奏ー1
しけっぽい六月の空気が窓の隙間から入り込んでくる。北海道者の僕にとって梅雨なんてものは一生縁の無い物とばかり思っていたが、案外そういうわけでもなかったようだ。
地元の国立大学の前期試験に落ちた僕が逃げる様に東京の中堅大学に転がり込んだのは一年前のこと。以来、毎月の仕送りを頼りに惰性で日々を浪費する毎日。オリンピックムードに沸く大都会には似合わない田舎臭い大学生が、自転車を漕いでいく。偏屈であまのじゃくな僕にとって2020年は、街行く人々の陽気な鼻唄のおかげで、それはもうとても生きにくい時代だ。
テーブルの上に放置された六枚入りの食パンと冷蔵庫から出した1000mL、つまり1L入りの牛乳200mLで無味乾燥した朝食を終わらせ、急いで着替える。きっと親がいればハムエッグなんかを用意してくれていただろうけど、あいにく四畳半のワンルームは夢と希望にみちあふれた皮肉若者一人でいっぱいいっぱいだ。と、皮肉臭いことを考えるのももはや惰性と化している。そしてたいていそんなことを考えているうちに出かける用意が終わる。
仕度が済めばボロアパートには不釣り合いなお高い自転車に跨がる。出発して間もなく、線路沿いの道路を走っていると最寄り駅から出発した電車が僕を追い越して行く。自動車にだって勝てやしないのに、と、心の中で小さくぼやいてみる。が、そんなことしたところで何が変わるわけでもなく、枯れ桜の立ち並ぶ陰気臭い道を抜けて、僕はいつも通り少し遅れて講義室の席に着いた。
「今日は随分と遅かったな」
バンド仲間のテツヤが、わざとらしくそう言った。僕は「何時ものことだろ」と言って鞄からノートを取り出すと、黒板にずらっと書かれた言葉を殴り書きでそこに写しはじめた。板書のコピーを終えると待っていたのはただただ退屈な時間、別に興味も無い経済学のあれこれ、つまらない教授の話。辛うじて晴れといえる位に灰色がかった空を見ようと窓を眺めていると、一人の女子学生と目が合った。うっすらと微笑みかける彼女に僕は一応会釈する。すると隣にいたテツヤが意味深な顔をして僕を小突いてきた。「あれはオチたな」と言われた時、僕は全てを悟り、恥ずかしさと申し訳なさを感じつつも知らないふりをしてノートに目線を落とした。。今日の講義で覚えていることと言えばこれくらいだろうか、九十分間機械のように手を動かした僕は早々に教室を出ようとした。が、どうにもそういうわけにはいかず、僕は例の青い狸みたいな容姿の教授に呼び出されてしまった。
どうやら狸の話によると、僕は彼の教諭生活の中での最高の遅刻回数を記録している学生らしい。。
「わかりました、気をつけます」
適当に返事をしてその場を後にした。僕を見届ける狸の目はどこかさみしげで、哀れむような表情は僕の心にぼんやりとした不安を植え付けた。微妙に長い廊下、道行く学生は皆楽しそう会話をしている。憂鬱に浸りながら歩く僕の肩に、後ろから誰かが触れた。
「おっせーぞ、とっとと飯食わねーとスタジオ遅れるぞ!」
テツヤだ。ロッカーからドラムスティックを取り出してきたのだろう、右手には縦長のポーチのようなものが握られている。
「飯はあるから、早く行こう」
朝、コンビニで買ったサンドイッチとコーヒー牛乳。上京大学生のだらし無い生活、強いては現代社会の抱く闇を映し出すようなビニール袋。僕の周りには常々安っぽい、しょうもない物ばかり集まってくるようだ。学校から数百メートル離れたスタジオの待合室でそれらを口に詰め込む。程なくしてベースのコウキもスタジオに現れた。
「セーフ!」
コウキは明るく取り繕っているが、実際はアウトだ。五分の遅刻。ただ、それをとやかく言える程僕はしっかりしているわけでもない。
「気をつけろよ、次入ってねーから店長が許してくれたけど……」
かく言うテツヤもリズムキープ以外は時間厳守のじの字も無いくらいにルーズな人だ。僕とコウキはクスクスと笑いながら部屋に向かう。
「なっ、何がおかしいんだよ?!」
その後ろをテツヤが着いてくる。「6」と書かれた扉を開き、真っ先に目に映ったのはマーシャルのアンプ。相当使いこまれているのだろう。風化したビニルの独特な質感が触らずしして伝わってくる。が、僕が使うのはこっちじゃない。その隣にぽつんと置かれた実家のテレビくらいの大きさのアンプ、フェンダーのツインリバーブだ。セミハードのケースから酷く改造されたジャガーを取り出すと、二、三個のエフェクターを通し、ツインリバーブに繋ぐ。電源を付けると小さく唸り声を上げたアンプはゲインを右に回すことでその声を更に大きくしていく。フロントのハムバッカーが荒く心地良い歪みを生み出している。この瞬間が、僕が最も僕を感じる瞬間だ。ビートルズに憧れて始めたロックも、カートコバーンを目指して買ったジャガーも、今や僕の大事な一部になっている。
「よし、始めようぜ!」
長い長い深呼吸の後、テツヤが四度、力強くシンバルを叩いた。コウキの流れるようなベースラインと僕の拙いリフが溶け合う。いつまでも続けたい、そう思える程ここちよい時の流れに変化を与えたのはやはりテツヤだった。小気味良いタム回しに続き一気に激しさを帯びたギターのリフ。所々で入るベースのスラップが絶妙なアクセントになって独特な雰囲気を醸し出す。
一声目、スタンドに取り付けられたマイクからスピーカーを経由して、室内に僕の声が突き刺さる。僕にとって歌詞なんてものは案外どうでもいいもので、どちらかと言うと音階、否、叫び、とりわけ目に見えないものを重視する節がある。所謂パンクバンドの、それをまた更に荒れたようなものだ。それはまたバンド全体の共通意識でもあり、流石は似た者同士、二人も言葉に必要性を感じていないらしい。
そんな楽しい時計も流れるように過ぎていき、気がつけば約二時間半、予約していた時間も残り僅かとなっていた。
「なんか……足りない」
不意に口から漏れた。僕は自分の言葉を疑った。テツヤとコウキは首を傾げている。先程までとの熱気とは打って変わり、なんだか掴み所の無いへんてこな空気が流れている。「足りないんだ」とは呟いてみるものの、何が足りないのかよくわからない、そんなむず痒い気分を味わっているのはきっと僕よりぽつんと取り残された二人のほうだろう。
違和感の残るまま、とりあえずスタジオを出た僕達は最寄のファミレスに入った。ドリンクバーを注文するといつもしているミーティング兼反省会が始まった。
「で、足りないってどういうこと?」
テツヤが言った。自分にもわからないこと、他人に説明なんてできるはずもなかった。僕はひたすら押し黙ることしかできなかった。
「うーん……ちょっとメロディーがシンプルすぎるかな?」
コウキが救いの手をさしのべてくれた。もっとも、ギター一本で出せる音には限度がある。それがコードを掻き鳴らすだけの僕のギターでは、尚更出る音は限られてしまう。
「確かにな、でも今更そんなこと考えても、俺達のカラーみたいなのもだいぶ出来てきてるしさ……」
全くテツヤの言う通りである。が、しかし僕には一つ考えがあった。
「メンバー募集する?ギターかキーボードの」
「募集って、誰かアテでもあるの?」
コウキが興味を示してくれた。そこで僕が「日比谷さんとか……」と言うと、テツヤとコウキは目を大きく見開いた。耳を疑うのも無理もない。去年の歓迎会でのこと、ナンパしてきた上級生を警察に通報した彼女は、その後バンドに入れず、サークルでライブハウスを貸し切りにして行ったライブで一人キーボードでステージに立った変人だ。
「日比谷カナデだっけ?流石にあの子は……」
遠慮がちになるテツヤ。気持ちはわからなくもないが、彼女の演奏は本当にに素晴らしいんだ、と、気づいた時には僕は、彼女を敬遠するテツヤに必死で彼女の魅力を語ってた。蒸し返るような暑さのライブハウス、白けたオーディエンスの中、恐らく僕一人だけが彼女の演奏に惹かれていた。跳ねる鍵盤を白く細い指が撫でるように、それでいて力強く叩いている。複雑な電子回路を流れてきた音も、それがあたかも生音であるかのような立体感を帯びていた。ロッカールームでだべっている二人にも聴かせてあげたかった。周りに流されて聴いていないふりをしていた自分が憎い。あの隣でギターを弾ければどれだけここちよいものだったか……
「お前がそこまで言うなら……一回聴いてみようか」
コウキも頷いてくれている。こうして僕達は明日、日比谷さんを捜すことになった。
その日の夕方、ふらっと立ち寄った楽器屋でギターを買ってしまった。完全な衝動買いだ。何が良くて買ったのか、褪せたブルーのムスタングだ。綺麗な飴色のネックや傷一つ無いボディーが前のオーナーの丁寧な演奏を容易に思わせる。おかげで貯金は底を尽き、今日から楽しい極貧生活だ。が、意外なことに後悔は全く無く、むしろ平坦な日々に変化をくれたこのギターに感謝しているくらいだ。無口な店長がおまけにくれた替え弦10セットをカゴに入れて、西日の落ちるしけった街の一本道をゆっくりゆっくり走っていく。
家に着くと早速家庭用の小さなアンプに繋いでみた。低音がすっからかんの、間抜けな音。ネックを保護する為に張られていたゲージの低い弦が、僕の中指に優しく触れる。碧く焼けたラッカー面にどことなく満足げな僕の顔が写っている。
「いい音じゃん」
ムスタングをケースにしまい、狭苦しい部屋の低い天井を眺めてみる。もしかすると自分の知らない所で世界は何倍ものスピードで回っているんじゃないか、と、そんなくだらないことを考えているとなんだかお腹が空いてきた。買いだめておいたカップ麺をかきこんで、世界がひっくり返るような、そんな明日に備えることにした。