第三話 ユキヒサ、若様と呼ばれる之事
風切り音――などという生易しいものではない。まるで嵐のように轟々と音を立てながら、巨大な戦斧がユキヒサに次々と襲いかかる。
(この巨大な得物をこれほどの速さで……一体どれほどの剛力なのだ)
ユキヒサはわずかに冷や汗をかきながら紙一重で戦斧をかわしていく。
刃を立てず、斧腹が当たるように振るっているようだがこんなものが直撃すればただでは済まない。
また、その振り方のために攻撃の面が広く、かえってかわしにくくなっていた。
何やら誤解がある、というのはユキヒサにはわかっている。
声をかけてそれを解きたいところだが、その余裕がない。
ひとまず何とか間を作らなければならぬ、とユキヒサは大ぶりの一撃の隙を突いて距離を詰め、女の腹に向かって拳を放つ。
重ねた畳でも殴ったような感触。
鳩尾を突いたはずなのに、急所を突いた手応えがまるでない。
「何かしたかい? おぼっちゃん」
見上げると女が白い歯を剥いて凶悪に笑っていた。
続いて頭上から降ってきた斧の柄をかわし、その手を取ってアイキの技を放つ。
「おおおおお!?」
女の巨体が前につんのめる。
このまま投げきれる――そうユキヒサが考えた瞬間、石で固めたかのごとく女の体がぴたりと止まる。
片足を大きく前に出して踏ん張り、力ずくでアイキの技に抗したのだ。
アイキの皆伝を授かってから、こんな経験をしたのは父タダヒサとの組み手を除けば初めてのことであった。
「へへ、それなりに使うようだがよ。ヤマクジラをぶん投げるサツマっぽに比べりゃあぬるいぬるい!」
女は崩れた体勢からユキヒサの腕をつかみ、片手で放り投げる。
技も何もない、ただの力ずく、ただの腕力だ。
いかに華奢なユキヒサとはいえ、それを片手で無造作に投げるとは只者ではなかった。
投げられて宙に浮いたユキヒサに、戦斧の追撃が迫る。
ユキヒサはとっさに斬雪を振るってそれを弾く。
得物と得物を打ち合わせるのはマエナガ流刀術の流儀ではないが、どう考えても行儀よく戦ってあしらえる相手ではなかった。
だが、距離は開いた。
これまでの攻防で戦斧の間合いも読めた。
もはや多少怪我をさせても致し方あるまい、とユキヒサは刀を構える。
「へえ、いよいよ本気ってわけかい? おぼっちゃんの道場剣術に、ホンモノの喧嘩ってやつを教えてやるよ」
「道場剣術かどうか、見てから後悔するでないぞ」
二人の距離がじりじりと詰まっていく。
細身の美剣士と巨体の女豪傑、互いの高まる闘志が圧力となってぶつかり合っているようであった。
その緊張を、空気を読めないごろつきの声が破った。どいつもこいつもはだけた着物をろくに直さず、地面に這いつくばったままだ。
「いいぞ! ねえちゃん、そのまま畳んじまえ!」
「その男女をぶっ殺したらオニビの親分に顔つないでやるよ!」
「あんたなら用心棒として間違いなしだ!」
女の動きがぴたりと止まる。
「おい、お前ら。もう一回言ってみろ?」
「え? だから、あの野郎をやっつけたらオニビの親分に顔つなぐって」
「ああン!? てめぇらヤクザもんだったのか?」
「ひっ、そ、そうだよ。オレたちゃあオニビ一家のもんだ。姐さんはどちらの組のお方で……?」
片眉を釣り上げ、額に血管を浮かべた女がずんずんとごろつきに迫っていく。
ごろつきの襟首を掴み、片手で頭上まで持ち上げる。
「や、やめてくれよ姐さん。相手がちげえだろ……?」
「違わねえよ。オレは町衆をいじめる侍がきれぇだが、ヤクザもんはもっときれぇなんだよ、コラァッ!」
「ひゅっ……」
女が一喝すると、ごろつきは泡を吹いて失神した。
(いまのは気当たりの一種か?)
いまの様子を見ていたユキヒサが記憶を辿る。
どさくさで思い出す間もなかったが、ヤマトの南端の方にサツマと呼ばれる精強な武士団がいたはずだ。
巨大な戦斧を振るって戦場を駆け、現幕府のアキツ統一に最後まで抗ったと聞く。
その抵抗に手を焼いた時の将軍は、サツマに多くの自治を認める譲歩をして和睦にこぎつけ、ようやくアキツ統一が成ったのだ。
対外的にはアキツ国の一部となっているが、実質的には半独立勢力である。
そのサツマ武士が用いたとされるのがエンキョウと呼ばれる技だ。
裂帛の気合いを込めた雄叫びによって、敵の魂魄を震わせ金縛りにするのだという。
「おい、あんたはなんでヤクザと喧嘩なんてしてたんだ?」
「そういうことは先に聞け。拙者はな……」
「お武家様はあたいを助けてくれたんです!」
ユキヒサが答えようとすると、煮売り酒屋の女給が割って入った。
「そのヤクザものたちに襲われそうになって、危ないところをお武家様に助けていただいたんです!」
「ああン? こんな西の雷鳴も聞こえねえうちに女を襲おうたぁ、ブタオニも真っ青な了見だな、おい」
女が戦斧でごろつきたちの肩をトントンと叩きながら睨みつけていく。
「いや、さすがに襲おうとしたわけじゃ……」
「酌をさせようとしただけで……」
「任侠もんが言い訳すんのかッ!」
「ひぃっ」
ごろつきがまた二人、気を失って崩れ落ちる。
ユキヒサはこれついてはごろつきの言い分が正しいことを知っていたが、庇い立てする義理もなし、あえて訂正するつもりはなかった。
「そうとは知らず、迷惑をかけちまったな。すまなかった!」
「お主もよかれと思ってのことだろう。誤解が解ければそれでかまわぬ」
両膝に手を付き頭を下げる女をユキヒサはあっさり許した。
「ぼっちゃんがかまわなくてもそれで済ましちゃオレの女が下がるってもんだ。ああ、どうだ? メシを奢るからそれで手打ちだ」
「そんな気遣いは無用だが、振る舞い酒を断るのはかえって無礼か。よかろう、馳走になる」
「その煮売り酒屋でかまわねえよな。店の前を騒がせちまった詫びにいい酒をたらふく飲んで金を落としてやろうぜ。ぼっちゃんも飲めるんだろ?」
「もちろん酒は嗜む。だがそのぼっちゃんという呼び方はよせ。拙者はただの素浪人だ」
そうなのか……? と女が顎をさすりながら無遠慮にユキヒサを観察する。
「さっきの動きといい、その佇まいといい、ただもんにゃ見えねえけどな。まあいいや、それならあんたは若様だ。どこぞの偉いさんの隠し子ってとこだろ?」
「あ、ああ、ぼっちゃんでなければそれでいい」
当たらずとも遠からずのことを言われてユキヒサはどきりとした。
生真面目なユキヒサは嘘が苦手なのだ。
根掘り葉掘り聞かれてはたまらぬと、焦って別の話題を探す。
「そういえば、お主はなんと呼べばよいのだ? その腕前は只者ではあるまい。粗野な態度もどこか演技がかって見えるぞ?」
ユキヒサは直接名前を聞くのをあえて避けた。
サツマ者という推測が正しければ、遥かヌノイチの地まで旅している以上は何か訳ありのはずだ。
「それこそ買いかぶりだな。オレは最初っからこの調子よ」
「それが本当ならまるで蛮族だな。そうだ、お主はバンゾクと呼べばよいか?」
ボンボンだのぼっちゃんだの若様だのと散々からかわれたことに対し、多少の意趣返しを込めてユキヒサが言うと、女は高笑いをした。
「はっはっはっ! バンゾクか、いいなバンゾク! おう、オレはバンゾクだ。そう呼んでくれ!」
変わった女だ、と半ば呆れながらユキヒサは煮売り酒屋の暖簾をくぐった。