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第十五話 ユキヒサ、濃霧に遭う之事

 ――ざざあ

  ――ざざあ


 遠くから潮騒(しおさい)が聞こえる。

 視界は乳白色の濃霧に覆われ、太陽の居場所さえはっきりしない。

 白く濁った空には、太陰からにじみ出る闇だけがぼんやり透けていた。


「これほどの霧は見たことがないな」

「こう前が見えなくっちゃかなわねえなあ……。着物までずぶ濡れだぜ」

「潮の匂いがするっすねえ。海が近いなら漁村くらいはあるんじゃないっすか?」


 霧の中を歩いているのはユキヒサたち一行である。

 山人たちと別れ、エドへ向かう街道を向かう途中にこの濃霧に遭ったのだ。

 小雨のように肌を濡らす不快な霧に、三人はすっかり辟易(へきえき)していた。


「これじゃ斧も錆びついちまうぜ」

「斬雪も手入れしたいところだ。(なかご)まで水が染みているかもしれん」

「塩を含んでそうっすからねえ。金物(かなもの)には天敵っすよ」


 メガネから指摘されずとも、マエナガで育ったユキヒサも承知のことだった。

 良港を抱えるマエナガ藩は潮風による塩害は日常茶飯事だったのだ。

 塩水に触れた刀は真水でよく洗って乾かさねばすぐに錆びてしまう。


 浮かぬ気持ちで歩みをすすめると、遠くに人家の灯りが見えてきた。

 旅籠(はたご)などではなく年季の入った漁師小屋のようだったが、贅沢を言える状況ではない。


「霧が散るまであそこで一休みさせてもらおう」

「賛成だぜ。こんな気持ち悪りぃ霧の中を歩きたくねえよ」

「小生の持ち物も乾かしたいっすね。書付の墨が滲んじゃったら台無しっす」


 全員一致で漁師小屋を間借りすることに決める。

 あちこちに穴の空いた破れ家(やぶれや)であったが、外にいるよりはましだろう。

 三人はやや早足で小屋へと向かった。


「おんや、旅の方かね? これは珍しいこと」


 ユキヒサが小屋の戸を開けると、中には一人の老婆がいた。

 囲炉裏に火を入れ、それに手をかざしている。


「あいや、すまぬ。人がいるとは思わなかった」


 無人の小屋だと思い込んでいたユキヒサがすかさず詫びをした。

 普段であれば繁みに隠れたサルオニも察知するユキヒサであったが、霧のために勘が鈍っていたのだろうか。


「しゃっしゃっしゃっ。そう驚かんでもええじゃろ。この(ばばあ)は邪妖や化性のたぐいではないから安心せい」


 老婆は歯のない口を開けて蛇のような笑い声を上げる。

 囲炉裏のわずかな火に、皺だらけの顔が照らされ、長く伸びた影が破れ家の板壁に映ってゆらめいている。


「や、や、そのような無礼は」

「おう、バアさん。迷惑じゃなきゃ霧が晴れるまで休ませてくんねえか?」

「全身びっしょりで難儀してたんす」


 しゃっしゃっしゃっ、と老婆は再び蛇のように笑った。


「ええよ、ええよ。(ばばあ)の一人暮らしは寂しいものでな。客は歓迎じゃ」

「そうか、それでは厄介になる」

「礼はあるから楽しみにしてくんな!」

「人の優しさが身にしみるっすねえ」


 遠慮がちなユキヒサを追い抜いて、バンゾクとメガネがずかずかと小屋へ入る。

 バンゾクがこれ見よがしに振っているのは猪の干し肉だ。


 ヌノイチで狩った猪を、山人たち秘伝のたれに漬け込んで干したものだ。

 まだ乾ききっておらずしっとりとしているが、そのぶん柔らかい。


(おか)の肉なんぞ久々だね。このへんじゃもっぱら魚ばっかりじゃ」

「ご老人、このあたりはもうサガミ藩でよろしいのか?」


 魚と聞いたユキヒサが老婆に尋ねる。

 幕府により藩境の街道には関所を設けるよう義務づけられているのだが、それを通っていないのだ。

 霧の中で脇道に逸れてしまったのかと心配をしていたのである。


「サガミ藩ねえ……さぁて、どうだったかねえ……」


 ユキヒサの問いに、老婆が曖昧に返事をする。

 普通の領民が普段藩を意識することはそうそうない。

 寄る年波に埋もれてしまった記憶なのだろうと、ユキヒサはそれ以上尋ねることを諦めた。


「しかしよう、この霧はどれくらいで晴れるのかねえ?」


 半ば愚痴のようにこぼしたのはバンゾクだった。

 手ぬぐいで濡れた身体を拭きつつ、囲炉裏に吊るされた鍋の中身を見ている。


「さぁて、どれくらいで晴れるもんかねえ……」

「なんでえ、バアさんにもわからねえのか」

「いつまでも晴れないのかもしれないねえ……」

「そんな冗談は笑えないっすよ……」


 蛇のように笑う老婆に、メガネが眉をしかめて答える。

 メガネが霧で曇ってしまい、一番難渋していたのがメガネだったのだ。


「まあともあれ、メシだメシ。バアさん、鍋ん中に肉を入れてもいいか?」

「かまわないよ。陸のもんには塩気が強いだろうから、味を見て薄めておくれ」

「おう、悪りぃな」


 バンゾクが断りを入れ、おたまですくって鍋の味見をする。


「かーっ! たしかにこりゃ塩っ辛いな。水はどこにあんだい?」

「土間の(かめ)から勝手に使ってくれてかまわないよ」


 老婆が指差す瓶から水を汲み、鍋の中に入れる。


「うーん、こんなもんかな。しかし、この汁はうめえ。一体何を煮てたんだい?」

「さぁてねえ。人魚の肉でも煮てたのかもしれないよ」

「初代将軍が食べた肉が食べれるなんてありがたいっすねえ」


 老婆の冗談を引き取ってメガネが笑う。

 人魚というのは神霊の一種とされる伝説上の存在だ。


 与太話ではあるが、初代将軍がその肉を食べて不老長寿を得たと言われている。

 不死の将軍が幕政を影から操っていたり、アキツ全国で世直しの旅をしたりといった話は戯作の定番であった。


「ははは、人魚の肉か。ご老人もこれを食べて長生きされているのかな」

「そうかもしれないねえ」


 ユキヒサも老婆の冗談に乗り、取り分けられた鍋の中身を相伴(しょうばん)した。

 礼はバンゾクの差し出した猪肉と水筒に入れていた酒だ。


 老婆は「お酒も久しぶりだねえ。ありがたいねえ」とつぶやきながら、ひび割れた茶碗に注がれた酒をぴちゃぴちゃとなめている。


「この霧は数日は晴れないからね。先を急がないのなら、何日かこの婆の家に泊まっていくといい」


 ユキヒサたちは顔を見合わせてうなずき合う。

 それぞれ目的はあるが、数日先を急いだところでどうとなるものではないのだ。

 素直に老婆の好意に甘えることとなった。


 老婆によれば、いまユキヒサたちがいる小屋が母屋(おもや)で、少し歩いたところに離れがあるらしい。

 壁の穴から外を覗くと、たしかに老婆の言う建物が見えた。


 ユキヒサたちが礼を言って小屋を出ようとすると、その背中に老婆が声をかけた。


「北の雷鳴が聞こえたら海に近づいちゃなんねえ。海を見てもなんねえ。東の雷鳴まで大人しく家ん中で寝てるんだよ……」


 濃霧の中、離れへ向かうユキヒサは、老婆の言葉に妙に不吉な響きを感じるのだった。

 伝奇ホラー(?)編スタート。

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