第二十九話 ユキヒサ、火柱に呑まれる之事
暴食の血液から湧き出した蟻たちは、床にこぼした汁粉のように周辺へと拡がっていく。
その速度は遅い。
だが、蟻に覆われた商家や町家、その残骸は、見る間に高さを失い真っ平らに均されていった。
「ったく、気色悪りぃなあ」
「しかし、たしかにこれでは我らでは手が出せぬな」
頭部を失った暴食の背から下を覗き込み、バンゾクは顔をしかめ、ユキヒサは腕を組んだ。
巨大な暴食を容易く屠った二人であるが、このような小さな敵を相手にすることなど考えたこともない。
せいぜい踏みつけて回る程度のことしかできないだろう。
「あのイカだかタコだかを相手にしたときの術は使えねえのか?」
「これだけ広がられてしまうと厳しい。それに術が為るまでの時間も足りぬであろうな」
こうして話している間にも、二人が立つ足場は徐々に低くなっている。
暴食から生み出された蟻たちが、暴食の身体を足元から喰らっているのだ。
「まさかメガネの読み通りになるとはなあ」
「美味しいところをメガネに持ってかれるみてえで気に入らねえな」
こうしている間にも、メガネは仕込みを進めているはずだ。
ユキヒサたちをも諸共に巻き込む策であったが、そうしてでも食い止めなければ、この蟻たちはエド中を食い荒らすことだろう。
「精一杯やったのだ。よかろう」
「オレはまだまだ暴れ足りねえけどな」
「まったく、お主の血の気の多さは土壇場でも変わらぬのだな」
「若様の沈着ぶりも変わらねえなあ」
二人は目を合わせ、からからと笑いあった。
「もうやれることがねえな」
「うむ、後はメガネに託すとしよう」
二人は肩を並べ、その場にどっかりと腰を下ろした。
そして、それが合図だったと言わんばかりに巨大な火柱が辺り一帯を飲み込み、天に向かって伸びる。
無論、ユキヒサとバンゾクの姿も猛烈な火勢の中に消えた。
その火柱は凌雲閣よりも遥かに大きく、遠くシナガワからでも見えたと伝えられている。
* * *
時は少々さかのぼる。
カンダ明神から暴食へと向かう途中、三人は走りながら言葉を交わした。
「大悪め、あのような怪物をどこに潜ませていたのだ」
「地面の下にでも埋めといたんじゃねえか?」
「町の下から出てきたっすからねえ。そんな昔から埋めてたとは考えにくいっすね」
暴食が現れたアサクサ周辺はエドの中でも古くから栄えていたのだ。
地面に埋めていたというなら、200年以上は前でないと計算が合わない。
「バラバラに散らしてた、ってとこっすかね」
「はぁ、バラバラだぁ?」
メガネは足を止めないまま、眼鏡をクイッと持ち上げる。
「メガネよ、どういうことだ?」
「見てのとおり、蟻を手本にした邪妖みたいっすからね。でっかいのが1匹だけってより、ちっちゃいのがたくさんいたって考える方が自然じゃないっすか?」
「それがどういうわけで大きくなるんだよ」
「合体っすよ! 合体! 合体は浪漫っすからね!」
ユキヒサとバンゾクは内心で首を傾げる。
物書きの発想というのは未だによくわからなかった。
「若様とバンゾクならあのデカブツはなんとかなるっすよね?」
「うむ、さほど苦戦はせぬであろう」
「背中に登っちまえば何もできねえんじゃねえか?」
「まったく、出鱈目っすねえ」
今度はメガネが内心でため息をつく。
一体何を食べれば人の身でこれほどの武力を身につけられるのだろうか。
「で、おそらくデカブツを倒しておしまい……とはならないと思うんすよね」
「どういうことだ?」
「たぶんバラバラに戻るんじゃないっすかね。大悪は『やったぜ、大勝利!』みたいなところから落とすのを好むフシがあるっす」
「まったく性格のいい野郎だな」
大物であればいくらでもやりようはあるが、無数の小さな蟻が相手となると武術や膂力でどうにかできる相手ではない。
バンゾクは無数の蟻が全身にたかる様子を想像してぶるりと身を震わせた。
「ってわけで、若様たちがデカブツを退治している間に、小生が周りに結界を敷いて、まるごと焼き尽くせるように準備するっす」
「結界とはなんだ?」
「こいつを使うっすよ」
メガネは懐から赤い宝石と、透明な宝石を取り出して見せた。
「なんだいそりゃあ?」
「火霊石と風霊石だな。それほどの純度のもの、なかなかお目にかかれぬぞ」
「巨大イカで懲りたっすからねえ。ツタヤさんにお願いして手配してもらったんすけど、こんな早く使うことになるとは思わなかったっす」
メガネは宝石を懐にしまい直し、説明を続ける。
「風霊石は上手く組み合わせれば火霊石の威力を高めるっす。火霊石も同様っすね。これをデカブツの回りに設置して、いざってときには『ドカン!』ってわけっす」
両手を広げて爆発を表現するメガネに対し、バンゾクが疑問を呈した。
「おいおい、それじゃオレと若様も焼けっちまうじゃねえか」
「そこはほら、若様にお願いすれば」
片目をつむるメガネに、ユキヒサが「うむ」と首肯した。
* * *
辺り一面の焼け野原と化したアサクサ凌雲閣周辺。
あらゆるものが黒い炭となっており、わずかな燃え残りがぶすぶすと音を立てている。
声を上げながら、その中心付近に向かって歩いていく一人の少女がいた。
少女はメガネを掛けており、当世風の小洒落た袴をまとっている。
「おーい! おーいっす! 若様ぁー、バンゾクぅー! 無事なら返事するっすー。無事じゃなかったら『無事じゃなーい』って返事するっすー!」
時折、まだ熱い場所を踏んでしまうのかアチチと悲鳴を上げながら歩いていく。
「耐火用足袋とか、草鞋とかそういうの作ったら売れるんじゃないっすかね。今度ツタヤさんにアイデアを……いや、こういうネタはゲンナイさんに直接持ってった方がいいっすかねえ」
「オレたちを丸焼きにしておいて金儲けの算段たぁ、暢気なこったぜ」
「ふふ、そう申すな。なかなか見れぬ絶景だったぞ」
「あー、そこっすね。いま瓦礫をどかすっすよ」
メガネの独り言に、ユキヒサとバンゾクの声が返事をした。
声が聞こえた方には黒焦げの瓦礫の山がある。
メガネは鈎付きの鎖を引っ掛けて瓦礫をどかしていった。
「おーおー、見事な焼け野原じゃねえか」
「少々、やりすぎにも思えるがな」
「加減できる状況じゃなかったっすからねえ」
瓦礫の下からは、透明な半球に入ったユキヒサとバンゾクの姿があった。
「おい、若様、寒くて敵わねえ。そろそろ術を解いてくんな」
「すまぬが溶かす術は心得ていなくてな」
「それじゃどうやって出りゃいいんだ?」
「それは簡単だ」
ユキヒサが斬雪を一閃させると、半球は斜めに割れて滑り落ち、地面にぶつかって砕けた。
「術で作ったものとは言っても、所詮は氷だからな。斬るも砕くも難しくはない」
「なるほどねえ、サツマにゃ術士がほとんどいなかったから知らねえことばっかりだ」
「拙者もほとんど氷霊の加護任せだ。それほど大したことはできぬよ」
ユキヒサとバンゾクがなぜ無事だったのか。
種を明かせば簡単なことである。
先日の事件でユキヒサが氷霊の加護を持っていることはすでにわかっていた。
短時間の間、炎を凌ぐ程度の術であれば造作もないとのことだったので、守りの準備さえ整えば諸共焼いても心配はなかったのだ。
「氷菓子やら、冷酒の店でも開けば流行りそうっすけどねえ」
「おお、そいつぁいいな。サツマの方は暑いからよう、きっと大流行するぜ」
「それもよいかもしれんな。大悪を倒した後の話だが」
「それもそうだな」
アサクサの焼け野原に、三人の無闇に明るい笑い声が響き渡った。