第三十二話 ユキヒサ、ゲンノジョウと再会する之事
それはユキヒサがエド市中の散策を終え、ニホンバシの旅籠へ戻ろうとする中途のことだった。
「ユキ! ひさしぶりだな」
「ユキ……様! おひさしぶりですー!」
背後から声をかけられ、振り返るとそこに立っていたのはマエナガ藩で別れを告げて以来のゲンノジョウとスイレンの兄妹だった。
スイレンはつい「ユキヒサ」と言いかけたが、とっさに言葉を飲み込んでいる。
「おお、これはひさしいな。どうやって見つけた?」
ユキヒサは思わぬ再会に頬をほころばした。
ゲンノジョウと再会の約束をしてはいたものの、それが叶えられるとしても数年は後のことだろうと考えていたのだ。
この時代、人を探すというのはなかなか難しいことである。
大海に落とした針を探すほど……とまではいかないものの、エドだけでも百万を超える人がいる。
普通ならば、そう簡単に見つけられるものではない。
「どうやって、と言われてもな」
尋ねられて、ゲンノジョウは苦笑いを返した。
実際のところ、ユキヒサの足取りを追うのはかなり容易かったのだ。
行く先々で民に害をなす邪妖やヤクザものを成敗している上に、誰もが振り返る美貌の持ち主である。
それだけでも印象に残るというのに、個性的な旅仲間が二人もついているとなると忘れるものはいない。
街道沿いの茶屋で話を聞けば、十中八九、足取りがつかめたのである。
「それにスイレンまで一緒とはどうしたのだ?」
「どうしたなんてひどいです! ユキ様にお会いしたい一心で山を越え谷を越え……艱難辛苦の果てにやっとエドまでたどり着いたのですよ!」
「スイレンはほとんど物見遊山だったじゃないか」
両手を振って苦労を語るスイレンに、ゲンノジョウが呆れ顔をする。
途中、邪妖と一戦交えることはあったが、基本的に道中は穏やかなものだった。
目に入った悪党を見過ごせないユキヒサの後を追ってきたために、おかしな揉め事とは無縁の旅であったのだ。
「ともあれ、旅話もなんだ。そのあたりでメシでも食わないか?」
「それならあのお店がおいしそうですよ!」
三人はスイレンが指差す煮売り酒屋の暖簾をくぐった。
スイレンが美味そうだと感じた店は、たいてい当たりなのである。
* * *
「それにしても、大悪そのものに会ってしまうとは驚いたな」
「うむ、拙者にしても出来すぎだと思うほどだ」
「このつくだ煮、甘辛くておいしいですねえ」
ユキヒサとゲンノジョウが酒を、スイレンが茶を飲みながら話をしている。
注文をしたものは白飯の他に、芋の煮っころがしや小魚の塩焼きなど、おかずにも酒肴にもなるものばかりだ。
とくにスイレンが気に入っているのはエド湾で穫れる小さな貝を醤油と砂糖、生姜で甘辛く煮付けたものである。
ともあれ、ゲンノジョウが驚くのも無理はなかった。
大悪の名はアキツ中に知られているが、その姿や正体はさまざまに語り継がれていたのだ。
ある地方では巨大なサルオニ、ある地方では骨と皮ばかりの老人、そもそも人の姿をしておらず、無数の獣をめちゃくちゃにくっつけたような醜悪な怪物であるという言い伝えまである。
「だが、やつが名乗っただけなのでな。騙りの可能性もあれば、何かの術で姿を変えていたかもしれない」
「それもそうか。何しろ相手は大悪だからな」
「いえ、騙りの方はわかりませんけど、術でぜんぜん違う姿を見せていたって可能性は低いと思いますよ」
食事に夢中とばかり思われたスイレンが口を挟む。
「身体を大きく見せることは簡単ですけれど、反対に小さく見せようとするのはすっごく大変なんです」
スイレンの説明に、ユキヒサとゲンノジョウは黙って耳を傾ける。
ふわふわと暢気な少女に見えるスイレンだが、術の腕前は一級品だ。
ユキヒサはある事情からたまたま氷霊の力が借りられるだけであるし、ゲンノジョウに至ってはまったく術の素養がない。
術にまつわる事柄を分析するのであれば、この場では明らかにスイレンが適任であった。
「まず大きくする方ですけれど、術で作った何かを身にまとっちゃえばそれだけで済んじゃいます。たとえばこんな風に」
そう言って、スイレンは豆腐に薬味をたっぷり載せていく。
ついでにお気に入りの貝の甘辛煮も載せた。
載せた具材も含めれば、元の豆腐の倍ほどの高さになっている。
「次に小さくする方ですけど、お豆腐みたいにお箸で削って小さくするわけにはいかないですよね」
豆腐の端を箸で割り、薬味ごと口に入れると、スイレンは満足げに微笑んだ。
確かに豆腐は小さくなったが、これを生き物で例えるならば腕や足を切り飛ばして「小さくなった」というようなものだろう。
「身体を傷つけずに小さく見せようとすると、光霊様にお願いして目に入る光を歪めるしかありません。こんな風に」
スイレンが小声で何かを唱え、片手を豆腐にかざす。
すると豆腐の輪郭が一瞬歪み、それからひと回り小さくなった。
「これは見事だな。スイレン、光霊の術まで修めたのか?」
「まだまだ修めたなんて言えないですよ。ユキ様ががんばってるんだから、私もがんばらなきゃって!」
ユキヒサの言葉に、スイレンが両の拳を握りしめてみせる。
「てっきり道中は稽古を怠けているものかと思ったが、たいしたものだ」
「ふふーん、術の修行は奥が深いのです。兄様のように剣を振り回すだけが修練ではないのですよー」
今度は両手を腰に当て、胸を反らした。
ゲンノジョウは我が妹ながら調子のいいことだと内心でため息をついた。
それからしばらく、大悪の正体や目論見についての推測を話し合う。
民を苦しめ、アキツに害を為す存在であることに間違いはないのだが、どうもそのやり口が遠回りなのだ。
はじめに出遭ったオニビにしても、エドやオオザカなどの大都市に潜ませて町を焼けばただならぬ被害をもたらしただろうし、先日倒した暴食もはじめから小さな蟻のまま町に放たれていれば少なくともユキヒサたちでは為すすべがなかった。
そしてサツマによる倒幕にこだわるような物言い。
サツマと幕府の関係は良好とは言い難いが、決して険悪ではない。
自治が認められていることで、ほどほどの距離感が保てているのである。
戦をしてまで互いをどうこうしたいという動機がないのだ。
大悪の言葉は、そうした時勢をまるで理解していないように聞こえた。
「サツマか。これは奇遇だな。俺たちは縁があっていまはサツマの藩邸に世話になってるんだ」
「ほう、ならば先ほどの話をすれば何かつかめるやもしれぬな」
「……それから、剣術道場もある」
「そうか」
「約束はおぼえているな?」
「当然だ。武士に二言はない」
そこまで言って、ゲンノジョウがユキヒサを見つめるまなじりに力がこもる。
思わず、ゲンノジョウの声が大きくなった。
「俺が勝てば、マエナガに帰ってもらうぞ!」
「そして私と結婚するんですね!」
「馬鹿者! ユキは俺と所帯を持つのだ!」
ユキヒサの背後でガタリと椅子が揺れる音が聞こえた。
だが、真剣な眼差しの二人を前にしていちいち気にしている余裕はない。
(実際に大悪を目前にしたとなって、本格的に心配をしてくれているのだろう)
ユキヒサは薄桃色の唇の端に微笑み、「相わかった」とうなずいた。
「だがゲンよ、負けてやるつもりは毛頭ないぞ」
「百も承知だ。しかし、俺も強くなった。大悪退治は俺が引き継いでやる」
「お兄様が留守の間は私がユキ様のお世話をしますね!」
「まったくお前は調子ばかりがいいな……」
三人はひとしきり笑い、勘定を済ませて煮売り酒屋を後にする。
それに続いて、頭から布をかぶった大柄な人物が店を出た。
そして、さらにその後を、一匹の黒猫がついて歩いていた。