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蒼と碧  作者: 天沙羅
2/2

奏ー2

 時計の針が5時30分を指している。アラームが鳴るまであと一時間、結局昨日は寝られず終いだった。これでは初デートに心躍らせる子供、もしくはクリスマスにサンタクロースを待つ子供。失敗するという点においてはどちらにしろ大差はないだろう。しかし今更寝ることもできず、平生どたばたとこなしている登校準備をゆっくりしてみたが、やはり時間が余ってしまった。忙しい都会の空気に慣れた僕には、手持ち無沙汰に襲われること程怖いことはない。やはり与えられた自由というのは後味が悪い、と、偏屈を拗らせながらもなんとなく家を出てみる。散歩と言えば散歩ではあるが、実際のところ何かやることを探すだけの、浮浪のようなものだ。なにもない住宅街のなにもない公園。公園を取り囲む道を何周かした後ブランコに座り、園内を見渡す。疎らにちらほらと、指で数えれるくらいのほんの数人が、独りで歩いている。そのなかに一つ、見覚えのある顔が見えた。

「あっ、おっ、おはよう……」

 日比谷カナデだ。犬を連れて散歩していた彼女は少し駆け足でこちらに向かって来てそう言った。「いつも来るの?」と尋ねると彼女はこくりと頷いて「毎日この子の散歩に」と短く答えた。日比谷さんの隣に座るハスキー犬は尻尾を振ってこちらを見ている。

「家、ここから近いの?」

 今度は日比谷さんが尋ねてきた。僕がすぐそこのアパートに住んでいることを教えると、彼女は意外そうな表情を浮かべた。

「あら、お隣りさんだったんだ」

 聞くと彼女はボロアパートの隣にそびえ建つ大豪邸のお嬢様だそうだ。勿論そんな言い方を日比谷さんがしたわけではないけど、つまるところそういう事だ。一年間気づかなかったとは、常々自分の無関心を恨む。

「そういえば日比谷さん、軽音サークルは入ってたよね?」

 日比谷さんは「うん」と言い、そしてその後「いつも独りだけどね」と言い加えた。やはり本人も気にしていたのだろうか、日比谷さんは少し悲しそうな表情を浮かべた。

「良かった。今度キーボード募集しようと思ってたんだけど、どうかな?」

 日比谷さんは驚きを隠せないでいた。無理もない、僕達の演奏を前にして、何処に彼女の美しい鍵盤演奏の入る余地があろうか。一瞬戸惑った様子を見せた後、半分諦めていた僕を前に、日比谷さんは小さく口を開いた。

「入るよ」

 嬉しかった。ただこの言葉に尽きる。自分がどんな表情を浮かべてどんなことを言ったのすら覚えていない。が、その場にいた全員が冷ややかな目で僕を見る程大きなリアクションをとったのは確かだ。傍らの日比谷さんがくすりと笑った。あまりにも恥ずかしくなった僕は何故か日比谷さんの手を引いて公園から逃げ出してしまった。彼女の手は陶磁器のように滑らかで、しかしそれとは違って柔らかく、温かかった。足の進むままに行くと、気づいた時にはアパートの前に着いていた。

「あっ、あの……よかったら朝ご飯、一緒に食べない?」

 もう食べたなんて白々しい事実を言えるわけもなく、生返事を返してしまった。嬉しそうな日比谷さんが豪邸のインターホンを押すと、木製の門が左右にスライドし、落ち着いた風貌の巨大な家が現れた。3階建て、僕の住んでいるボロアパートの倍程ある家屋に空き地の月極め駐車場がすっぽり入るくらいの庭、中に少し進むと小ぶりながらも噴水まで現れた。まさかこんな平凡な朝が非日常と化すとは、生憎そこまでロマンチストでない僕はしきりに頬を摘む程に、信じられないことだった。

「カナデ様、この方は?」

 玄関を開けてすぐ現れた黒服の女性は不思議そうな顔で僕を見ている。恐らく家政婦だろう。日比谷さんが同じ大学の友人であると伝えると、家政婦は一礼すると犬を連れてその場を後にした。

「今のは?」

「木村さん、毎日家事をしに来てもらってるの」

 やっぱりか。「あがって」と言われたので家にあがらせてもらった。長い廊下にはそれを飽きさせないようにか、いくつもの油絵が飾られている。

「お父さんのコレクションなの。私にはイマイチわからないけど……」

 僕にもさっぱりわからない。嗜みの差に格差を感じずにはいられない。が、日比谷さんがドアを扉を開くとその感情は更に色濃いものとなった。テレビでしか見たことのないシャンデリア、大理石の床、よく行くラーメン屋のカウンター程の流されはあるテーブル。隣の部屋にある皮張りのソファーには一人の男性が座っていた。

「おはようカナデ。おや、君は?」

 僕が自己紹介をすると、男性は立ち上がり、こちらに歩いてきた。

「そうか、君が……私は日比谷ハルキ、この子の父だ」

 日比谷さんのお父さんは豪邸に似合う、威厳のある風貌で、それでいてどこか優しそうな、そんな人だった。

「朝ご飯に誘ったの。いいでしょ、お父さん?」

「勿論、カナデの友人なら毎日だって構わないよ」

 なんだか申し訳ない気がしてきた。話したのなんてほんのさっきのが始めてだったのに、そんな図々しいことなどできるはずがない。

「旦那様、そろそろ朝食にしましょうか?」

 気まずい現場に、更に一人加わった。これまた黒服の、先程の家政婦よりだいぶ若い女性が現れた。

「そうだな、今日は彼のぶんも頼むよ」

 女性は「かしこまりました」と言って元来た廊下に戻っていった。

「さて、座って」

 それから暫く、日比谷さんのお父さんは色々なことを尋ねてきた。出身は何処かとか、趣味は何かとか、さながら面接のようだった。そしてまた彼もロックが好きで、どうやら僕と馬が合うようだった。

「私も昔はバンドを組んでいたけど、やればやる程彼らの凄さを思い知らされたよ」

 なるほど、確かにスコアの譜面をなぞるだけなら造作も無いことだが、それで彼らに並べるわけではない。もっとたくさん話をしたかったのだが、どうやら朝食が出来てしまったらしい。僕の目の前にアイスクリームとフルーツがのった、ボリューム満点のパンケーキが用意された。二人はそれを美味しそうに食べている。

「どうぞ、食べて」

 日比谷さんにすすめられて一口食べてみた。やはり今朝食べたなんかとは大違い、甘さと爽やかさと触感が相埃って、良い意味で記憶に残る味だ。僕が残り半分に達した頃には日比谷さんは既に食べ終わっていて、彼女はリビングに向かった。窓辺に置かれたグランドピアノ、あまりにも自然でその存在に気づかなかった。日比谷さんがピアノの前に座る。日の光に照らされてぼやける輪郭。僕が一瞬、ほんの一瞬まばたきをしたその時、広いダイニング続きのリビングに透き通るような高い音が響いた。聞き覚えの無い曲、クラシックかジャズか、そういうことはよくわからないけど、何故だかとても親しみやすい曲だ。十二小節弾き終えたところで日比谷さんが僕の顔をちらっと見た。まるで「わかる?」とでも尋ねてきているようだ。わかるとも、これは僕のバンドの曲、『バレット』の存在しないキーボードパートだ。日比谷さんのピアノと自分達の演奏を頭の中で混ぜ合わせてみる。何処を切り取っても違和感の無い、それどころか一層昇華されたような、そんな感覚すらおぼえる。何より僕達に負けず劣らずの激しさが彼女にはあった。

「去年の演奏会の後、帰って来るなりいきなりこの曲を弾くようになったんだけど、君はこれが誰の曲か知ってるかい?」

「僕達の曲です、多分……」

 本当は自信でいっぱいだった。だけどそんなこと胸を張って言う程のことでもない。現に日比谷さんのお父さんは満足げだ、もちろん日比谷さんも。

「今朝彼女をバンドに誘ったんです」

 日比谷さんのお父さんは「娘をよろしくおねがいします」と言うとその場を後にした。頼んだのは僕のほうだ。

 演奏を終えた日比谷さんが。リビングからこちらに向かって来る。「聴いててくれたんだ」と僕が言うと、日比谷さんが頷いた。

「私、こう見えてもロックとか好きなんだよ」

 本当に意外と言うかなんと言うか、まあ、素直に言うと嬉しかった。

「カナデ様、そろそろお時間ですよ」

 時計を見ると時刻は7時半を過ぎていた。「じゃあ、また後で!」と言って僕は日比谷さんの家を後にした。一旦自分の部屋に戻り荷物をまとめて自転車に跨がる。日比谷さんを乗せた車が僕の前を走りさる。なんともない慌ただしい朝の風景が、今日だけは嫌に爽やかに写っていた。


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