初東風
風に身を任せてさあさあと樹が手を振り、真っ赤な石榴の花が揺れる。
草木も眠る丑三つ時。
寝静まった戸建の隙間を、ふと誰かが潜っていった。
道に小さな影が落ちる。とっとっと、と軽い足取りで歩く。
寝ずの木戸番も見逃し、皐月の生ぬるい風が吹きぬけるのと同様。目を向ければ、そこには影も形もない。
その小さな影は、ある場所でぴたりと立ち止まった。
人影もない、とある神社のそばの道だ。今にも脇の茂みから何が顔を出してもおかしくはない。そんなうらさびしい場所だった。
――その時。
誰もいないはずの通りに、ふっと笑い声がさざめいた。
月が照らしだす中、影が揺れるのと同時に、あるはずのない行列がそこにはあった。
華やかな高山車の傍らには紅を差した華やかな衣装を着た手古舞が誇らしげに付き添う。巨大な要の石と地震鯰、鬼首の張り子が我が物顔で通り過ぎる。
それは、祭だった。
誉れ高き、天下三大祭がひとつ、神田祭そのものだった。
けれどどこかその姿は曖昧で、時に影が差す。足を踏み入れた瞬間に、泡のように消えてしまいそうなあやふやなもの。
小さな影はそして、その列に加わる。
緑と赤の鮮やかな尾の鶏、幣帛を持った装束の猿、花籠に牡丹、月に薄――山車が行き、人が踊り、囃し声をかける。
ドンドンカッカ、ドンカッカ
太鼓の音が月まで響く。
それは祭だった。誰も見ることのない夜祭。
「……なるほど」
からから、からから、からからと。祭に不協和音が入り込んだ。
すると。
色鮮やかな山車も、巨大な張り子も、人々も、笑い声もさざめきも。皆、風に吹かれた煙のように消えてしまった。
その場に残っていたのは子供たちだった。乱入者を恨めしげに、じっと見上げている。しかし時に揺らめき、一瞬で姿が細くなり太くなり、どこかあやふやだった。
下駄を鳴らし、祭に入り込んだのは初東風であった。昼間とは違って面を前に回し、その表情は窺い知れない。
百鬼夜行という。人に害を及ぼさない程度の物の怪や妖が身を寄せ合い、小魚の群れのようにわが身を守るための知恵だ。この子供たちは皆、幼くして死んだ子供たちだろう。
その中に、たったひとりだけ目を閉ざしたままの子供がいる。
「幻の祭が生者を伝って現になった。叶わぬ夢は時に現実をも超克するか。だが、神田の祭にはまだ早い」
初東風はつぶやき、腰刀を鞘から抜き放つ。直刀の腰刀にはないはずの鯉口が甲高い音を立てる。
子供たちは後ずさった。くぐもった低い声が彼らを射抜く。
「俺の神域を汚すな、物の怪ども」
『露にも濡れて薄紅葉
染めて色増す金色は
霜夜の月と澄み勝る』
歌うように、言霊が響く。
しゃああああ、とそれに呼応して腰刀は雨に似た音を奏で、姿を月の下に現していく。
そうして二尺を過ぎた。けれど、雨音はまだ止まない。
しゃああああ、と鳴いたまま、まだ止まらない。その声は既に雨ではなく、尾を引く狐の鳴き声に似ていた。
とうてい元の鞘には収まり切らないほどの長さにまでなって、初めて切っ先が見えた。その頃には、既に腰刀の長さをとうに越え、三尺五寸ほどの大太刀へと変じていた。
「『初東風』。作り手が粗忽者で不格好な刀だが、貴様らにはちょうどいい」
背の半ば以上もある太刀を、それこそ腰刀を使うように振う。
びゅっ――
空気ごと何かが断ち切れる音がした。
それだけで、煙のように揺らめかせていた子供たちの大半が消失した。
『――――っ!?』
百鬼夜行は声なき悲鳴をあげた。
子供たちは、さらに姿をあやふやにさせ、ほうほうの体で散らばって行く。
その中で、一人その場に取り残されていた幼子がいる。
雑霊には目もくれず、初東風は身の丈に合わない長大な刀を軽々と持ち、跳んだ。そのまま一突きすれば、全てが終わる。子供と共に物の怪は滅ぶ。
と。
閉ざされていた目がぱちりと開く。何も知らない黒い瞳が、迫る白刃を見つめている。
「…………」
初東風の表情にわずかな波紋が走る。だが、瞬きの後にそれも消えていた。
あるのは、やらなければならないという意志だけだ。
幼子の胸に太刀が吸い込まれる――と思えた、その時。
「――待った!」
夜更けの空に大音声が響く。
初東風はいぶかしげにそちらを見やる。
はたして、茂みの奥に立っていたのは鈴代であった。
大太刀は幼子を貫く直前で止まっていた。
「手は出すなと忠告したはずだ」
「そっちこそ。この子はまだ生きてる。だから、僕の患者だよ」
初東風は刀を引き、鈴代を訝しげに見やる。彼の傍らに奇妙なものがある。
大きさは一軒家の二階にまで届かんばかりで、仮建ての櫓のようにも見える。けれど、全体が唐草模様の風呂敷で包まれていて、ひどくうさんくさい。
「ねぇ、これもう動かないわけ?」
「いや――もう無理っすから。こんなの、二人で動くわけないでしょーが。ここまで持って来られただけ奇跡みたいなもんですから」
甘斗が疲れ切った様子で答えた。その櫓に背をもたれて、座り込んでいる。なぜか、真夜中だというのに汗だくだ。
「じゃ、ここでいいよ。お目見えしちゃおう」
と言うと、鈴代は風呂敷へと手を掛けた。
そのまま、ばさりと覆いを一気に取り去る。
『…………!』
蜘蛛の子を散らすように逃げた子供たちから驚きの声があがる。
それは、烏帽子に狩衣姿の人形を乗せた、きらびやかな山車であった。
幻ではない、本物の山車だ。
「うお!?」
傍らを白い煙がかすめて、甘斗は慌てて飛び退いた。
初東風の一撃で半分が吹き飛んだ物の怪――子供たちだ。
転がるように距離を取って甘斗は身構えるが、すぐに手を下ろした。
襲ってくる気配はない。
子供たちは山車の周りで踊り、遊ぶ。行きたかった場所に行き、欲しいものを得たようにその顔は輝いている。
夢幻でしかなかったものが、今この瞬間だけは現つの祭と相成った。
その笑い声を空に残し――
やがて、薄れて消えていった。