家畜
お題:群馬の駄作 制限時間:1時間
蚕は、人間の庇護下でなくては生きることが出来ない。
その生態は、古くから人間とともにあることによって己が遺伝子を変質させていき、遂には己の生存機能を人間の営みの中に譲渡した。
ある生物が、その生を他の生物の営みに依存する。それ自体は自然界において全く見られないわけではない。ある種の寄生虫や細菌の類は特定の種の生物と双利共生状態にあり、宿主から与えられる栄養がなければ生きていくことが出来ず、また宿主の側も種々のメリットをそこから引き出し、時としてそれは個体としての生存や、世代を跨ぐ生殖行為などに不可欠のものである。動植物の細胞組織であるミトコンドリア、また植物の葉緑体も、もとは別個の種類の生物であったものが共生を経て完全に同化するに至ったものであるし、また、広義に見れば、特定の昆虫に受粉における花粉の媒介の役割を与えるものも、その生物がいなければ種としての存続が不可能になるために、同様の事例と見ることが出来るだろう。
しかし、蚕と人間の例において注意しなければならない点、それは蚕の存在が、人間にとって必ずしも必須のものではないという事であろう。
遺伝子の糸をほどいてゆく。
不必要な部分を切り捨て、新たな遺伝子を接合。すべての操作はPCを介して行われる。
群馬県における遺伝子組み換え蚕の研究所、その一室。深夜の暗黒は部屋の中に忍び寄り、ただディスプレイのバックライトのみが、杆体細胞によるモノクロームの知覚の世界を拒絶している。
キーボードをたたく音。一人の男が何処か憑かれた様な表情を浮かべて画面を操作している。
打鍵。ディスプレイの変化。打鍵。変化。
エンターキーを沈み込ませる動作を最後にして、男は作業を止める。
その呼吸は荒く、瞳には迷いと後悔の念を明瞭に見ることが出来た。
――これでよかったのだろうか。
思考が振動の形をとって外部に流出する。男はもう一度目の前のPCへと手を伸ばし――部屋の外、廊下から発せられる懐中電灯の明かりを認めるや、その姿を隠す。
足音。心音が耳を衝く。遠ざかっていく。漏らされる息は安堵の感情の発露。
完全に人気がなくなるのを確認すると、男は部屋を後にした。
――嗚呼、疲れたなあ。
仕事上がり。
太陽が水平線へと落ちていき、世界が朱に染まるころ。
彼女は自宅への途上で、視界の隅に白を捉える。
――蚕?
ひらひらと、飛べないはずの蟲が大気中を彷徨う姿が、そこにあった。
何物にも束縛される事無く。