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稲荷


「うーん」

「まだぐずってるんですか? やるって言ったんだから責任はとってくださいよ、もう」

 甘斗は、うなりながら歩く鈴代を振り返った。

 とっくに家を出て、今は薬を取りに行く途中である。

本当の鈴代の家はここから二日かけた山奥にある。江戸に滞在している間は、鈴代の知り合いである静海という医者の家に下宿させてもらっているのである。

静海の家は同じ神田にあるから、昼過ぎには届けることができるだろう。

鈴代は浮かない顔で首を傾げた。その拍子に、髪がぱらりと白い首筋にかかる。

「いや、奥さんの話が気になってて」

 甘斗は声をひそめて言った。

「……やっぱ物の怪ですか?」

「人が寝ている間に勝手に出歩いてしまうっていう病がある。けれど、決まった時間に毎日っていうのはおかしい。しかも高熱が出ている時期とも重なっているし、まず間違いないかな」

 物の怪とは世に言われている目に見えぬ妖怪のことではない。

 人の心を蝕み、やがては怪物へと変えてしまう病のことである。鈴代は、特にその物の怪の病を扱う専門医であった。

 その鈴代がそこまで断言するのだ。甘斗は少しだけ驚いた。

「だったら、なんで迷ってるんですか? 治せばいいじゃないですか。それが仕事でしょ」

 すると、鈴代は答えにくそうに視線をそらした。

「なんか、嫌な予感がして。ほら、ここって神田でしょ? ていうことはさ――」

「はぁ? 神田だったら何なんすか。はっきりしてくださいよ」

 と、ふいに強く風が吹いて、甘斗は背を振るわせた。もう夏であるはずなのに、季節外れに冷たい風だ。まるで秋の始まりの、草を枯らす風みたいな――

 甘斗は違和感を覚えた。どうして、周りに人の気配がしないのだろうか。

人の多く住む神田の真ん中で、ちょうど昼間というのに誰もいないというのは不自然だ。

そう思って顔を上げ、目を見開いた。

通りの先には誰も立っていない。ひとりを除いて。

 道の先に、小柄な男がひとり待ち構えていた。鈴代より二、三年上くらいの若者で、艶のない黒髪に狐の面を斜にしてかけている。奇抜な格好だが、表情にふざけたところはなく、研ぎ澄ました刃のような視線をこちらへと向けていた。

 真っ直ぐに、鈴代へと。

 鈴代が頭を抱えて心底嫌そうにつぶやいた。

「あーあ……やっぱり出たよ、稲荷神」

 からから、からから、からから、と。

 男は下駄を鳴らして近づいてきた。傍に来てわかったが、帯に紐を結び付け、その先に腰刀を下げている。九寸五分の合口だが、奇妙なことに通常はないはずの鍔がある。儀礼用の短刀ならばこうやって下げないし、合口なのに鍔があるから柄がぴったりと鞘に収まっていない。どっちつかずの中途半端な刀だ。

たたずまいには一部の隙もないというのに、そこだけが浮いているように見える。

「神医の鈴代。久方ぶりだ」

「どうも。僕的には誰かに見られてないかが心配だけど。君みたいなのと話してたらこっちの正気が疑われるし」

 鈴代の隠す気もない悪意に、男はごく真面目に答えた。

「この付近は仮の神域として人払いされている。無用の心配だ」

「……ソーデスカ」

 鈴代はげんなりとした顔をしている。嫌みすら通じないのだから、他に手の打ちようがないだろう。

 男はごく自然に一歩踏み込んだ。鈴代が後ずさる暇もないほど静かで、気づいた時には致命的な距離にまで近づいている。

「物の怪の匂いがする」

「…………」

「隠し立てしても無駄だ。物の怪なぞに神田の土は踏ませない。他に邪を撒く前に、不要な部分は切り捨てる――そう以前にも言った。手を出すな」

「それって脅し?」

「脅しではない。忠告だ」

 それまで二人のやりとりを呆気に取られて聞いていた甘斗も、やっと気づいた。二人が話していることが、さっきまで鈴代が診ていた患者のことだと。

「ちょ、ちょっと待ってください! じゃあ、物の怪になる前にあの子を殺すってことですか!? まだ、物の怪になるって決まったわけじゃ……」

 そこで初めて目に入ったらしく、鉄面皮がほんの少しだけ崩れる。驚いた様子で眉が上がった。

「……その小さいのは、俺が見えているのか?」

「そうだよ。僕の新しい弟子だ」

 男は甘斗をしげしげと見つめた後、深々と頭を下げた。

「失礼つかまつった。俺は初東風。稲荷神に仕え奉っている神使だ」

「はぁ。甘斗です」

 甘斗も意外なほどの丁寧な対応に、小さいと言われたことの怒りも忘れてしまった。

 けれど、頭を上げた初東風は世にも冷たい目をして、鈴代を見た。

「物の怪を一匹出せば周囲に広まる。神田を物の怪の巣窟にはさせない」

「そのためには幼子を殺してもいいって? 人間は守るべき対象だろう?」

 初東風は、鈴代の言をばっさりと切り捨てた。

「物の怪へと化してしまえば別だ。危険の芽は早晩摘むもの。そのためなら、いくらでも手を汚し、悪鬼にでもなろう」

「なっ……」

 甘斗は言葉を失くした。悔しいが、相手の言っていることは正論だ。原因も、治る見込みがあるかもわからない。ただ物の怪となる時間が刻一刻と近づいているだけ。有無を言わさず、まるで抜き身の刀を突きつけられているようだった。

 だが、鈴代はそれを真正面から受けた上で、言った。

「それはさせない。そうなる前に僕が治してみせる」

「……忠告はしたぞ」

 それだけつぶやくと初東風は背を向ける。

 再度、からから、からからと音を立てて近くの通りへと入っていった。

「……はぁ」

 視界から消えた瞬間、甘斗は地面に尻餅をついた。夏も近いというのに、背筋が冷える。

 鈴代は無言で近くの路地を、目を細めて見やっている。

 暗く、狭い道には誰の姿もなく、ただ小さな朱鳥居があるのみであった。


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