第九話 ユキヒサ、役人と論を交わす之事
山人とは、山に棲まい山で一生を過ごす民のことを指す。
普通のアキツ人――山人に言わせれば、「平地もん」だ――とは風俗習慣がまったく異なり、人里に下りてくることはめったにない。
山々を巡って暮らす彼らを捕捉するのは幕府も諦めており、人別帳には記載がなく、公式には存在しないものとして扱われる人々だった。
「ついたぞ。ここがあたいらの村だ」
「ここがセンの村か。何も見当たらぬが……」
「ただの山ん中じゃねえか」
道中でセンと名乗った少女が足を止めたが、ユキヒサとバンゾクにはこれまでと変わらぬ風景が広がっているようにしか見えない。
首を傾げていると、メガネを口を挟んだ。
「あそことあそことあそこが家っすね。で、たぶんあそこが炊事場」
メガネが指差した先に目を凝らすと、木々の上にそれらしきものが見えた。
「なんだ平地もんのくせにわかるのか。おもしろくね」
「物書きは目端がきくんすよ」
口を尖らせるセンに、メガネはけらけら笑っている。
山中をいくら歩いても息を切らさない体力といい、高価な短筒を持っていることといい、いまひとつ正体のつかめない女であった。
「まあいい。あたいんちに招待してやる」
「おう、その前にこいつはどこに置けばいい?」
「あっちに湧き水がわいてるから、そこで冷やすといい」
「そうか。じゃあ先にこいつを冷やしてくるぜ」
肩に大きな猪を担いだバンゾクが歩いていく。
こちらに来る途中に見かけて捕らえたものだった。
エンキョウで動きを止め、短刀で心の臓を突く手際は見事なものだった。
これでたらふく肉が食えるぜ、とバンゾクはすっかりご機嫌になっている。
センの家は、太い木が3本並んだその樹上にあった。
ぱっと見ただけではわからないが、よくよく見ると梯子がかけられており、それを登って出入りするのだ。
「茶だ。飲め。マツバを煮出したものだ」
ユキヒサはセンが差し出した茶をすする。
味はほとんど普通の茶と変わらない。わずかに青草のような匂いが混じり、それがかえって野趣があり面白い味わいになっていた。
「ふむ、うまいな」
「小生も好きな味っすねえ。普通の茶よりおいしいっす!」
「そうだろう。あんなものにわざわざ大枚を払う平地もんはバカだ。後で淹れ方を教えてやるよ」
バカと言われてしまい、ユキヒサは思わず苦笑いをした。
だが、山で手に入るものでこれだけの味を楽しめるのなら、バカ扱いでもしかたがあるまいと妙に納得してしまう。
「あたいたちが平地もんから欲しいのは塩と味噌ぐらいだ。山から海にはいけねえし、味噌も作れねえからな」
「なるほど、そういうものか」
「山人の暮らしも興味深いっすねえ」
あれこれと雑談をしていると、バンゾクが上がってきた。
差し出された茶をがぶがぶと飲み干し、遠慮なくおかわりを要求している。
「それにしても、なぜこの山はこうもサルオニが多いのだ? 民も困っておろう」
「普通は代官所の連中が退治するし、手に負えなきゃ藩兵も援軍に来るだろうよ」
「それは……」
「これも何かの縁だ。何か助けができるのなら力を貸すぞ」
言いよどんでいる少女を促すが、続く言葉はない。
何か言いづらいわけでもあるのだろう。
たとえ命を救ったとはいえ、まだ出会ったばかりだ。
無理に聞き出すことはあるまいとユキヒサが考えていると、外から何やら騒がしい音が聞こえてきた。
「代官所の使いである! 村長はおるか!」
外を覗くと、数人の武装した侍がいた。
代表らしい役人風の男が、応対に出た山人の老爺と何やら話をしている。
押し問答の末、老爺が突き転ばされるのを見たユキヒサが飛び出した。
「待て待て、何を乱暴しておる」
老爺との間に立ちはだかったユキヒサを見て、役人が一瞬たじろぐ。
およそ山中には似つかわしくないユキヒサの美貌に気圧されたのだ。
「こ、こやつらは人別帳にも名のない化外の民。本来ならば手打ちにしたところで文句を言われる筋合いはない。こうして話をしてやっているだけでも代官様の温情なのだ!」
「山人であろうが人は人。無体を働いてよい道理はない」
「こやつらは御定法にも定めのない獣のようなもの。獣相手に無体も何もない!」
「2本の足で歩き、泣き、笑い、人の言葉を話す。これが獣と同じと申すか?」
「ふん、当然であろう。こんな山の中で過ごすものなど獣と同じよ」
「なるほどな。では拙者の目の前にいる、2本の足で立っているくせに物の道理がわからず、論もまともに交わせない。おあつらえ向きに山の中にいる。これは獣と同じでよいな?」
ユキヒサが一歩踏み出し、斬雪の鯉口を切る。
凍てつくような殺気を浴びせられ、役人はたまらず尻もちをついた。
「ほう、2本の足でも立てなくなったか。これはますます獣だな」
「ひ、ひぃ。お、お前ら何をぼーっと見ておる! この無礼者を叩っ切らんか!」
「まあまあ、お役人さんよ。そう短気を起こすなって。土産をやるから今日はこれで帰ってくんな」
ユキヒサの背後からぬっと現れたのは、先ほど仕留めた猪を担ぐバンゾクだった。
大人の男数人がかりでも持ち上げられそうにない巨大な猪を、小石でも放るかのように役人に向かって軽々と投げる。
どう、と地響きを立てるそれに、役人のみならず他の侍たちまで思わず後ずさりをした。
「ば、ば、化け物か?!」
「おいおい、こんな素敵なおねえさんを化け物扱いはひでぇんじゃねえかい?」
「こ、ここは一旦退くぞ! いいか、立ち退きの期限は明後日までだ! 明後日もここにおればどうなっても知らぬぞ!」
役人たちは捨て台詞を残してほうほうの体で逃げ出していった。
その様子を見たバンゾクが再び声をかける。
「おーい、土産を忘れてるぞー」
「そんなもの要るかっ!」
せっかくうまそうなヤマクジラなのにもったいねえ、と言いながらバンゾクはにやにやと笑った。
いつの間にやらメガネまでバンゾクの隣に立っている。
「そんなこと言って、あげるつもりは絶対なかったすよね?」
「ったりめぇだ。これはオレの晩飯になるって決まったんだからな」
バンゾクは猪を担ぎ直すと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや思ったけどよ」
「なんだ、バンゾク」
「若様ってけっこう気が短けぇよな」
「たしかにそうっすねえ」
大声で笑う二人に、ユキヒサはむっつりと黙ることしかできなかった。