第六話 ユキヒサ、生唾を飲む之事
バンゾクは露わになった体を自分でまさぐりはじめた。
下着をつけていないため、胴着を脱ぐだけで豊満な裸体が露わになるのだ。
到底片手にはおさまらない乳房を持ち上げ、その下を覗き込んだり、肩越しに背中を見ようとして身体を捻ったりしている。
突然の奇行に、ユキヒサが戸惑いつつ声をかける。
「お、おい。一体何をしているのだ? よもや邪妖に当てられたか……」
「ああん? そんなわけあるかよ。ああ、ちょうどいい。ちょっと背中を見てくれねえか。自分じゃ見えねえところみてぇでよ」
「かまわぬが……いったい背中の何を見ればよいのだ?」
「入れ墨がよ、薄くなったり消えてるところがねえか見てほしいんだ」
「そ、そうか」
ユキヒサは咳払いを一つして、バンゾクの背中に視線を集中した。
胴着で隠れていたところもびっしりと奇怪な入れ墨で埋め尽くされている。
服に隠されて日に焼けなかったのか、入れ墨の隙間に見える肌は白く、乳色をしている。
広くたくましい背中だったが、さりとて男のような荒々しさはない。
丸みを帯びており、なだらかで、磨き込んで光沢を放つ木工細工を連想させた。
筋肉の厚みのために、背筋がすこし凹んで見え、弦を外した弓のような曲線を描いている。
思わず見入りかけたユキヒサだったが、入れ墨がなくなっているところを見つけて我に返る。
「1箇所、入れ墨が消えていそうなところがあるな。元を知らぬから確かなことは言えぬが」
「ああ、そりゃそうか。うれしくってついうっかりしたぜ。どのへんの入れ墨が消えてるんだ?」
「ちょうど心の臓の裏。左の肩甲骨の下辺りだな。拳ひとつ分くらい入れ墨のないところがある」
「いまひとつわかんねえなあ。どこからどのへんまで消えてるのか、ちょっと指でなぞって教えてくんな」
「指で……だと……?」
思わずひるんでしまったユキヒサだが、己の理想を具現化したかのような背筋を前に知らずしらずに指が伸びていた。
肩甲骨の下、筋肉が少し薄くなったあたりに人差し指をそっと当てる。
柔らかい肉に指先が沈む感覚に、ユキヒサはなんとも言い難い羞恥をおぼえて指を引いてしまった。
「ひゃっ、くすぐってぇじゃねえか。そんなちょっと突いただけじゃわかんねえよ。しっかりなぞってくれ」
「あ、あいすまなかった。もう一度、やる」
ユキヒサは生唾をひとつ飲み込んでから、バンゾクの背中に再び指をそえる。
指先がわずかに沈む感覚を頭から追いやろうと努力しながら、ゆっくりと、確実に入れ墨のない範囲をなぞっていく。
握りこぶしほどの範囲をなぞり終えるまでに、次の雷鳴が聞こえるのではないかと思うほどに時間がかかった気がしたが、客観的にはほんの一呼吸か二呼吸の間のことであった。
「おお、小物のくせに思ったより大きく消えたな。ありがとよ! ……ん? おい、なに真っ赤になってんだ?」
「し、知らぬ。炎が熱かったせいだろう」
「なんだ、若様は童貞か? なんならオレが筆おろししてやろうか」
「不要だ。剣を極めるまで女色を断つと決めておる」
バンゾクはふーんとにやにや笑いでユキヒサの顔を眺めてくる。
胴着は未だに羽織っておらず、あられもない姿を晒したままだ。
視線をそらすのを面白がって、わざわざユキヒサの視線に合わせて身体を傾けている。
「ふむー、これは尊いっすねえ。次のヒットジャンルが生まれる瞬間かも……」
いつの間にか二人の間近までやってきていた眼鏡の少女が紙束を手にして筆を走らせている。
鼻息荒く何かを書きつける姿には異様な迫力とでも言うべきものがあった。
「おいこら、何を勝手に書いてやがるんだ」
じっと観察されていることに気がついたバンゾクが慌てて胴着を羽織り、紙束を取り上げる。
そこには、自分と思しき上半身裸の女と、女と見紛うような美しい若侍が繊細な筆使いで、じつに官能的な雰囲気で描かれていた。
「これは没収だな」
何を描かれているのか気がついたユキヒサがバンゾクの手から紙束を奪い取り、その絵が描かれた紙を破り取ってくしゃくしゃに丸める。
「そんなひどいっす! 絶対売れると思うのに!」
「こんないかがわしいものを売るつもりだったのか……」
「当然じゃないっすか! この三代目眼鏡亭幸福的結末保証得多利真千歩隈飄香管斎、これはと見込んだジャンルは必ず書くのが信条っす!」
「ああん? 三代目……なんだって?」
「三代目眼鏡亭幸福的結末保証得多利真千歩隈飄香管斎っす! エドじゃそこそこ名の知れた戯作者なんすよ!」
戯作とは近頃庶民の間で流行っている草双紙という本に書かれた物語のことだ。
挿絵が多く、平易な文体で書かれており、娯楽として親しまれていた。
「なるほど、それで拙者らの話を聞きながらやたらに書付を残していたのか」
「ずいぶん長ぇ雅号だなあ。面倒だからお前はメガネな」
雅号とは戯作者が作品を発表する際に本名の代わりにつける名前である。
戯作は教養のある身分の高い者が書いていることも珍しくなく、正体を隠す目的もあって雅号を名乗るのが一般的となっていた。
「長いって……こだわりにこだわり抜いてつけた雅号なのに……」
「三代目ということは伝統もあるのだろう。それを省略するのは気が引けるな」
「いや、自分が初代っス。伝統ありげに見せた方が売れるっすから」
「……メガネでよいな」
なおも食い下がるメガネをユキヒサは無視し、バンゾクに向かって尋ねる。
「先ほどの入れ墨はどういうことだったのだ?」
「おっと、説明してなかったか。オレの一族は大悪に呪われててよ、オレみたいな入れ墨だらけのガキがたまに生まれんだよ」
「なるほど、大悪の呪いか……。女子の身でそのような入れ墨があるのは辛かろう」
「ははは、そんな殊勝な理由じゃねえよ。こいつがあるとな、寿命が縮むんだと。放っておくと全身に拡がって死んじまうんだそうだ」
「なんと……」
重大事をなんでもないように語るバンゾクに、ユキヒサは言葉を失ってしまう。
「なんで若様が深刻になるんだよ。それでさっきのオニビみてえな大悪の手先が死ぬとな。入れ墨がちょっとずつ消えてくって寸法よ。それでヤマト中を旅して邪妖退治をしているわけさ」
大悪をぶっ殺せばそれだけで片付くんだけどよ、とバンゾクは言葉を続ける。
ユキヒサは、同じく大悪打倒を目指す同志に出会った偶然に素直に驚いていた。