神田職人町・昼
次の日――
「送り届けてもらった上に、診てももらえるなんて――鈴代先生には、どれだけお礼を言えばいいのか――」
「いえ。礼には及びませんよ、奥さん」
頭を深々と下げる若い女性に、いつもの五倍増しで格好付けた顔をした鈴代が答える。その後ろでは例の送っていった子供がまだ寝ているらしく、二人とも小声である。
甘斗はげんなりとしてため息をついた。目を閉じる。
(まさか、送った先の母親が本当に美人とは……)
しかも、夫に先立たれたばかりの未亡人であるらしい。ここまでくると何らかの意思を疑ってしまう。運命とか神様とか。甘斗の大嫌いなものである。
鈴代がいつもより張り切っているのが手に取るようにわかり、甘斗は苦々しくため息をつく。それは耳に入っていないようで、女性――うら若く、艶やかな黒い髪と大人びた顔立ちをしている――はそっと袖で目元を覆った。
「本当はお医者様に診せるお金もあまりないんです。けれど、夫に続いてこの子まで失ったらと思うと、本当に不安でしかたがなくて」
「安心してください、奥さん。僕が困っている人を助けるのは当然のことですから」
「…………」
どの口が、と毒のひとつも吐きたくなるが、甘斗はギリギリでこらえた。ただし、顔の平静が保てているかは自信がない。いっそ今すぐ犬に噛まれたりしないかなこの男、と念じて気を紛らわす。
甘斗の視線を感じたのか、相好を崩し切っていた鈴代は咳払いをして話を切り出した。
「さて――じゃあ、事情を聞かせてもらえますか? 奥さん。いつ頃から症状が出始めました?」
「五日ほど前です。雨が降って寒い日がありましたけれど、その日の晩から熱が出て。きっと雨に濡れて身体が冷えたんだと思いましたから」
鈴代は頷いた。
「食欲や睡眠はどうですか?」
「熱が高いせいで、寝ていることが多いみたいです。あまり食事もとっていません。食べようとしなくって」
「それ以外に気になることはありますか? 咳が出るとか、身体が痛むとか」
「熱のせいで汗が出る以外、特には……けれど、夜になるとああいった風に外に出てしまう時があるんです。もう三日ほど」
と、女性は白い肌をさらに白くし、ぞっとしたような声を出した。
「それは、お子さんがひとりで?」
「ええ。目を離したわずかな間に。しかも、ああやって道の真ん中に倒れていて」
それは、確かに奇妙だ。何も知らない人からすると不気味でしかないだろう。
が、それを知る者からすると違う意味を帯びる。
甘斗が師を見ると、鈴代は神妙な顔をしていた。
「それは、いつも決まった時間ですか? 外で何かがあると外に出ているとか、どんな時に起こりますか?」
女性はやや不審そうな顔をした。普通の医者ならば冗談と受け取るだろうことを真面目に聞き出しているのだから、無理もない。
「……一昨晩は真夜中になってから、近所の人が見つけて連れてきていただいて。その前は心配して外に探しに行って見つけました。だから、どちらも夜が更けてからですわ。あとは、うわごとで『祭』って言っていることくらいしか」
「まつり?」
聞き返したのは甘斗であった。高熱でうなされている子供の口から出るにしては不思議な言葉だ。女性は、やや暗い表情で答えた。
「ええ。きっと、亡くなった夫と約束していましたから。一緒に天下祭を見るって」
「あ――す、すみません」
死んだばかりの夫を思い出させてしまったのだろう。甘斗は慌てて謝った。
「いいえ。仕事の事故ですから」
「失礼ですが、旦那さんのご職業は?」
「ちょ、先生!」
甘斗は慌ててたしなめた。女性にぶしつけな質問をするなど、常に女性第一主義の鈴代らしくもない。
「大工でした。この近くの組に所属していまして、仕事中に足を滑らせて――私は大丈夫です。もう、新しい縁談もまとまっていますから」
「え? あー……そうでしたか。縁談かぁ。ですよねー……はぁ」
その言葉に顔を引きつらせた後、鈴代が投げやりにつぶやく。
甘斗はため息をついた。結局、やる気が出ても出なくても面倒なことに変わりはない。
女性が急に力を失くした鈴代の手を取った。
「先生、どうかこの子を助けてくださいませ! お金は働いて返します。なにとぞ、この子をお救いください!」
「え――いやまあ、はい。困ってる人を助けるのは当たり前のことですから?」
勢いでそう答える鈴代を、甘斗は半眼で見つめていた。
――まあ、こういうなるのは最初からわかっていた。
鈴代が師である限り、それに巻き込まれることも悲しいかな、わかっていたことだった。