第三十一話 バンゾク、草双紙にのめり込む
暴食の事件から十日余り。
ユキヒサたち一行はエドでの滞在を続けていた。
ツタヤでの資料調査は続けているが、以前ほどは根を詰めていない。
先日の大悪の言動から、エド、あるいはユキヒサたち自身が大悪に狙い定められていると思われた。
そのため、エド市中に留まった方が釣り出しやすいだろうと考えたのだ。
三人は数刻ほどツタヤで資料に当たり、それから北の雷鳴の刻までは各々好きなように過ごしている。
歴史好きのユキヒサは街に出て史跡や古跡を巡り、メガネは紙束を持って戯作のネタ元になる噂話などを集めているようである。
バンゾクはと言うと、エド市中の散策にもすっかり飽きてしまい、旅籠の縁側に座って草双紙をぱらぱらとめくっていた。
バンゾクが手にしている草双紙の表題は「追放された悪役姫君は隣藩の若君に溺愛される」であった。
著者名は案の定「三代目眼鏡亭幸福的結末保証得多利真千歩隈飄香管斎」である。
暇なら自分の本の一冊でも読めと、メガネはバンゾクとユキヒサに自分の著作を数冊ずつ押し付けていたのだった。
はじめは興味もなく、ただ手持ち無沙汰だからと読みはじめたバンゾクだったが、次第に頁をめくる速度が遅くなり、読み飛ばしていたはじめの方へと舞い戻る。
最初は雑魚寝で眠そうな目だったのが、いつの間にか背筋をしゃんと伸ばし、1頁ずつ丹念に読み込むようになっていた。
ついでに、何かぶつぶつと呟きはじめている。
「それにしてもこのヨリトモってやつは悪りぃ野郎だな……目の前にいたら叩っ斬ってやるのに……」
と、拳を握りしめたり、
「なんでサトはヨシツネの気持ちに気づかねえんだよ! いくら鈍感って言ってもほどがあるだろうよ!」
と、何やら身を捩らせたりしている。
何のことはない。すっかりのめり込んでしまったのである。
一見、粗野で学がないように見えるバンゾクであったが、実のところ人並み以上に読み書きはできた。
ユキヒサほどではないが古典や大陸渡りの学問書に目を通したこともある。
だが、メガネが書くような戯作に触れるのはこれがはじめてのことであった。
読者を楽しませるために書かれた本という未知に触れ、またたくまにその虜となってしまったのだ。
読み進めるうちに、物語はいよいよ佳境に近づいていく。
主人公のサトが隣藩の若君ヨシツネに自分の想いを打ち明ける場面だ。
それまで以上に力のこもった挿絵が添えられており、小柄な少女と眉目秀麗な若武者が満開のサクラの下で向かい合っている。
――甘い匂いが、漂った。
何かの気配を感じたバンゾクが視線を上げると、庭先の茂みに一匹の猫がいた。
太陰の闇を思わせる真っ黒な毛並みが見事で、透き通った金色の瞳をしている。
どこぞの大名屋敷で飼われていてもおかしくない美猫であったが、鈴も首輪も付いていないあたり、野良のようである。
バンゾクは読書を邪魔され一瞬気分を悪くしたが、捕まえれば高く売れるかも知れないとすぐに思い直した。
猫はもともと、鼠捕りとして飼うことが奨励されたのだが、五代将軍が大の猫狂いであったことをきっかけに、現在では愛玩用としての価値を高めている。
美しい猫は、高価な茶器や刀剣並みの価格で取引されるのだ。
バンゾクは茶菓子代わりにつまんでいた煮干しを手のひらに載せ、猫から見えるようにほれほれと揺すってみせる。
目論見通り、黒猫は茂みを出てバンゾクの方へとやってきた。
しかし、ある程度の距離をおいてそれ以上は近寄らない。
焦れたバンゾクは、煮干しを一個、二個と放り投げた。
黒猫はそれを拾い食べながら、だんだんと距離を詰めてくる。
――甘い匂いが、強くなる。
「ほれほれほれほれ、いい子だ。こっちに来なー」
いよいよ手ずから餌を食べようとしたところで、バンゾクはさっと手を伸ばして猫を捉えようとする。
が、バンゾクのような達人であっても、猫の動きというのは読みにくい。
するりとかわされてしまい、その手がしっぽに撫でられるだけで終わった。
黒猫はそのまま元いた茂みの奥に隠れ、姿が見えなくなった。
バンゾクはちっと舌打ちをして、餌のつもりだった煮干しを口に放り込む。
しばらく茂みを睨んでから、煮干しを飲み込み、首をかしげる。
「しかし、さっきの猫野郎、しっぽが二股に分かれてなかったか?」
まあ気にするほどのことでもないか、とバンゾクは読書を再開する。
先ほどの頁を開いたまま、縁台に伏せておいたのだ。
草双紙に目を落とすと、何か先ほどとは印象が違って見えた。
ヨシツネの姿が、妙にユキヒサに似ているように思えるのだ。
「なんだこりゃあ。ひさびさに本なんて読んだもんだから目がおかしくなったのか?」
バンゾクが目をこする。
さきほど黒猫の尾に触れた方の手だ。
――甘い匂いが、鼻孔に満ちる。
挿絵は、ますますユキヒサのようになっていた。
もはや、瓜二つ。
相対する少女も姿を変えている。
それは、バンゾクとは似ても似つかない、手折れんばかりの華奢な姿。
肌は透き通るように白く、無論、入れ墨などどこにもない。
バンゾクは考える。
もしこの身に大悪の呪いがなく、入れ墨もない女であったなら。
幼少から武芸に打ち込むこともなく、邪妖や獣の代わりに花を摘み、野を駆け回る代わりに舞を楽しんでいたならば。
もし、そんな自分がユキヒサに出会っていたならば……。
「ええい、おかしなことを考えるな! なんだか調子が狂うぜ!」
バンゾクは草双紙を縁台へ乱暴に叩きつける。
気分直しに酒でも飲みに行こうと、紙入れを懐に入れて外へ出ていった。
その様子を覗いていた黒猫が、満足気に「ニャア」と鳴いた。