神田祭・前祭
「結局、何だったんですか、あれ? 稲荷って言ってましたけど」
一心地つくために入った茶屋で、団子を一かじりし、甘斗はそう切り出した。
実は、甘斗がああいう不思議な人たちに遭ったのは初めてではない。
弟子入りしてからはもちろん、その前にも江戸の町で見たことがあったのだった。
ある時は神社の境内、街角の社、子供たちに紛れて遊んでいたこともある。
その姿はいつも違い、共通点といえば例外なく面を付けているくらいなものだ。
彼らが尋常の存在でないことは、甘斗も薄々勘づいていた。
普通の人間に、彼らの姿が見えていないと気付いてからだった。
「初東風。稲荷神の神使で、神田一帯の稲荷社をまとめる総領だよ。ああ見えて結構な古株らしいから頭が固くって。彼が出てくると面倒なんだよ」
と言って、鈴代はこっているように肩を回す。そんな疲れた様子でも、働いている娘を追う目を止めない辺りはさすがであるが。
「人じゃないんですか?」
「人でもないし、まして物の怪でもない。稲荷っていうのは江戸を疫病や災害から効率良く守る仕組みさ。江戸のどこにでもあって、その一社一社にああいう神使がいて、置かれた地域を守っている。一地域で手に負えない問題なら他地域間で協力する。江戸は人が多くて、放っておくとすぐに物の怪が広まっちゃうから」
「な、なるほど」
半分くらいしか理解できていないものの、甘斗は頷いた。気疲れしていて、今は難しい話は聞きたくない気分だった。
「あれ、でも稲荷ってことは、楽浪さんと同じなんですか? なんか面も似てましたし」
楽浪とは家に住み着いている自称屋敷神のことだ。常に狐面を付けた変人で、前に稲荷神の神使と言っていた。
鈴代は看板娘に手を振ってから、ひょいと肩をすくめた。
「なんか一緒にするなって言うんだよね。何かわからないけど。ま、これだけ稲荷もいたら、はぐれ者のひとつやふたつも出るんじゃない?」
「……なんか感じ悪い人でしたけど。それに、ちょっと怖かったです」
「しょうがないよ、神は人間とは違うものだから。理解とか、ましてや説得なんてできるわけがない。邪魔したら、本当に斬りにくるだろうね。人間と違って、神は嘘なんてつかない」
「――どうするんすか? このままあの人の言う事、聞くんですか?」
つまり、それはあの子供を見捨てるということになる。
病を治そうとすれば、あの恐ろしい稲荷神を敵に回すことになる。
どちらにせよ危険が付きまとう蛇の道だ。
その答えを聞くのが、甘斗は少しだけ怖かった。
鈴代は少し間を空けて、ぽっかりと浮かんだ雲を見上げた。
「神は人間とは違うものだ。理解も説得もできない。けど、けっして相容れないもの同士じゃない。神があっての人間、その逆もまた然り。一緒に泣いて笑って楽しむことだってできるはずさ」
そう言って、にやりと笑う。
「甘斗、この後ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど――」
「……はい?」
甘斗は嫌な予感を覚えた。代わりに、その時には怖さは吹き飛んでしまっていた。
師が、まるでいたずらを企む子供のような顔をしていたからだ。