雨の日の前奏曲
雨の日は嫌いだった。別に理由なんてない。
湿気で髪はうねるし、空は暗いし、なんだったら傘だってさすのがめんどくさい。誰だってそうだろ?
そんなわけで、俺は梅雨の雨の多さに辟易しながら、その日も憂鬱な気分で校舎の中を歩いていた。目的はない。ただ、雨の中帰るのがめんどくさかっただけだ。
音楽室の近くを通りかかったときだった。ふと、ピアノの音が聞こえてきた。ぽつぽつと、雨音みたいな旋律。
何となく気になって覗いてみると、一人の女子生徒がピアノを弾いていた。上履きの色から、先輩だと分かる。自分のことを棚に上げて、帰らずに何をやっているんだろうと思ったがそれだけだった。
その次の雨の日も、先輩は音楽室でピアノを弾いていた。この間と同じ曲だ。
「帰らないんすか」
俺が思わず話しかけると、先輩は一瞬驚いた顔をしたあと、首をかしげた。
「あなたこそ」
そりゃそうだ。先輩も同じように帰らないでうろうろしている俺には言われたくなかったはずだ。目的もなくうろついているのは知らないだろうけど。
話しかけるつもりはなかった。ただ、ピアノを弾く先輩の顔が、少し寂しそうに見えたから気になっただけ。
それから、雨の日になると音楽室に通うようになった。別に音楽に興味があったわけじゃない。きっとその曲が好きだったんだ。たぶん。きっと。
俺はそっと音楽室に入ると、先輩の演奏が終わるのを待つ。
最初はぽつぽつと降る雨みたいな軽い音、途中で大雨になって、そして最後はまたぽつぽつ。そんな曲だ。
俺が曲を聴いて思う感想なんてそんなもんで、その程度の興味しかない。
「また来たの?」
演奏を終えた先輩が振り返る。湿気で跳ねた髪が、小さく揺れた。
「雨なんで」
「なにそれ」
呆れたように言う先輩だったが、別に邪険に扱うでもない。先輩が弾くピアノを聴いて、少し会話をして、雨が弱まったタイミングで帰る。いつも通りだ。
「それ、なんて曲なんですか」
「これ?」
何回も聴いていたはずなのに、曲名すら知らないことに気付く。俺がピアノの譜面台に乗っている楽譜を指さすと、こちらに差し出してきた。受け取って表紙に書かれた名前を読む。
「……ちょぴん」
聞いたことない名だ。
「……ふっ」
あ、笑った。いや、今、笑われた?
「なんすか」
「ごめん」
……まあいいか。笑った先輩、可愛かったし。
「ショパンって読むの」
「あ、ショパンなら聞いたことある」
そうか、ショパンって読むのか。英語の読み方はよく分からない。いや、そもそも英語か?
「通称は雨だれって曲なの」
「通称?」
「本当は前奏曲第十五番。プレリュードって言うんだけど」
「プレリュードなら分かります。有名なゲームの曲っすね」
「……そうなんだ?」
あ、先輩はゲームやらない人っすか。でもそうか、プレリュードは前奏曲って意味だったのか。
「ちょぴんの雨だれ、覚えました」
「ショパンね」
俺の間違いを訂正しながら、先輩は小さく笑う。その顔を見れただけで、なんだか少し嬉しかった。
ちょぴん、お前のおかげだ。
六月の終わり。窓を叩く雨音に乗せながら、先輩はいつもの曲を弾いていた。
「先輩、その曲好きなんですか」
鍵盤を一定のリズムで叩いていた指が止まった。雨音が止まる。
「好き、かな」
先輩は少し考えてから口を開いた。
「思い出の曲だから」
「思い出?」
「そう」
先輩は窓の外を見た。遠くを見るような目だった。何かを思い出すような。雨だれを弾いてる時と同じ顔。
「ピアノの先生が好きだったの」
「へえ」
「初恋」
思わず言葉に詰まった。まさかそんな単語が出てくると思わなかったから。なんて返せばいいか分からず言葉を発せない俺に、先輩は続ける。
「その先生も雨の日によく弾いてた」
「そうなんすね」
「この曲はね、ショパンが療養先で大雨に降られて、帰ってこれなくなった恋人を待ちながら作った曲なんだって」
「へえ」
本当はちょぴんだかショピンだかにも、その曲にも興味はない。でも、その話をする先輩を見るのが好きだった。
……思い出しているのが、その初恋の相手だっていうのは、少しだけ面白くないけど。
「先輩にとっては失恋の曲なんすね」
そう言うと、先輩は首を傾げた。
「違うよ」
「違うんですか」
「うん」
先輩は笑った。
「好きだった時間も含めて、大事な思い出だから」
窓の外では雨が降り続いている。その横顔から目が離せなかった。
七月に入って最初の雨の日。俺はあんなに鬱陶しかった雨の日が待ち遠しくなっていることに気付いた。いつも通り、校舎の中を歩く。
しかし、その日は先輩のピアノの音は聞こえなかった。音楽室を覗いてみたが、鍵がかかっていて誰もいない。
たまたまだろうと思った。先輩にだって予定はあるだろうし、体調を崩したのかもしれない。そう考えると少し心配になったが、またすぐ会える。
けれど、次の雨の日も。その次の雨の日も。音楽室から雨音は聞こえなかった。
今日も雨だった。別に待ち合わせなんてしていない。約束だってない、曖昧な関係。どちらかが音楽室に行かなければ、こんなあっさり終わってしまうんだ。
誰もいない音楽室を見るのが怖くて、校舎の中をうろうろする。窓の外を見れば、雨は激しく窓を叩いていた。
ふと、先輩の言葉が頭をよぎる。
『この曲はね、ショパンが療養先で大雨に降られて、帰ってこれなくなった恋人を待ちながら作った曲なんだって』
あの時はただ、ふーんと思っただけだった。ショパンも雨だれもどうでも良くて、ただ先輩の声を聞ければよかった。
「ちょぴん、お前も待ってる間こんな気持ちだったのか」
その時だった。激しい雨の音で気が付かなかったが、微かに雨の音に混じってピアノの音が聞こえる。
ぽつぽつと、いつもの旋律。聞き慣れた音だった。でも、聞きたかった音。
気が付けば、廊下を走っていた。途中で先生の「走るな!」という声が聞こえたが、気にしない。俺にはもう、先輩の雨の音しか聞こえない。
「先輩!」
勢いよく音楽室のドアを開けると、先輩は驚いた顔をして、演奏をやめた。さすがに全力疾走はキツい。
息を整えながら先輩の顔を見ると、いつもの先輩だった。湿気で跳ねた髪も、何も変わらない。
「今日は来ないかと思った」
「え?」
その言葉に、俺は目を丸くする。
「だって、雨の日はすぐ来るから」
最初に来なくなったのは先輩でしょ。そう言いかけて、飲み込む。それじゃあまるで、先輩も待っていたみたいだ。待っていたのは、自分だけじゃなかったのかもしれない。
来なかった理由は聞かなかった。そんな事はどうでも良い。だからいつも通り、他愛もない話をした。窓の外では、まだ雨の音がする。
「今日はもう、弾かないんですか」
そういえば、さっき演奏を途中で止めてしまった。ピアノの前に座ったまま、先輩は少し考えてから、やがてピアノの蓋を閉める。
「今日はいいかな」
「なんで?」
そう尋ねれば、先輩はやわらかく笑った。ちょっと照れたような顔をしながら。
「待ってた人が来たから」
一瞬、意味が分からなくてぽかんとする。待ってた? 誰が、誰を。
そこまで考えて、さっきのは勘違いなんかじゃないと気付いた。先輩も同じだったってことを。
なんだよ、ショパン。お前の言いたいこと、ちょっと分かったかもしんない。
先輩は窓の外の雨が弱まったことを確認して、何事もなかったかのように立ち上がる。
「帰ろうか」
「……はい!」
少し早足になった先輩の後を追いかける。雨だれは聞こえない。でも、その代わりに、二人並んで歩く足音が聞こえていた。
企画参加した際、今回のテーマが「雨」と「恋」だったため、自分の好きなショパンの雨だれを作品に組み込んでみました。
タイトルはぜひ「雨の日のプレリュード」と読んでください。




