プロローグ
「それでは、双方合意のもとでの婚約の解消でよろしいですね」
「では、こちらに署名を」
差し出された書類を婚約者の眼の前で二つに裂いて言った。
「イヤに決まってんでしょ。絶対、サインなんかしないんだから」
そう言って、その場から、この国から出奔した。
グレイス=イーグルトン辺境伯令嬢、17歳。もうすぐ18歳の早春。
王立サイクス魔法学園卒業を前にしてのことであった。
オズワルド伯爵家の嫡男、セオドアが、一時の気の迷いとしか言えない婚約を望んだ相手が辺境伯の姫であるグレイスだった。
家同士の格の釣り合いは取れてはいたが、当のグレイスが、15歳になったら学園には通わず、ギルドに登録して冒険者になろうとしていた変わり者であったからだ。
鬣のような赤い髪をまとめようともせず、自由奔放に伸ばし、肌は染みひとつないミルク色だが、夏になればうっすらと小麦色になる。整った顔立ちの中でも特に印象的なのが、睨み付ければ太陽をも凍てつかせるような眼光を放つサファイアの瞳であった。
野生動物を思わせる彼女を、良くも悪くも貴族然としたセオドアがどこでどう見初めたのか本人を含め、周囲の謎であった。
当初、にべもなくはねつけて取り合いもしなかったグレイスも、めげずに来訪しては、真摯に婚約を持ちかける彼の姿にほだされたのが痛恨のミスといえば、ミスであった。
そして、彼の本性を知ることになったのは、冒険者の道を断念して王立学園へ入学した、婚約が正式に受理された後であった。
セオドアは家柄もさることながら、見た目も金髪に上質なエメラルド色の瞳を持つ美しい容姿で、後にグレイスも、『あの見た目に騙されたのよね〜、でも、14歳だったからしょうがないじゃない?分別のない年頃よ』と、回顧している。
在学中、セオドアの女の噂は消えることはなかった。悪気はないのだろうが、とにかくマメなのだ。
この頃すでに、グレイスの興味は婚約者になく、その上、誰もが2~3週間しか続かなかった為に、放置していたせいでもあった。
まあ、早いうちに破棄されれば、その足で学園を退学し、冒険者になるつもりであったから、むしろ推奨な気持ちがあったのは否めない。
手綱がゆるすぎたせいなのか、セオドア自身も婚約していることを忘れているのか、気がつけば婚約も一年が過ぎていた。
このままでは冒険者どころか、意に染まぬ結婚をし、女性関係にだらしない
この男のお守りで一生を送るのかと思ったら寒気がした。
それからは、一月に一度の婚約者のお茶会の時に『婚約破棄』をチラつかせたのだが、なぜか相手が首を縦に振ることはなかった。
最終学年に至っては、婚約無効を説いた司祭の書面を目の前に突きつけてさえいたのに。
結局、婚約は卒業間際まで解消されることはなく、三年の月日を棒に振った形になった。
何も得るものがなかった三年間。
冒険者になるための父の出した条件は、学園で学ぶべき事を15歳までに習得することだった。
その為、グレイス自身、15歳の時には学業、魔法、剣術全ての習得が終わっていて、学園へ行くメリットはなかった。
あるとすれば。貴族の娘としての最低限の行儀作法。それだけで、社交のテクニックなど全く必要がなかったからだ。
それよりも、冒険者になっていれば、どこまでランクが上げられたか。まだ踏破されずにいるダンジョンを巡ったり、ギルドから請け負う未知の仕事、魔物との遭遇の方が重要であった。
『命をも預けられる親友と呼べる人に出会えたかもしれないのに』
それが、ただ、この男の傲慢さと怠慢で消え失せたのだ。
確かに、婚約を受けた時点で同じ過ちが自分にあるのはわかっていた。
しかし、再三再四、婚約の無効を訴えてきたグレイスにとって、諸悪の根源はセオドア一人であったのだ。
それをノコノコと『運命の恋人に出会ったから婚約を解消して』の一言で片づけようとするなど、笑止千万だ。私だって三年間我慢したのだ。お前も、同じだけ我慢するがいい。
運命の恋だかなんだか知らないが、それだけ強い思いがあるなら三年ぐらい待てるはずだ。
三年間蓄積されたやり場のない憤り。それだけの事で、待ち望んでいたはずの婚約解消を破棄し、出奔したのだ。
しかし、グレイスは、15歳で冒険者になることは叶わなかったが、ギルドに登録だけはしていた。
婚約者の人となりが分かり、いずれ婚約が破棄された暁には、今度こそ冒険者に。と考えていたからだ。
そして、学園の休暇のたびに、初心者向けのダンジョンを巡ったり、単独でできる簡単なミッションをこなしていった。
もとより、辺境の地で育った彼女だ。攻撃的な魔法に加え、剣の腕前もあり、ダンジョンで彼女の才能が本格的に開花した。気がつけばランクはCになり、パーティでもそこそこやれる自信もついていた。
王都を去る。それは三年間温め続けた固い決意でもあった。
『あの男が、早く婚約解消したいなら私を探せばいいのよ。その時は喜んでサインをしてあげる。それができないなら、法的に解消が認められるまで待てばいいんだわ』
そう独りごちると、冒険者の道へ一歩踏み出したグレイスだった。
ちょっとばかり、ベタな話を書きたくて