこの限りではない。
そこで先の話に戻るが。なぜ芸術性はエンタメ性に内包されるのか。それは、そうした作者個人の思想性や作品内におけるテーマへの表現、そう言ったある種「芸術性」と言える部分についての描写が好きな人間というのがたくさんいるからだ。
例えば、鋼の錬金術師における一例を見ていこう。この作品にはある人物の人格から分離した七つの大罪をモチーフにしたキャラクターがいるが。その中でも「強欲」の精神を持つキャラクターは、最期の最期に、自らを慕う仲間たちを見て、「色々欲しがってたけど、本当に望んでいた物はもう手に入れていた」と悟り消滅する。
そしてだが、この強欲は「とある人物」から分離した者であるのだから、つまるところ、この強欲の「望み、欲しかった物」というのは、元になった人間が本当に欲しかった物と同一である、ということが読み取れる。これは、本作を読んだ方であれば何か思う所がある物であると僕は思っている。
他にも、パワプロクンポケットという全年齢対象ゲームがあるが、この作品はCERO:A、すなわち子供向けとも言える内容である。にも関わらず、そのシナリオは戦争や虐殺、人間の醜さや陰鬱さをこれでもかというほどに詰め込んだ残酷な内容となっている。
それは、おそらくだが、ある種のスタッフからのメッセージであり、そして「子供」に対する信頼の証であろうと僕は考えている。
世の中は残酷である。ゲームや小説で描かれていることなど目ではない残虐非道や理不尽が目白押しだ。
当然であるが、夢は現実に抗うことはできない。現実と戦うには、現実と言うのを理解せねばならない。
このゲームはおそらく、そうしたリアリティというものを子供たちにも示すためにこのようなシナリオを作っているのではないかと考えている。現にこの作品の最後は、それまでの恒例だった流れを無視して『子供たちが世界を救う』という終着点に落ちている。
とまあ少し作品語りが過ぎたが。とにかく、僕を含め、このように作品内の思想性や象徴性、芸術性と言うのを好む人は多く、またその作品が好きであればあるほどこうした部分に興味を持つのは当然と言えよう。
となれば、当然であるが。読者はこうした部分を楽しんでくれるのだから、当然、あった方が良い、ということになる。作者個人の『描きたい物』をシナリオに組み込むことは、読者の興味を尽きさせず、何度見直しても楽しい作品にすることは間違いない。
故に、「人を楽しませること」が本懐であるエンタメ性に、こうした芸術性と呼べる部分は内包される。だからこそ「芸術性とエンタメ性を相反した物」として捉えるのは間違っていると僕は思う。
他方で、一つ重要な点がある。そうは言っても、なぜこのような表現が生まれたかと言えば、事実として、作者が芸術性を詰め込もうとすればするほど、確かに大衆が楽しめなくなる要素が増えていくことが多々あるからである。
芸術性とは、作者個人の性癖や思想性、物事への捉え方というのを詰め込み、言わば「自己表現」をどれだけしているか、という概念である。ある種の個性とも言えるだろうが。
自己表現は楽しい物である。自分の中にある様々な感情や思想、そう言った物を詰め込む行為は心の底から興奮する。が、それ故に作者は自己表現に没頭し過ぎてしまい、あくまで「人を楽しませる」というその大前提から離れてしまうことがある。
エンタメ性と言うのは、実のところ芸術より遥かに繊細な物である。当然とも言える。芸術性が自分と向き合い好きに描くことであるとするなら、エンタメ性は他人にそれを伝える行為だ。自分だけが納得していればそれで良いのか、他人にそれが理解できねばならないのかということを考えると、後者の方が圧倒的に難しいことがよくわかるのではなかろうか。
繊細であるが故に、何よりも「冷静さ」が求められてしまう。このような表現をすれば人々はどう捉えるだろうか。今ここで私が脱いだら果たして人は何を感じるだろうか。そうしたことを常々感じ、的確に把握しなければ、人は作品を楽しんでくれなくなる。今意味の分からない文言が混入して困惑しているだろうが、まさにこれが失敗例なのである。
すなわち、「相反している」のではない。性質としては確かに真逆な一面があり、それ故に「失敗しやすい」と言うのが正しい言葉なのだ。
人間には承認欲求がある。それ故に自分の感情を吐き出す行為は楽しく、そして欲望が絡むと人間は失敗しやすい。冷静さを失えば、作品のテーマやコンセプトから逸脱し、ただ自己主張を並べるだけの厄介な作品と相成ってしまうことも多々ある。というか大体そうである。ツイッターでお気持ちを並べ連ねる行為が如何にまずいかは皆々理解できると思うが、しかし愚痴というのは一度吐き出すと止まらない物。人間誰もがそうで、これは仕方が無いのだが、しかし、それをするのであれば、せめてまずい書き方をしていないかだけはチェックするべきである。
これは僕個人の創作論であるが、優秀な作品ほど作り直しを重ねている。物語は幾度とない修正を重ねることでようやく完成するのだと僕は思っている。これはまあ、とあるシナリオライターさんがツイートをした、『納期まで修正を重ねるだけ』という言葉が元となっているのだが。
加えて書くと、作品を皆に見せる前に幾度とない修正を重ねると、不思議な事にその後の展開がすこぶる描きやすくなる。皆々様も試してみてはいかがだろうか。