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神田職人町・夜

 空気にほのかな花の匂いが漂う。長屋の庭に咲いた赤い柘榴の花だ。

 ここは大江戸、神田の中でも職人が多く住む地域である。

 まだ皐月の半ばほどで、まだ夕涼みには早い。けれど、あと十日もすればこの神田でも軒先にうちわを持った人々の姿を見ることができるだろう。

 今宵の江戸には、灯りのひとつもない。

 どの家も戸も閉ざす時刻だ。不夜城たる遊郭や盛り場ならばともかく、そうでなければ月明かりを頼りに歩くしかない。

「ったく、こんな時間にまでなるはずじゃなかったんですけど」

 ぼんやりとした提灯の光で足元を照らし、甘斗は半眼で毒づいた。

 年は数えで十。同年代の少年と比べるとやや小柄で、年下に見られることも少なくない。けれど、瞳には世の中を悟りきったような諦めが見え隠れしている。その冷めた目は夜道が暗いためだけではない。

「あっはっは――なんでだろうね?」

 答えたのは、そのやや後ろを歩く男だ。

 男というよりも青年と言った方が正しいか。まだ若く、二十歳を越したくらい。芝居小屋の二枚目のような美形であるが、歩き方から口調から何かと軽そうな印象がぬぐえない。

変わっている点はそれだけではない。納戸色に紅を差した着物の上に夜に紛れる黒羽織、いい大人というのに月代を剃っておらず、伸ばした黒髪はそのまま後ろで束ねている。町人でないのは一目瞭然で、どこかの道楽息子か若旦那と言った様子だ。

しかし、この男はこう見えて医師だ。名を鈴代と言って、甘斗の師でもある。

甘斗は振り返り、とぼけた顔をしている鈴代にじろっと目を向けた。

「なんで? 往診終わりに、どっかの誰かさんが厚かましく居座ったからでしょうが。その上晩飯もご馳走になって、おまけに明日も会う約束までして。輪廻さんに怒られてもオレは知りませんからね」

 甘斗が弟子入りして二カ月と半ばほどだが、師の女好きには呆れた口が塞がらないほどだった。できれば治して欲しいのでことあるごとに釘を刺すものの、鈴代が聞いた様子はあまりない。

「いや、違うんだよ。夫に先立たれた未亡人とそのひとり娘だよ。しかもはかなげな美人……いや、男として以前に人として、こういう時は親切にするものじゃないか。やましいことは小指の甘皮ほどもないね!」

 真顔で力説する師に、甘斗はぽつりとつぶやいた。

「じゃあ、輪廻さんに言っても問題はないっすよね」

「…………」

 ちなみに輪廻というのは鈴代の弟子の少女で、甘斗にとっては姉弟子にあたる。気分屋で、鈴代が女に手を出すと、わかりやすく機嫌が悪くなる。機嫌が治るまでに時間がかかり、その間は何かと面倒である。

 鈴代はしばらく考え込んだ後に、かぶりを振った。

「――甘斗、男にはダメだとわかっていても行かなければならない時があるんだ……」

「やっぱ逢引きしたいだけじゃないすか! あんたっつー人は……」

 と、甘斗が説教を始めようとしたところだった。

 急に鈴代が立ち止まったのである。

「……ん?」

「はあ? なんすか、誤魔化す気ですか?」

「いやいや、そういうんじゃなくってさ。ほら、あれ」

 あれ、と指さした先に甘斗は目を凝らす。

「――人?」

 道の真ん中に、誰かが窮屈そうに身を縮めて倒れている。

 甘斗がそう思った時には、鈴代は既に横にはいなかった。

「ちょ、先生!?」

 甘斗も慌てて人影の元に走った。提灯の火を消さないようにして、追いついた頃には鈴代は既に道に座り込んで検分を始めていた。倒れていたのは、どうも子供のようだ。

後ろに立っていた甘斗に、鈴代が静かに声をかけた。

「甘斗、火をもうちょっと近づけてくれる?」

「あ、はい」

 甘斗はそっと提灯の明かりを近づける。と、思った以上に小さな子供であったことに驚いた。甘斗よりも年下で、六つか七つくらいではないだろうか。

 手首を取って脈を見ている鈴代の肩越しに、甘斗は子供をちらっと覗いた。鈴代に弟子入りして日は浅いが、患者をぱっと見で観察する癖はついている。

顔が赤い。荒い息をして、控えめに見ても健康そうには見えない。熱があるのかもしれない。それくらいしかわからないが、この時点でもうおかしい。

「なんでこんな、道の真ん中に倒れてるんすかね?」

「わからない。けど、迷子で病人なことは間違いないね――っと、名札が付いてる。この近くの家だね」

 と、鈴代は札を手に取り、子供を背負い上げている。

「送っていくんすか? こんな遅くに」

「ん。面倒だけど、ほっとけないしね。それに、ひょっとしたらこの子の母親が美人かもしれないし」

「ないない。それだけは絶対にないっすから」

 鈴代の期待をばっさり否定しながら、甘斗も師の横について歩き始める。

「…………」

(ん?)

 ふと、甘斗は耳をそばだてた。

 子供が、何かうわごとを言っていたような気がしたのだが――

 気のせいかと思い直して、転ばないように足元へと注意を向けた。


前話「むさしの」からの続き。前回から一週間ほどたった頃?

皐月の半ばですが梅雨時です。旧暦です。

稲荷の初東風はつごちさん登場編。稲荷に関しては恐らく次の話に詳しく出ると思います。

江戸の町、八百八町には稲荷神社が無数にありました。屋敷の中から道端まで。長屋には一軒にひとつはあったとか。

ほとんどの神社にも稲荷が並んで祀られています。

ならば、人の数と同じだけ稲荷がいたのでは、と思いました。

それらが皆、人々を守ってくれていると考えると何かほっこりと嬉しくなりました。


しばらく「むさしの」は続くと思いますので、どうぞご覧になりましたら今後ともお付き合いくださいますよう、お願い申しあげます。

ご閲覧、ありがとうございました!

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