第七話 ゲンノジョウ、旅立つ
「ほう、これがヌノイチの名物、コオリエビか。なかなかの美味だな」
「とってもおいしいですねえー」
ユキヒサたちがヌノイチ藩を立ってしばらく後のこと、二人連れの男女が宿場町の煮売り酒屋を訪れていた。
男は長身の美丈夫であり、日に焼けた筋肉質な身体をしている。
女の方はまだ少女というべき年頃だ。
黒く長い髪をしており、小柄でまるで人形のような愛らしさだった。
「この店をユキが訪れたのは間違いないようだな」
「そうに決まっていますよ、お兄様。ユキヒサ様でなければ、こんなことになるはずがありません」
煮売り酒屋を訪れた二人の男女はゲンノジョウとスイレンの兄妹だった。
ゲンノジョウはタダヒサを相手とした修練によりめきめきと実力を上げた。
名実ともにマエナガ藩最強となったことで剣術修行を名目とした旅に堂々と出ることができたのだ。
もちろん、主な目的はユキヒサの後を追うことであったが。
「それにしても、この人気はわけがわからんな……」
「ユキヒサ様なら当然です! ちょっと、おねえさん、ここで何があったのか教えてもらえませんか?」
スイレンが店の女給を呼び止め、話を聞こうとする。
わからないことは聞くしかあるまいと、ゲンノジョウも納得して女給の手のひらに小銭を載せた。
「若様のことだね? あんなおきれいで心根がまっすぐなお武家様は他に見たことがないよ……」
小銭を懐にしまった女給はうっとりした表情で話をはじめる。
なんでも、数百人のヤクザに襲われた店をユキヒサとそのお供のたった三人で撃退して守ったそうなのだ。
邪妖の力を身につけ、全身を炎に変えるヤクザの頭目さえ、一刀のもとに斬り伏せたらしい。
「数百人か、ユ……いや、その若様とやらは相当腕が立つのだな」
「腕が立つなんてもんじゃありゃしませんよ! あれこそ古今無双ってやつだね。ムサシだってコジロウだって若様にはかなわないだろうよ」
「そのとおりです! ユキヒ……もがもが」
「ユキヒ? なんだいそりゃ?」
「あいすまん。コオリエビの湯引きをくれ」
「あいよっ! 追加注文ありがとうね」
ユキヒサと言いかけたスイレンの口をゲンノジョウが慌ててふさぐ。
ユキヒサは身分を隠して旅をしているのだ。それが露見してしまうような言動は慎まなければならない。
「それで、どうしてあの席だけ妙に人気があるのだ?」
話題を変えようと、ゲンノジョウは店の一角にある席に目をやる。
その席だけは特別料金がかかるようで、ユキヒサの似姿とおぼしき錦絵やらなにやらでやたらと飾り付けられているのだ。
「ふふふ、どうしてだかわかるかね?」
「わからぬから聞いているのだ」
「決まってます! あの席にユ……若様という方がお座りになったのですね!」
「おお、お嬢ちゃんわかってるねえ。湯引きの分はおまけしてあげるよ」
「当然です! 私はこんやく……もがもが」
「なんだって?」
「すまぬ、こんにゃくも追加で頼む」
「いっぱい食べなさるねえ。ありがとうね!」
再び口を滑らせかけたスイレンの口をゲンノジョウがふさぐ。
女給から話の続きを聞くと、ようやく話が飲み込めてきた。
ユキヒサはこの店を襲い、焼き討ちにした数千人のヤクザを返り討ちにしたのだそうだ。
そしてヤクザの貯め込んでいたあこぎな金を取り上げ、それを店を立て直す費用としてそのまま渡したらしい。
最初の話からヤクザの数がかなり増えていたが……まあ噂話にはよくあることだ。
騒動の後、ユキヒサとその一行はこの宿場町をすぐに出立したらしい。
だが、わずか1日2日のことにも関わらずユキヒサの美貌と腕前によってあっという間に人気を博してしまったそうだ。
噂の美剣士の話を少しでも聞こうと、周辺から物見高い旅人が集まっているとのことである。
「忍びの旅だというのに、こんなに目立ってどうするのだ……」
「忍べばこそですわ! 身分を隠す必要があるものが、こんなに目立つことをするはずがないと裏をかいたに違いありません」
「ううむ、だと良いのだが」
「そうに決まってます!」
ゲンノジョウは思わず腕を組んで考え込む。
幼少の頃からユキヒサの小姓として仕えていたゲンノジョウはユキヒサの性格を知り抜いている。
ユキヒサは理想家肌で世間知らずだ。
頭は良い。勉強はできるのだが、そういう奸智を働かせられる人間ではない。
妹のスイレンはユキヒサを盲信しているので、彼女の見解は当てにならない。
おそらく、ユキヒサは普段どおりに行動をした結果、こんな騒動を巻き起こしているのだ。
「追うのは楽だが、さすがに心配になるな」
「そうですね。お口に合わないものを食べたり、ちゃんとお風呂に入れなかったりするかもしれません……」
ゲンノジョウとスイレンの心配事は根本的にずれていたが、ゲンノジョウはわざわざそれを指摘しない。
妹とユキヒサについての話をすると、どこまでもずれた会話が続くことをこれまでの経験で知っていたからだ。
女給からユキヒサの向かった先を聞いたところで、ゲンノジョウが話題を変える。
「ところで、お主はどこまでついてくるのだ?」
「それはもちろん、ユ……その若様という方に追いつくまでですわ!」
「そうか……」
ゲンノジョウが旅に出たのは正式に藩の許しを得てのことだ。
各地の剣術道場を巡り、修業をするという大義名分が用意されている。
一方で、スイレンの方はどうなのか。
正式な許可を得ているはずもないだろう。
婚約者の死に狼狽した結果、狂を発して出奔したとでも思われているのではないか?
そこまで考えを巡らせてゲンノジョウは眉間を揉む。
いまさら悩んだところで致し方がない。
帰そうとしたところで言うことを聞かないだろうし、自分と一緒であれば道中の安全は確保できるだろう。
「しかたがない。行き先はわかったのだ。明日からエドに向かうぞ」
「もちろんですわ、お兄様!」
ゲンノジョウは残った食事と酒を平らげると、今日の宿を取るために煮売り酒屋を出るのだった。
これにて第一章完結!
明日から第二章です。