第二十八話 ユキヒサ、巨大蟻に挑む之事
黒煙の向こうに透ける巨大な影。
6本の足。
金属の如く黒光りする表皮。
2本の触覚と、複眼。
すべてを噛み砕くかのような大顎。
「おいおい、なんだァあのバケモンは……」
「蟻、なのか?」
大悪がぱちぱちぱちと手を叩く。
「御名答。『暴食』は巨大な蟻さ。放っておくとなんでも喰らい尽くしちゃうからね。普段は眠らせてるんだ」
そして、大悪はくるりと背を向けた。
「それじゃ、こんなところでお別れだ。戦うにせよ、逃げるにせよ、せいぜいがんばってねー」
大悪の背に黒い靄が生まれ、それが翼の形を為す。
一度、二度と羽ばたき、大悪の身体が宙に浮いた。
「飛んだだと!?」
「野郎! 空まで飛べるのか!?」
「そりゃ大ボスだからね。空くらいは飛ぶよ。じゃーねー……んがぁっ!?」
大悪が天高く飛び上がろうとした次の瞬間、何かに引っ張られるように墜落し、屋根瓦に身体を叩きつけた。
よく見れば、社殿の脇の大木から1本の鎖が伸び、大悪の足に絡んでいる。
「へっへっへっ、そうは問屋が卸さないっすよ。大悪なんて大ネタ、簡単に逃したら物書きの名が廃るってもんっす」
「「メガネっ!?」」
鎖の主は、大木の樹上にいたメガネだった。
手ぬぐいで頬かむりをし、まるでこそ泥のような格好をしている。
「なぜメガネがここにおるのだ?」
「いやあ、二人だけの話って聞いたら物書き魂がうずいちゃっただけのことっす。礼には及ばないっすよ」
「てめぇ、出歯亀かッ!」
「お主にも、後で話をせねばならぬな……」
「ああー、そんなことより大悪をとっつかまえないとっす!」
メガネに言われるまでもなく、ユキヒサとバンゾクは足元の粘液をすでに振り払っている。
社殿に向かって駆け出し、屋根へと飛び上がろうとしたその瞬間、突如身体に鉛の重しでもつけられたかのような感覚に襲われた。
普段であれば軽く達する程度の高さにも関わらず、屋根に届かず、手前の地面に着地する。
メガネも樹上から落ち、尻をさすっていた。
体重を支えるのに十分な太さであったはずなのに、乗っていた枝が折れてしまったのだ。
大悪の身体から黒い靄が噴き出し、それが辺り一帯をうっすらを覆っていた。
靄に覆われた範囲の木の枝が、常とは違って下向きにしなだれている。
「痛たたた…‥。ああ、もう、これだからこっちの人間は油断がならないね」
大悪が顔をさすりながら立ち上がった。
先ほど、メガネに引きずり降ろされたときにしこたま顔を打ちつけたようだ。
打ち身で赤くなった顔には鼻血が垂れている。
「力はなるべく節約したいんだけど、君らしつこそうだからこの辺の重力を上げさせてもらったよ。それじゃ、今度こそじゃーねー」
いつの間にか足首の鎖も外していた大悪は、黒い翼を羽ばたかせて空へと消えていった。
大悪が離れると黒い靄が薄れ、徐々に身体がもとの軽さに戻っていく。
「くそっ! 逃げられた!」
「一時の間、地霊の力を高めたようだな」
「大悪っていうのはあんな術まで使えるんすねえ」
そのとき、遠くで地鳴りのような轟音が響く。
轟音の主は東の町並みを蹂躙する巨大蟻であった。
それが一歩歩くたび、家屋が崩れ、破片が舞い飛び、大地が揺れている。
「大悪も口惜しいが、あちらを放っておくわけにもいかんな」
「なかなかの大物じゃねえか。大悪の手先ってんなら逃す手はねえ」
「あんなバカでかいの相手でも逃げるって選択はないんすねえ。また面白い絵が描けそうっすよ!」
変なものを描いたらまた没収だからな、と釘を差しつつ、ユキヒサたちは巨大な怪異が猛威を振るう東の町へと駆け出した。
* * *
逃げ惑う人波に逆らいながら道を進む。
巨大蟻に近づくほどに人の数は減り、やがて無人となった。
エドの町は創建以来、いくたびもの大火に見舞われているため、災害が起きると即座に逃げるという習慣が民衆に染みついているのだ。
商人など、一部の富裕層を除けば借家暮らしであり、持ち出すべき家財などもほとんど持たない。
その身軽さが功を奏し、町人の避難は順調なようだった。
「民がおらぬのはありがたいな」
「ああ、やりやすいぜ」
「あの化け物を目の前にしてそんな感想が言えるのは、アキツ広しといっても他にはいなそうっすねえ」
ユキヒサたちの眼前には、アサクサ凌雲閣に取り付き、いままさに崩さんとしている巨大蟻の姿があった。
凌雲閣は大人20人が肩車をしても届かないほどの高さであり、建物自体の高さはエド城天守を上回るほど。
最上階に登ればエド中を見渡せるとして、エド庶民や物見遊山の客に人気の建築物であった。
その凌雲閣がガラガラと音を立て、何軒もの家屋を巻き込んで倒壊する。
巨大蟻『暴食』の重みにいよいよ耐えかねたのだろう。
暴食はその顎でバリバリと残骸を噛み砕いていた。
「木を食うってことは、ありゃシロアリの仲間か?」
「蟻の種類などどうでもよかろう。いくぞ」
「小生は仕込みのついでに逃げ遅れた人がいないか見てくるっすね」
ユキヒサとバンゾクが巨大蟻に向かい、メガネがそれと分かれて別方向へ走る。
その間にも、暴食は凌雲閣の残骸を貪り続け、半分ほども平らげていた。
「ぜんぶ食いながら進んでるわけじゃねえのに、凌雲閣ってなあそんなに美味いのかねえ」
「食らっているのは民草の想いの残滓であろうな」
「へえ、そんなもんで腹がふくれるのか」
「邪妖とは得てしてそういうものだ」
軽口を叩き合いながら、二人は暴食の柱の如き足を駆け上がり、その背に登る。
その広い背をさらに駆け、首筋にたどり着いた。
「ここまで来てもまるで気がついておらぬようだな」
「でかすぎて神経がにぶいんだろうよ」
ユキヒサが斬雪を構え、バンゾクが戦斧を振りかぶる。
視線を交わし、気息を整え、拍子を合わせる。
二筋の斬閃がきらめく。
次の瞬間、暴食の首が裂け、大量の黒い液体が噴き出した。
ユキヒサの刀と、バンゾクの斧が同時に暴食の首を切り裂いたのだ。
暴食が狂ったようにその巨体を震わせる。
ユキヒサたちは、片膝をついて振り落とされることを防いでいた。
「さすがに太いな」
「ま、何度かやればこの首も落ちるだろうよ」
激しく揺れる暴食の背で、二人はこともなげに言葉を交わす。
虚勢を張っているわけではない。
事実、暴食の動きが落ち着くたびに立ち上がり、繰り返し、繰り返し首に向かって斬撃を浴びせていた。
「お、そろそろみたいだぜ」
「念のため、もう一太刀浴びせておこう」
斬閃、再び。
暴食の頭が徐々に下がっていき、首筋からめきりめきりと木の裂けるような音が聞こえてくる。
度々傷つけられた首が頭部の重みに耐えきれず、折れ曲がりはじめたのだ。
大地を揺らす轟音。
ついに暴食の巨大な頭部が根元から折れ、地響きとともに大地に落ちた。
傷口からは、滝のように大量の液体が噴き出している。
やがて、その噴出も止まった。
束の間、周辺を静寂が支配する。
その後、カサカサと何かが這い回るような音が聞こえはじめた。
「若様、この音はなんだ?」
「何か虫でも這い回っているような……おい、バンゾク! あれを見ろ!」
ユキヒサが指差す先には、暴食から噴き出した黒い血溜まりがあった。
そして、血溜まりからは数え切れないほどの小さな蟻が沸き出しているのだった。
凌雲閣は明治に入ってからの建造だって……?
細けえことはいいんだよ!(どーん