第二十話 ユキヒサ、舞い謡う之事
白い霧を引き裂きながら殺到する巨大な触手の群れ。
ユキヒサはかわしざまに斬りつけ、バンゾクは戦斧で弾き返す。
メガネは火を放つ玉を投げつけて反撃しているが、いずれもろくに効いた様子がない。
「この大きさではいくら斬ってもかすり傷にしかならぬな」
「オレの斧でもぶった斬れねえ」
「火をつけてもすぐ消されちゃうっすねえ……」
社殿の縁台に立って応戦する三人に比べ、海中で戦う魚人たちはなお悲惨だ。
一方的になぎ倒され、吹き飛ばされ、叩き潰されている。
それでも戦意を失わず、銛を果敢に触手へと突き立てていた。
「せめて敵の弱点でもわかれば……」
「それならアレじゃないっすかね?」
メガネが指差す方を見ると、白い霧の中に赤い点がふたつ光っていた。
よくよく目を凝らすと、その点は小山のように巨大な楕円の影の中にある。
「なるほど、こいつの正体が蛸の化け物だとすりゃ、アレが頭だな」
「わかったところで遠すぎるっすけどねえ」
社殿から赤い光までは甘く見積もっても百歩以上は離れている。
その上、道のりは海に没している。
巨大な触手の攻撃を避けながらそこまで進むのは、いかなユキヒサたちでも到底不可能であった。
「道は拙者が作る。あとはバンゾク、頼めるか」
「誰に言ってんだ? あんな野郎、斧さえ届けば一撃よ」
ユキヒサの言葉にバンゾクが歯を剥いて応える。
当然のことながら、怪物の頭に戦斧を叩き込んだところで倒せる保証などない。
だが、バンゾクの精神に諦めて敗北を受け入れるなどという考えは欠片もないのだ。
「でも道なんてどうやって作るんすか? 斬り込んだって無理っすよ」
「術を使う。この場はしばらく任せた」
「ええー!?」
社殿の中へ入ったユキヒサに、メガネは不満げな声を上げるがその顔に焦りはない。
投げつける玉を爆風重視の物に変え、襲い来る触手の軌道をずらしている。
社殿に入ったユキヒサは瞑目して精神と呼吸を整えはじめた。
これから使う術の行使には精妙な動作と言の葉の力が必要だ。
度重なる触手の攻撃により社殿がきしむが、ユキヒサはそれを雑音として意識の外に追いやる。
ほう、と息をつく。
すう、と息を吸う。
ユキヒサは抜き身の斬雪を握ったまま、ゆっくりと舞い始めた。
――波高き嵐の霧を貫き
――魂かけし我の願いを聞き給え
――亡き母と契りし盟に従い
――太刀風に宿れ破邪の吹雪よ
外の戦いなどまるで存在しないかのように、ユキヒサは謡いながら流れるように足を運び、また刀を振るう。
ゆったりとした動作とは裏腹に、額には汗が浮かんでいる。
それでもなお拍子を変えず、淡々と同じ舞を繰り返す。
額の汗が頬をつたい、やがて細い顎先から一滴がしたたり落ちる。
そのとき、ユキヒサの周りを風が走り、社殿の中に突如霜が降りた。
斬雪の刀身から白い煙が垂れ、すさまじい冷気が満ちる。
「母上、感謝致します」
そうつぶやくと、それまでの舞が嘘だったかのような速度で社殿から飛び出した。
術式の完成にかなりの時間をかけてしまった。
外の戦況がどうなっているかわからない。
「よう、やたらのんびりだったじゃねえか。昼寝でもしてたのか?」
「投げるものがなくなるところだったっすよう」
幸いにしてバンゾクもメガネも無事だった。
二人ともユキヒサの姿を見て軽口を叩いてくるが、あちこちに傷を負い、息を切らしている。
「待たせてすまなかったな。バンゾク、いけるか?」
「オレを誰だと思ってやがる!」
「ならば頼むぞ!」
――複合精霊術式<八紘氷雪>
ユキヒサが斬雪を上段から垂直に斬り下ろす。
すると刃から白く輝く風が放たれた。
霧が瞬時に凍りつき、それが光を反射しているのだ。
まっすぐに海面を走り抜ける。
その後には、煌めく氷の橋が出現していた。
間髪入れず、バンゾクが猛烈な勢いで氷の橋を駆ける。
一歩地面を蹴るたびに氷が砕け、宙に舞う。
橋は例の赤い光まで続いていた。
バンゾク目掛けて巨大な触手が次々に振り下ろされるが、いずれも間に合わず通り過ぎた後の氷の橋を砕くばかりであった。
「蛸は刺し身にでもなってやがれぇぇぇえええ!!」
気合とともに振り下ろした戦斧が片方の赤い点に叩き込まれる。
間近で見れば、それはバンゾクの長身よりなお巨大な眼球であった。
それを真っ二つに引き裂くと、バンゾクの全身が熱い液体で濡れた。
(返り血だ!)
怪物の巨体がぶるりと震えるのが、戦斧から伝わる感触でわかった。
有効な傷を与えたことを確信し、斧を引き抜き、もう一撃を加えようとする。
「もう片目ももらったぜぇぇぇえええ!!」
引き抜いた勢いを活かし、身体を回転させて横薙ぎに振るう。
だが、予期した肉の感触がない。
外したか!?
バンゾクは体勢を立て直して戦斧を構え直した。
「ああン?」
バンゾクが見たものは、遠ざかる黒い影の姿だった。
同時にみるみると海が引いていき、霧が晴れ、太陽が姿を見せる。
「あっ、野郎、逃げやがったのか!」
地団駄を踏むバンゾクに、ユキヒサが手ぬぐいを差し出しながら声をかける。
「まあよいではないか。あの気配、どうも大悪とは無関係なようであった」
「たしかにな。大悪の手先ならもっとわかりやすいだろうぜ」
バンゾクが手ぬぐいで顔を拭くと、それには真っ黒でぬるぬるした生臭い液体がまとわりついていた。
「あのタコ野郎……返り血じゃなくて墨ひっかけて逃げやがったのか! 次はぜってぇ刺し身にして食ってやる!」
真っ黒な姿で悔しがるバンゾクに、ユキヒサとメガネは声を上げて笑った。
* * *
「おい、こいつぁどうなってんだよ?」
「拙者にわかるわけがなかろう」
「小生にもさっぱりっすねえ……」
破れ屋に残っていた老婆を心配して三人が戻ると、そこにあったのは活気にあふれる漁村だったのだ。
廃屋など1軒も見当たらず、印州升面をした者も見かけない。
村の者に老婆のことを尋ねても、誰ひとりとして知る者はいなかった。
「狐狸にでも化かされたか……」
「だがよう、こいつはたしかに手元に残ったぞ?」
「小生は食べないっすからね。そんなの食ったら絶対腹を壊すっす」
バンゾクが持っているのはあの巨大な怪物の触手だった。
たまたま先端を斬り飛ばせたらしく、落ちていたのを拾っていたのだ。
ただ、それだけでは多少大きな蛸の足にしか見えない。
これを怪異の証拠だと言っても、信じる者はいないだろう。
――ざざあ
――ざざあ
潮騒が聞こえる。
ユキヒサには、それに混じって、しゃしゃしゃと笑う老婆の笑い声が聞こえてきた気がした。