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婚約破棄の慰謝料に呪われた城をいただきました。返してほしいなら、私とゲームをいたしましょう

作者: どどんこ
掲載日:2026/05/27

意図と異なる解釈をされる箇所や、意味が伝わりにくい箇所があったため、一部表現を修正しております。


「エステル・リュミエール。君との婚約は、本日をもって破棄する」


 王宮の大広間に、第一王子レイモンドの声が響いた。


 今宵は、王立学院の卒業を祝う舞踏会だったはずである。


 銀の燭台には無数の火が灯り、弦楽器の音色が止まったまま宙に残っている。貴族の子息令嬢たちは、驚きながらも期待に満ちた目で、広間の中央に立つ私を見ていた。


 誰もが、面白い見世物が始まったと思っているのだ。


 婚約者であるレイモンド殿下の腕には、ふわりとした桃色のドレスを纏った伯爵令嬢ミレイユが寄り添っていた。彼女の瞳は潤み、けれど口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」


 私が礼を保ったまま尋ねると、レイモンド殿下は苛立たしそうに眉を寄せた。


「まだしらを切るつもりか。君は、私がミレイユを大切にしていることを妬み、彼女を茶会から排除し、ドレスを汚し、階段から突き落とそうとした」


「わ、私……怖くて、今まで言えなかったのです……」


 ミレイユが殿下の胸元で震える。


 私は思わず、彼女の右足を見た。


 先週、階段から落とされかけたと訴えた際には、歩くこともできないほど痛むと言っていた足である。今夜はずいぶん細いヒールの靴を履き、先ほどまで軽やかに踊っていた。


 もっとも、ここでそれを指摘したところで意味はない。


 殿下は真実を知りたいわけではなく、私を婚約者の座から引きずり降ろす理由が欲しいだけなのだから。


「私には身に覚えがございません」


「見苦しいぞ、エステル。君は公爵令嬢という立場を利用して、弱い者を虐げた。王妃となる資格などない」


「証拠はございますか?」


「ミレイユの涙が証拠だ!」


 広間のどこかで、小さく息を呑む音がした。


 それはさすがに証拠ではない、と気づいた者もいたのだろう。


 けれど、殿下は止まらなかった。


「とはいえ、王家とリュミエール公爵家の間には長年の縁がある。君を何も持たせず放り出したとなれば、我が慈悲が疑われるだろう」


 殿下が指を鳴らす。


 侍従が、銀盆に載せた一枚の権利書を運んできた。


「慰謝料として、宵影城を君に与える」


 一瞬の沈黙の後、広間がざわめいた。


「宵影城って……あの?」


「百年以上、誰も住みつかない呪われた城でしょう?」


「夜になると死者の晩餐会が開かれるって……」


 宵影城。


 王都から馬車で三日、深い森と黒い湖に囲まれた古城である。


 かつてヴァルグレイヴ公爵家が治めていたが、反逆罪で一族が処刑されて以降、城へ入った者は一月も保たず逃げ出すと言われている。


 夜ごと廊下に足音が響き、鏡にはいないはずの人影が映り、地下からは笑い声が聞こえる。


 貴族たちの間では、価値のない土地の代名詞だった。


「殿下。それは本気で慰謝料としてお与えになる、ということでよろしいのですね?」


「もちろんだ。城一つを与えるのだ。不満などあるまい」


 殿下は勝ち誇ったように笑った。


 私は権利書へ目を落とした。


 古城の名。土地の境界。譲渡人の署名欄。


 そして、譲渡対象にはこうある。


 ――宵影城の建造物、敷地、森林、湖沼、および城内・地下・付属地に現存する一切の財物ならびに権利。


 ずいぶん丁寧な文面だ。


 殿下は、私が後から何かを請求しないよう、弁務官に抜け道なく作らせたのだろう。


 だからこそ、私は笑みを浮かべた。


「ありがたく頂戴いたします」


「……何?」


「婚約破棄も承知いたしました。私は本日をもって、レイモンド殿下の婚約者ではなく、宵影城の所有者となります」


 もっと取り乱すと思っていたのか、殿下の目がわずかに揺れた。


「強がりもほどほどにすることだ。あの城は亡霊の巣だぞ。今なら、ミレイユへ謝罪すれば、小さな別邸に変更してやってもよい」


「いいえ。城が欲しいのです」


 私は侍従から羽ペンを受け取り、権利書へ署名した。


 エステル・リュミエール。


 最後の一画を書き終えた瞬間、紙の縁が淡く青白く光った。


 この国の上級貴族の財産譲渡契約には、古い誓約魔法が働く。一度両者が署名し、魔力印が灯れば、王といえど一方的に覆すことはできない。


 殿下の顔が、一瞬だけ歪んだ。


 けれど、すぐに嘲るような笑みに戻る。


「好きにしろ。君には呪われた城がお似合いだ」


「ありがとうございます、殿下」


 私は最後に、婚約者だった男性へ美しく一礼した。


「ミレイユ様と、どうか末永くお幸せに」


 そして、集まった視線の中を、背筋を伸ばして歩き出した。


 扉を抜ける直前、背後でミレイユの甘い声が聞こえた。


「レイモンド様、よろしかったのですか? エステル様、少しも悔しそうでは……」


「放っておけ。三日もすれば、泣いて戻ってくる」


 戻るものですか。


 十年間、王妃教育を受け、殿下の失言の後始末をし、彼の望む“完璧な婚約者”を演じ続けてきた。


 自分の人生を誰かの機嫌に捧げる日々は、今夜で終わったのだ。


 たとえ次の住まいが、亡霊だらけの呪われた城だとしても。


       ◇


 宵影城へ到着したのは、舞踏会から五日後の夕暮れだった。


「お嬢様。本当に、ここで暮らされるのですか……?」


 長年私に仕えてくれた侍女のアンナが、馬車の窓から城を見上げて声を震わせた。


 灰色の石で造られた城は、森の中に沈む巨大な影のようだった。


 尖塔の窓は黒く、蔦が壁を覆い、正門には黒薔薇を模した鉄細工が絡みついている。


 湖から吹く風は冷たく、まるで誰かが溜息をついているように木々を揺らしていた。


「契約書によれば、今日からここは私の城です。所有者が怖がっていては、城にも失礼でしょう」


「ですが、亡霊が……」


「亡霊も、いきなり襲いかかってくるほど暇ではないかもしれません」


「亡霊はたぶん、とても暇だと思います!」


 アンナの反論に少し笑いながら、私は正門へ向かった。


 鍵は、権利書とともに渡された箱の中に入っていた。


 錆びた鍵穴へ差し込み、力を込めて回す。


 重い音を立てて、扉が開いた。


 中は薄暗かったが、想像していたほど荒れ果ててはいなかった。


 玄関広間には埃こそ積もっているものの、大理石の床は美しく、壁には褪せた絵画が並んでいる。中央には二階へ続く幅広の階段。その踊り場には、銀髪の若い男性を描いた肖像画が掛けられていた。


 切れ長の青い瞳に、少し意地の悪そうな笑み。


 画面の下には、金文字で名が刻まれている。


 ――ノエル・ヴァルグレイヴ。


「最後のヴァルグレイヴ公爵子息……」


 アンナが小声で呟いた。


「反逆罪で、一族とともに処刑された方ですよね」


「確か、百二十年前だったはずです」


 学院で学んだ歴史では、ヴァルグレイヴ公爵家は国王暗殺を企てた大罪人とされていた。


 しかし、肖像画の青年は、歴史書の中の冷酷な反逆者には見えなかった。


 私が絵へ近づいた、そのときだった。


「失礼だな。本人を前にして、じろじろ観察するなんて」


 耳元で、知らない男の声がした。


「きゃあああああ!」


 アンナの悲鳴が城中へ響き渡る。


 振り返ると、私のすぐ後ろに、肖像画とまったく同じ銀髪の青年が立っていた。


 正確には、浮いていた。


 彼の靴底は、床からわずかに離れている。整った顔立ちと優美な衣装は肖像画のままだが、体はうっすら透け、その向こうに階段の手すりが見えた。


「まあ」


 私は思わず声を上げた。


「本当に出るのですね」


「その感想は初めてだな。普通は悲鳴を上げるか、気絶するか、走って逃げる」


「悲鳴は侍女が担当してくれましたので」


「お、お嬢様ぁ……!」


 アンナは私の背後で震えながら、必死にスカートを掴んでいる。


 銀髪の幽霊は、面白そうに目を細めた。


「君が、城の新しい所有者か?」


「エステル・リュミエールです。昨日まで王子の婚約者でしたが、婚約破棄の慰謝料として、こちらをいただきました」


「城を慰謝料に?」


 青年の眉がぴくりと動いた。


「王家もずいぶんと大胆なことをする。いや、何も知らないからこそできたのか」


「何か価値のあるものがあるのですか?」


「質問が早いな」


「城主ですので」


 青年は楽しげに笑った。


「僕はノエル・ヴァルグレイヴ。この城の元所有者で、今は亡霊のようなものだ。正確な話は、まだ君にはできない」


「なぜです?」


「この城には契約の呪いが掛かっている。僕たちは、王家に関するある真実を、生者へ直接告げることができない。告げようとすれば、声が消える」


「ある真実」


「そう。代わりに、ゲームならできる」


 ノエルが指を鳴らした。


 その瞬間、暗かった玄関広間のシャンデリアに、一斉に青い炎が灯った。


 階段の上、廊下の奥、柱の陰から、次々と半透明の人影が現れる。


 白髪の執事。ふっくらした料理人。眼鏡をかけた老婦人。小柄な少年。甲冑姿の騎士。猫を抱いた侍女。


 全部で十数人ほどの亡霊たちが、好奇心いっぱいの目で私を見ていた。


「新しい城主様ですか?」


「今度の方は逃げませんかねえ」


「三日かな」


「いや、今夜の晩餐まで持てば上出来だ」


「ちょっと、皆さん。本人の前で賭けをするのは失礼ですよ」


 アンナは真っ青な顔で、その場へ座り込んだ。


 私は、亡霊たちを一人ずつ見渡した。


 恐ろしいというより、どこか寂しそうだった。


 百年以上、誰にも話を聞いてもらえず、この城に閉じ込められていたのだろうか。


「晩餐に招いてくださるのなら、参加いたします」


 亡霊たちのざわめきが止まった。


 ノエルが、驚いたように私を見る。


「怖くないのか?」


「怖いかどうかは、晩餐の献立を見てから判断いたします」


 一拍置いて、亡霊たちが一斉に笑い出した。


「このお嬢さん、面白い!」


「料理長、腕を振るいなさい!」


「幽霊の料理を生者が食べられるわけないでしょう!」


「なら、生きた侍女殿に作ってもらおう!」


「私ですか!?」


 その晩、宵影城では百二十年ぶりに、生者を迎えた晩餐会が開かれた。


       ◇


 亡霊との暮らしは、噂で聞いていたものとはずいぶん違った。


 夜中に廊下を歩く足音は、執事のグレゴールが巡回している音だった。鏡に映る人影は、元侍女のローザが髪型を整えるのを見ているだけ。地下から聞こえる笑い声は、亡霊たちが毎夜ゲームをしているためである。


「城へ入った者が一月も保たず逃げ出すのは、あなた方が驚かせるからではありませんか?」


「我々も最初は丁寧に挨拶していたのです」


 執事のグレゴールが、真面目な顔で答える。


「しかし皆様、私が壁から顔を出して『ようこそ』と申しただけで逃げ出されるので」


「壁から顔を出す必要はありませんね」


「扉を開けられないもので」


 宵影城に来て一週間。


 私は荒れた部屋を整え、アンナとともに最低限暮らせる場所を作った。亡霊たちは物を持ち上げられない者が多かったが、掃除すべき場所や隠し戸棚の位置を教えてくれるため、案外作業は捗った。


 そして夜になると、長い食堂の卓でゲームが始まる。


 カード、盤上戦、言葉遊び、駒の入った箱を当てる推理ゲーム。


 ノエルは、信じられないほど強かった。


「また僕の勝ちだな」


 盤上に並んだ青と白の駒を前に、ノエルは余裕の笑みを浮かべた。


「今のは、私が中央を取りに行くよう誘導しましたね」


「気づくのが六手遅かった」


「次は負けません」


「負けた者は毎回そう言うんだ」


 悔しい。


 王妃教育では、礼儀作法、歴史、外交、会計、舞踏、会話術まで一通り学んだ。ゲームだって、殿下の機嫌を損ねない程度に負ける方法なら身についている。


 けれど、勝つために頭を使い、相手の思考を読み、罠を仕掛けることが、これほど楽しいとは知らなかった。


「ノエル様。もう一度です」


「その前に、僕の質問へ答えてもらおう」


「質問?」


 ノエルは駒を元の位置へ戻しながら、静かに尋ねた。


「なぜ、婚約破棄されて泣かなかった?」


 私は駒を持つ手を止めた。


 亡霊たちは別の卓で騒いでおり、こちらの会話を聞いてはいない。


「泣いてほしかったのですか?」


「まさか。君が泣くところなど見たくない。ただ……普通は、長年ともにいた相手に公衆の面前で捨てられれば、もう少し傷つくものだろう」


「傷つきました」


 私は白い駒を一つ、盤の中央へ置いた。


「悲しかったというより、自分が情けなかったのです。殿下が私を大切にしていないことは、ずっと分かっていました。私は彼の失敗を隠し、彼の代わりに学び、彼が褒められるように立ち回ってきた。それでも、いつか認めていただけると思っていた」


「馬鹿な男だ」


 ノエルが即座に言った。


 私は思わず笑ってしまう。


「亡霊が王子を馬鹿と言ってもよろしいのですか?」


「死者には失う地位がないからね。好きなことを言える。……言えないことを除けば」


 最後の言葉だけ、わずかに苦かった。


「呪いのことですか」


「ああ。君に、この城が何を抱えているか説明できればいいのだが」


「無理に話さなくて結構です」


「知りたくないのか?」


「知りたいです。けれど、話せない方へ無理に言わせるのは、殿下と同じですから」


 ノエルは目を見開いた。


 青い炎が揺れ、その透けた輪郭を淡く照らす。


「君は……不思議な女性だな」


「今さらお気づきですか?」


「失礼。気づいたのは最初の晩だ。確認しただけだよ」


 彼は盤上の駒を一つ動かした。


「では、直接言えないことの代わりに、君へ一つ教えよう」


「ゲームの攻略法ですか?」


「人生にも使える攻略法だ。相手が隠し事をしているとき、その者は“知られたくないこと”より、“自分はすでに知っていると思い込んでいること”を守ろうとする」


「……どういう意味です?」


「人は、自分だけが答えを持っていると思った瞬間、問いを解くことをやめる。だから勝ちたければ、相手に答えを与えてやるといい。少しだけ間違った答えをね」


 ノエルは微笑んだ。


「さあ、次の一局だ。今度こそ僕を驚かせてくれ、城主様」


 その夜、私は初めて、ノエルから一勝を奪った。


       ◇


 宵影城で暮らし始めて一月が経った頃、一通の手紙が届いた。


 差出人は、元婚約者であるレイモンド殿下。


 文面は短かった。


 ――宵影城の譲渡について確認すべき事項が生じた。三日後、城へ赴く。所有権証書を用意して待て。


「確認すべき事項、ですか」


 私は暖炉の前で、手紙を二つに折った。


 傍らに浮かぶノエルの顔は、珍しく険しい。


「とうとう気づいたらしい」


「城に価値のある何かがある、と?」


 ノエルの口が動きかけ、声が途切れた。


 青白い輪郭に、鎖のような光が一瞬浮かぶ。


 やはり、王家に関する秘密を直接話すことはできないらしい。


「無理をなさらないでください」


「すまない」


「謝ることではありません。それより、質問を変えます」


 私は机の引き出しから、城の譲渡契約書を出した。


「この権利書には、城内・地下・付属地に現存する一切の財物ならびに権利が、私へ譲渡されたとあります」


「ああ」


「殿下が欲しがる何かは、その中に含まれますか?」


 ノエルは、一瞬驚いたように目を細めた。


 そして、声を失うことなく答えた。


「含まれる」


「では、それはすでに私のものですね」


「そうだ」


「殿下は、返せと命じるでしょうか」


「間違いなく」


「返さなければ、権力で奪う?」


 ノエルは首を横に振った。


「できない。少なくとも、堂々とは。この国の誓約魔法で認められた所有権を、王族が力で破れば、王家そのものへの信頼を失う」


「ならば、何らかの形で私に返還へ同意させる必要がある」


「その通りだ」


 私は考えた。


 レイモンド殿下は、私が言いなりにならなければ怒る人だ。説得より脅迫を選ぶ。しかし契約で奪えないなら、彼が持ち出すものは限られている。


「この国には、貴族同士の争いをゲームで決着させる古い制度がありましたね」


 ノエルの瞳が、愉快そうに光った。


「誓約遊戯。武力による領地争いを終わらせるため、かつて定められた制度だ。双方が賭けるものを宣言し、ルールへ同意し、勝者がすべてを得る。王族であっても結果を覆すことはできない」


「殿下は使うと思いますか?」


「彼が本当に城の中にあるものを欲しているなら」


「では、準備をしましょう」


 私は立ち上がった。


「勝負を受ける準備を?」


「いいえ」


 私は、舞踏会の夜に殿下が浮かべていた、私を愚かだと決めつけた笑顔を思い出した。


「殿下が、自分から勝負を申し込まずにはいられなくなる準備です」


 ノエルは数秒黙ったあと、楽しそうに笑った。


「やはり君は、最高の城主だ」


       ◇


 三日後、宵影城の前庭へ、王家の紋章を掲げた馬車が到着した。


 降りてきたのはレイモンド殿下、ミレイユ、王宮付きの契約官二名、そして護衛たちである。


「まあ……本当に暮らしていらしたのですね、エステル様」


 ミレイユが、白い日傘の下でわざとらしく目を丸くした。


「怖くありませんの? 亡霊の城だなんて、私なら一晩も耐えられませんわ」


「城の皆様は、礼儀をわきまえておりますので」


「城の……皆様?」


「こちらの話です」


 私は、玄関広間へ一行を案内した。


 昼間のため、亡霊たちは姿を現さない。もっとも、彼らは壁の向こうで、こちらの会話を一言も聞き漏らすまいと集まっているはずだ。


 レイモンド殿下は挨拶もそこそこに、書類鞄を卓上へ置いた。


「エステル。単刀直入に言う。宵影城を返せ」


「お断りいたします」


 殿下のこめかみが動いた。


「君は、あの城に何があるか知らないだろう」


「存じません。ですが、私の城であることは知っております」


「これは王家に関わる問題なのだ。君のような者が所有してよいものではない」


「譲渡なさったのは殿下です」


「私は、城に価値などないと聞かされていた!」


「でしたら、軽率でいらっしゃいましたね」


 ミレイユが小さく息を呑み、契約官たちが視線を落とした。


 殿下の顔が赤く染まる。


「調子に乗るな。君が今後、社交界へ戻れると思っているのか。私に逆らえば、公爵家にも迷惑が掛かるぞ」


「父にはすでに、すべて報告しております。『王子殿下が正式に譲渡した城なら、お前が好きに扱えばよい』とのことでした」


 本当は、その後に『ようやくあの愚かな王子から解放されたか』とも書かれていたが、口にするのは控えておいた。


「それに、殿下。私にお渡しになった権利書は、誓約魔法で成立済みです。返せと命じるだけでは戻りません」


「分かっている!」


 レイモンド殿下は、懐から一枚の黒い羊皮紙を取り出した。


「だからこそ、誓約遊戯を申し込む」


 来た。


 私は表情を変えずに、羊皮紙を見た。


「賭けるものは?」


「私が勝てば、宵影城および城内に存在するすべての財物と権利を王家へ返還する」


「私が勝った場合は?」


「望むだけの金貨を与えよう」


「お金はいりません」


「何だと?」


「私が勝った場合、殿下には三つをお約束いただきます」


 私は指を一本立てた。


「一つ。舞踏会で私に向けたすべての『中傷』――失礼、殿下がお考えだったすべての『非難』を、証拠のない虚偽であったと公に撤回すること」


 殿下が歯を食いしばる。


 二本目。


「二つ。宵影城の前所有者、ヴァルグレイヴ公爵家に関する王宮保管記録を、私と公的調査官へ開示すること。いかなる理由でも隠匿しないこと」


 その瞬間、レイモンド殿下の顔がわずかに強張った。


 やはり、ここに触れられたくないのだ。


 三本目。


「三つ。この城および私へ、今後一切の所有権請求、婚姻による干渉、身分を利用した強制を行わないこと」


「君は……私と復縁できる可能性まで捨てるのか?」


 あまりに驚くべき言葉で、私は思わず沈黙した。


 まさか、まだ自分が望めば私が戻ると思っているのだろうか。


「殿下。私は、呪われた城で亡霊と暮らす方が、あなたの婚約者でいた頃より穏やかに眠れております」


 どこかの壁の向こうで、押し殺した笑い声が聞こえた気がした。


「……いいだろう。後悔するなよ」


 殿下が契約官へ顎をしゃくる。


「勝負の形式は私が決める」


「いいえ」


 私は微笑んだ。


「古式の誓約遊戯では、奪われる対象の現所有者が、勝負の形式を指定できます。殿下が欲しいのは私の城ですから、形式を選ぶのは私です」


 殿下が契約官を見る。


 契約官は青ざめた顔で頷いた。


「法文上は……エステル様のおっしゃる通りでございます」


「くっ……では、何をするつもりだ」


「今夜、日が沈んでからお知らせいたします」


 私は、目を細めた。


「宵影城名物の、亡霊晩餐会へご招待いたしますわ」


       ◇


 夜半。


 宵影城の大食堂には、長い卓と七脚の椅子が用意されていた。


 窓の外には満月が浮かび、青白い光が床へ落ちている。壁際には契約官たちと護衛、そして緊張した様子のミレイユが立っていた。


 レイモンド殿下は不機嫌そうに卓を見渡す。


「いつまで待たせる。亡霊など本当にいるのか?」


「お待たせいたしました」


 私が指を鳴らす。


 食堂の燭台へ、青い火が灯った。


 冷たい風が吹き抜け、七脚の椅子の背後へ、ゆっくりと人影が現れる。


 白髪の執事グレゴール。料理長ボリス。老婦人の家庭教師マダム・エマ。騎士のハインツ。侍女ローザ。少年従者ルカ。


 そして中央の椅子には、銀髪のノエルが優雅に腰掛けた。


「ようこそ、王子殿下」


 ノエルが笑う。


「百二十年ぶりに、王家の方を我が城の晩餐へ招けるとは光栄だ」


「っ……!」


 レイモンド殿下の顔が、見る見る青ざめた。


「ヴァルグレイヴ……なぜ、まだ……」


 彼は知っている。


 歴史書で顔を見ただけの反応ではない。


 ノエルが静かに笑った。


「何かご存じなのかな、殿下。残念ながら、今夜は昔話ではなくゲームの夜だ」


 私は卓の手前へ進み、契約官へ一枚のルール文書を渡した。


「勝負の名は、“七つの杯と銀の鍵”。ルールを読み上げてください」


 契約官が喉を鳴らし、震える声で読み始める。


「一、七人の城の住人の前に、それぞれ一つずつ銀杯を置く。そのうち一つにのみ、宵影城の所有を象徴する銀の鍵が隠される」


 グレゴールが、伏せられた七つの銀杯を順番に卓へ置いた。


「二、鍵の場所は、城の住人のうち一名、“語り手”のみが知る。語り手が誰であるかを、挑戦者へ知らせてはならない」


「三、挑戦者であるレイモンド殿下は、語り手へ三回まで、“はい”または“いいえ”で答えられる質問を行える。語り手は、真実を答えても、虚偽を答えてもよい」


 レイモンド殿下が鼻で笑った。


「嘘をついてよいだと? それでどうやって当てる」


「四、挑戦者は、質問への回答、語り手の様子、持参した道具、そのほか自らの判断材料を用いて鍵の杯を一つ選ぶ。正解なら挑戦者の勝利。不正解なら現所有者、エステル・リュミエールの勝利とする」


「ふざけたゲームだ。答える者が嘘をつけるなら、運任せではないか」


「ですから、使用する道具を認めております」


 私は、殿下の右手を見た。


 人差し指には、舞踏会の夜にはなかった大粒の紅玉の指輪が嵌められている。


「殿下。その指輪は、質問への答えが真実か虚偽かを見抜くためにお持ちになったのではありませんか?」


 ミレイユの肩がぴくりと動いた。


 殿下は一瞬黙ったあと、勝ち誇ったように笑った。


「よく気づいたな。これは王家に伝わる“誠偽の指輪”。偽りの言葉に反応して熱を帯びる宝具だ。相手が嘘をつこうと、私にはすべて真実として読み替えられる」


「では、道具の使用を宣言なさいますか?」


「もちろんだ。まさか、怖くなって禁止するとでも?」


「いいえ。使用を認めます」


 レイモンド殿下の笑みが深くなった。


 ミレイユも安堵したように胸へ手を当てる。


 私は続けた。


「ただし、道具の性能について、主催者である私は一切保証いたしません。効くかどうかを確かめるのも、正しく使うのも、殿下の責任です」


「当然だ。王家の宝具を疑うなど、愚かにもほどがある」


「承知いたしました。契約官様、その文言も記録へ」


「は、はい……道具の効果は使用者の責任、と」


 羊皮紙へ魔力の光が走る。


 誓約遊戯が成立した。


 ノエルが、私へ一瞬だけ視線を向ける。


 その瞳には、悪戯を始める少年のような光があった。


「では、鍵を置こう」


 青い炎が強く揺れた。


 一瞬、食堂のすべての灯りが消える。


 再び明かりが戻ったとき、七つの銀杯はすべて伏せられたまま、静かに並んでいた。


 鍵の場所を知る“語り手”が誰なのかは、殿下には分からない。


 もちろん、私にも分からない。


 この勝負において、私は鍵の位置を知らない。


 それでも、負けるつもりはなかった。


「第一の質問だ」


 レイモンド殿下が卓へ近づく。


「語り手よ。鍵は、一番から四番までの杯の中にあるか?」


 七人の亡霊が一斉に目を閉じた。


 そのうち誰の声とも判別できない、重なった声が響く。


『はい』


 殿下は右手の指輪へ視線を落とした。


 紅玉は静かなまま、熱を帯びる様子はない。


「真実だな。鍵は一番から四番」


 彼は自信たっぷりに呟いた。


 私は黙って見守った。


「第二の質問だ。鍵は、一番または二番の杯の中にあるか?」


『いいえ』


 指輪はまた、反応しなかった。


「これも真実。つまり三番か四番」


 レイモンド殿下の声には、すでに勝利を確信した響きがあった。


「第三の質問。鍵は、三番の杯の中にあるか?」


『はい』


 指輪は、やはり沈黙している。


 殿下は高らかに笑った。


「終わりだ。鍵は三番の杯にある!」


 ミレイユが拍手をする。


「さすがレイモンド様ですわ! これで不気味な城も、本来あるべき方のもとへ戻りますのね」


 殿下は私を見て、哀れむように笑った。


「残念だったな、エステル。少し遊戯を覚えた程度で、王家の宝具に勝てると思ったか」


「杯を開ける前に、一つ伺ってもよろしいですか?」


「負け惜しみなら聞かんぞ」


「いいえ。ただ、本当にその杯でよろしいのかと思いまして」


「何度言わせる。指輪は一度も熱を持たなかった。すべての答えは真実だ。三番以外にあり得ない」


「なるほど」


 私は微笑んだ。


「それでは、三番の杯をお開けください」


 レイモンド殿下が、三番の席――料理長ボリスの前に置かれた銀杯を勢いよく持ち上げた。


 杯の下には、何もなかった。


 広間が、静まり返った。


「……は?」


 殿下の声が掠れた。


「そんなはずはない。三番だ。答えはすべて真実だった!」


「いいえ」


 ノエルが楽しげに指を鳴らす。


 六番の杯が、ゆっくりと宙へ浮かび上がった。


 その下で、古びた銀の鍵が月明かりを受けて輝いている。


「鍵は六番だ。最初の質問への答えが、嘘だった」


「馬鹿な! 指輪は反応しなかったぞ!」


 レイモンド殿下は右手を掲げ、紅玉を睨みつけた。


「壊れているのか!? いや、そんなはずは……これは王家の――」


「王家の“誠偽の指輪”」


 私は、静かに言葉を引き取った。


「正式な名称は、“生者の背信を告げる指輪”です」


 殿下の顔が固まる。


「なぜ、君がそれを……」


「十年間、私は殿下の婚約者でした。王妃教育の一環として、王家の宝物目録を暗記させられましたから」


 あの頃は、必要になるとは思っていなかった。


 殿下は勉強を嫌い、目録の講義ではいつも居眠りをしていた。代わりに私が内容をまとめ、試験前には要点を伝えて差し上げた。


 けれど、指輪の細かな制約までは、説明しても聞いていなかったらしい。


「その指輪が反応するのは、心臓を持つ生者が、指輪の所有者を害する意図を持って嘘を告げた場合だけ。亡霊の言葉には、真実であろうと虚偽であろうと反応いたしません」


「そんな……そんな細かな条件など、聞いていない!」


「知らなかったのは、殿下の落ち度です。私はゲームの開始前に、道具の効果を保証しないと申し上げました。それでも殿下は、確認せずに使用を宣言なさった」


 ノエルが笑みを深める。


「そして、最初の答えが真実だと思い込んだ瞬間、殿下は自分で考えることをやめた。二問目も三問目も、最初に与えられた間違った範囲の中でしか鍵を探さなかった」


 あの夜、ノエルが教えてくれた言葉が蘇る。


 相手が自分だけ答えを持っていると思った瞬間、問いを解くことをやめる。


 だから、少しだけ間違った答えを与えてやればいい。


「私の勝利です、レイモンド殿下」


 私が告げると、卓上の誓約書へ青白い炎が走った。


 文字が焼き付くように浮かび上がる。


 ――勝者、エステル・リュミエール。


「認めない!」


 殿下が叫び、卓を叩いた。


「これは罠だ! 亡霊を使って私を欺いた! 王家の者を侮辱して、ただで済むと思うな!」


「勝負の形式を選んだのは私ですが、挑戦したのは殿下です」


「黙れ! 護衛、城を制圧しろ! 鍵も権利書も奪え!」


 護衛たちが、ためらいながら剣へ手を伸ばす。


 その瞬間、契約官の一人が青ざめた顔で声を張った。


「お、お待ちください、殿下! 誓約遊戯の成立後に武力で結果を覆そうとなされば、王族による誓約破棄として魔力印に刻まれます! 王位継承審議に関わる重大な違反です!」


「私に指図するな!」


「指図ではございません! 記録官として、事実を記録しなければならないのです!」


 殿下の動きが止まった。


 王位を継ぐことだけは、何よりも大切なのだろう。


 ミレイユが不安そうに殿下の腕へ触れる。


「レイモンド様……でも、城がなければ、あの“印”が……」


「ミレイユ!」


 殿下が慌てて彼女の口を塞ごうとする。


 だが、遅かった。


 食堂の空気が変わった。


 ノエルの笑みが消える。


「今、“印”と言ったな」


 ミレイユは口元を押さえ、震えた。


「わ、私は何も……」


「契約官様」


 私は二人の記録官を見た。


「私の勝利条件の二つ目は、ヴァルグレイヴ公爵家に関する王宮保管記録の開示でしたね」


「は、はい。誓約により、殿下は拒否できません」


「では、今ここで確認いたします。宵影城にあるものを、殿下はなぜそれほど求めたのでしょう」


 レイモンド殿下は、唇を震わせながら黙り込んだ。


 誓約書が青く燃え上がる。


 勝者の要求へ答えぬ者へ、契約魔法が圧をかけているのだ。


「……星冠印だ」


 殿下が、絞り出すように答えた。


「建国時、王はヴァルグレイヴ家へ、王位の正統性を証明する星冠印の保管を命じた。王が暴政を行えば、印の守護者は継承を拒む権利を持っていた」


 ノエルの透けた手が、卓の縁を握った。


「続けてください」


「百二十年前……当時の王は、印の返還を要求した。ヴァルグレイヴ家は拒否した。ゆえに、反逆罪として処断され……」


「本当に、反逆の証拠はあったのですか?」


「……ない」


 その一言が落ちた瞬間、城全体が大きく震えた。


 窓が鳴り、青い炎が天井まで燃え上がる。


 亡霊たちの体へ巻きついていた、見えない鎖のような光が、次々に砕けていく。


 料理長ボリスが、信じられないように自分の両手を見る。


「声が……胸の苦しさが……」


 ローザが泣きながらマダム・エマへ抱きつく。半透明の体同士であるはずなのに、その手は確かに触れ合っていた。


 ノエルは、じっとレイモンド殿下を見つめていた。


「我が一族は、王を殺そうとしたのではない。国を守るため、暴君へ印を渡さなかった。……ようやく、言える」


 彼の頬を、一筋の涙が伝った。


 死者の涙は、床へ落ちる前に淡い光となって消えた。


「ノエル様……」


「ありがとう、エステル」


 彼が私を見た。


「君が勝ってくれたから、僕たちはようやく、罪人ではなくなれた」


 レイモンド殿下は、崩れるように椅子へ座り込んだ。


「こんな……私は、星冠印を手に入れて、次の王に……」


「殿下」


 私は彼へ向き直った。


「あなたは、私に呪われた城を押しつけたつもりだったのでしょう。価値のない女へ、価値のないものを与えたつもりで」


 殿下は何も答えない。


「けれど、価値を見抜けなかったのは、私でも、この城でもありません。あなたご自身です」


 契約官が誓約書を回収し、深く頭を下げた。


「勝負の結果、および今夜明らかとなった証言は、王宮評議会へ提出いたします。殿下には、速やかに王都へお戻りいただく必要がございます」


「レイモンド様……私、こんな話、聞いておりませんわ」


 ミレイユがじりじりと殿下から距離を取る。


「お前だって、王妃になれると言ったから――」


「私は、呪われた城を返していただくだけだと……反逆の隠蔽だなんて知りません!」


 二人の言い争いが始まった。


 以前の私なら、殿下の評判がこれ以上悪くならないよう、間に入っていただろう。


 けれど、もう私には関係がない。


「グレゴール。お客様がお帰りです」


「承知いたしました、城主様」


 白髪の執事が、百二十年ぶりに晴れやかな笑顔で一礼する。


「王子殿下。どうぞ出口はこちらでございます。壁を通り抜けず、きちんと扉からご案内いたしましょう」


「亡霊にまで馬鹿にされるなど……!」


「いいえ。私はただ、二度とお越しにならないよう、道をよく覚えていただきたいだけでございます」


 青い炎に照らされながら、殿下とミレイユは城を去っていった。


       ◇


 客人たちの馬車が森の向こうへ消えたあと、大食堂は静寂に包まれた。


 勝ったのだ。


 城を守り、私への濡れ衣を撤回させ、ヴァルグレイヴ家の真実も明らかにした。


 けれど、私は素直に喜べなかった。


 亡霊たちの鎖が砕けたということは、彼らはもうこの城に縛られないということだ。


 それは、本来喜ばしいことのはずなのに。


「皆様は……これから、どうなるのですか?」


 私が尋ねると、ローザが涙を拭いながら笑った。


「ようやく、眠れるのだと思います」


「長い長い夜勤でしたからなあ」


 料理長ボリスが豪快に笑う。


「最後に、生きた方へ晩餐を作って差し上げられなかったのが心残りですが」


「あなたのお勧めの献立は、アンナがすべて記録しております。いつか必ず作ります」


「それなら安心だ」


 一人、また一人と、亡霊たちの体が柔らかな光に包まれていく。


 グレゴールは、私へ深々と頭を下げた。


「エステル様。どうか、この城をよろしくお願いいたします。あなた様を城主として迎えられたことは、我々の百二十年で最も幸運な出来事でございました」


「こちらこそ……皆様がいてくださったから、私はこの城を好きになれました」


「それは、何よりでございます」


 彼らの姿が光へ溶け、青い炎が一つずつ温かな金色へ変わっていく。


 最後に残ったのは、ノエルだった。


「ノエル様も、行ってしまわれるのですね」


 声が、思った以上に寂しく響いた。


 彼は少し困ったように笑う。


「そう思っていたんだが……どうやら、僕は少し事情が違うらしい」


「事情?」


 ノエルの体を覆っていた光が、ほかの者とは違う方向へ収束し始める。


 薄く透けていた手に色が戻り、銀髪が月明かりを受けてはっきりと輝く。宙に浮いていた足が、ゆっくりと床へ降りた。


 彼は驚いたように、右手を開いては閉じた。


「触れられる……?」


 卓の上の駒へ手を伸ばす。


 白い駒が、ことりと音を立てて動いた。


「ノエル様……あなたは、亡くなっていたのでは?」


「処刑の直前、星冠印の守護者であった僕だけは、命を奪われず、城の呪いの核として封じられた。死ぬことも、生きることもできずにね。どうやら、一族の無実が王家の口から認められたことで、封印が解けたらしい」


「では……生きているのですか?」


「脈を確かめてみるかい?」


 ノエルが、からかうように右手を差し出した。


 私は一瞬迷い、それからそっと彼の手に触れた。


 温かい。


 百二十年、青白い光の中にいた人の手が、確かに温かかった。


 胸が、妙に苦しくなる。


「……本当に、生きていらっしゃる」


「君のおかげだ」


 ノエルは私の手を優しく握った。


「君がこの城へ来なければ、僕は永遠に、誰にも真実を伝えられないままここにいた。君は、僕の一族だけでなく、僕の時間まで取り戻してくれた」


「私は、自分の城を守っただけです」


「では、城主様にお願いがある」


「何でしょう」


「元所有者として、城の管理には多少詳しい。使用人として雇ってもらえないだろうか」


「元公爵子息を使用人としてですか?」


「不服なら、顧問でも共同管理人でも、ゲームの対戦相手でもいい」


 彼の青い瞳が、少しだけ不安そうに揺れた。


 百二十年ぶりに自由になった人が、それでもこの城に残りたいと言っている。


 私と、ここで過ごすことを選んでくれる。


「では、城主付きの特別顧問として採用いたします」


「職務内容は?」


「城の歴史管理。星冠印の保護。亡霊の出ない夜に私が寂しくならないよう、ゲームの相手をすること」


 ノエルは、心から嬉しそうに笑った。


「最後の職務は、終身契約で構わないだろうか」


「契約内容をよく確認してから署名いたします」


「さすがだ。では、僕が誠意を示し続けるしかないな」


 彼は私の手の甲へ、そっと口づけた。


 青い炎の消えた大食堂に、今度は暖炉の赤い火が静かに燃えている。


 呪われた城で迎えた最初の夜よりも、ずっと温かい夜だった。


       ◇


 一年後。


 かつて“呪われた城”と呼ばれていた宵影城は、今では王都でも有名な場所となっていた。


 ヴァルグレイヴ公爵家の冤罪は、王宮評議会により正式に撤回された。レイモンド元第一王子は、虚偽の婚約破棄と過去の王家の罪の隠蔽を企てた責任を問われ、王位継承権を失ったという。


 ミレイユについては、最後まで「私は何も知りませんでした」と主張し続けたそうだが、社交界で以前のように優しく迎えられることはなくなったらしい。


 私にとっては、もはや遠い世界の話だった。


 宵影城では、星冠印を王家だけに委ねないための新たな制度が整えられ、貴族や学者が記録を調査するために訪れるようになった。


 そして、城の大食堂では、月に一度、誰でも参加できるゲームの夜会が開かれている。


「エステル様、今夜もお客様が大勢です!」


 アンナが楽しそうに報告する。


「王都から来られたご令嬢方は、ノエル様と一局対戦したいと大騒ぎで……」


「お断りしてください」


 私は即答した。


「まあ。嫉妬でいらっしゃいますか?」


「違います。ノエル様は、勝負の際に相手を悔しがらせる笑顔が非常に腹立たしいので、被害者を増やしたくないだけです」


「それは残念だ」


 背後から、聞き慣れた声がした。


 振り返ると、黒い礼装を纏ったノエルが立っている。


 封印が解けた彼は、ヴァルグレイヴ家の名誉回復後、正式に公爵位を返還された。けれど彼は王都へ移らず、この城に留まり、私とともに城と星冠印を管理している。


「今夜は、ぜひ君と勝負をしたかったのに」


「昨夜も勝負をしました」


「君が勝ったから、僕としては再戦を求める権利がある」


「三日前には私が負けましたが、再戦を受けてくださらなかったでしょう」


「あの日は、君が悔しそうにしているのが可愛らしくて、もう少し眺めていたかった」


「……今夜は絶対に負かします」


 アンナが、呆れたように笑いながら部屋を出ていった。


 ノエルは私の前へ歩み寄ると、一枚の小さな羊皮紙を差し出した。


「その前に、一つ契約遊戯を申し込みたい」


「またゲームですか?」


「ああ。今度の賭けは、少し大きい」


 羊皮紙を開く。


 そこには、美しい文字でこう書かれていた。


 ――勝負形式:一問一答。


 ――ノエル・ヴァルグレイヴは、エステル・リュミエールへ質問を一つ行う。


 ――エステルが“はい”と答えれば、ノエルは生涯にわたり、彼女の隣で暮らし、彼女を愛し、彼女とともに宵影城を守る。


 ――エステルが“いいえ”と答えた場合も、彼女が望む限り、最高の友人としてその隣に在り続ける。


 文章を読み終えた私の頬が、熱くなる。


「これは……勝負になっておりません」


「僕としては、人生で最も緊張するゲームだ」


 ノエルは笑っていたが、その指先は少し震えていた。


 彼は私の前で片膝をつく。


 かつて、亡霊として浮かんでいた彼が、今は確かな足で床に立ち、私の未来を望んでいる。


「エステル・リュミエール。僕と結婚してくれますか?」


 窓の外では、黒い湖へ月明かりが落ちていた。


 この城へ来た最初の日、私は何も持っていないと思っていた。


 婚約者を失い、社交界で笑われ、価値のない慰謝料を押しつけられたのだと。


 けれど実際には、私は自由を得た。


 私の頭で考え、私の意思で勝負し、私を必要としてくれる人たちと出会った。


 そして今、私を誰かの付属物ではなく、一人の対等な相手として見てくれる人が目の前にいる。


「ノエル様」


 私は、彼へ手を差し出した。


「質問への答えは、“はい”です」


 彼の顔に、眩しいほどの笑顔が広がる。


「それから、契約には条件を追加いたします」


「条件?」


「生涯にわたり、ゲームで手加減をしないこと。わざと負けるのも禁止です」


「もちろんだ。僕は君を、誰より手強い相手として愛しているからね」


 ノエルが私の手を取り、立ち上がる。


 そのとき、大食堂のシャンデリアが、不意に青白く揺れた。


 誰もいないはずの卓の上で、カードが一枚、ひらりと表を向く。


 それは、勝利を示す星冠の札だった。


「……今のは?」


 私が呟くと、どこからともなく、懐かしい笑い声が聞こえた気がした。


 料理長の豪快な声。ローザの楽しそうな声。グレゴールの控えめな咳払い。


 ノエルも気づいたらしく、目を細める。


「どうやら、祝福してくれているらしい」


「では、結婚式の晩餐には、料理長の献立を使わなくてはなりませんね」


「ゲームの余興も必要だな」


「当然です。ですが、賭けるものは慎重に決めてください」


「分かっている。僕は一度、君に人生すべてを賭けて勝ってしまったから、次からはもう少し控えめにするよ」


「勝ったのは、私ではありませんか?」


「僕の隣に君がいてくれるなら、僕の勝ちでもある」


 そう言って、彼は私の額へ優しく口づけた。


 婚約破棄の慰謝料として押しつけられた、呪われた城。


 けれど、ここには私を嘲る人も、私の価値を勝手に決める人もいない。


 あるのは、少し意地悪で、とても賢くて、私を心から愛してくれる人と、夜ごと交わされる楽しい勝負だけ。


 返してほしいと言われても、もう遅い。


 この城も、この幸せも、私が自分で勝ち取ったものなのだから。


 ――今夜も宵影城では、笑い声とともに、新しいゲームの幕が上がる。

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指輪の効果について、正式名称を告げたときに「なぜ...」と言っているので第一王子は正式名称を知っていたと思われますが、名称に「生者」とあるのに「そんな条件など...」というのはおろかすぎませんか? ※…
Gemini(Googleの生成AI)特有の、使用言語とは違う外国語が文章の一部に出力される現象をこんなとこで見るとは思わなかった。 投稿者が出力された内容を読み返してないのが丸わかりすぎる…
「鍵は六番だ。最初の質問への答えだけが、嘘だった」 とありますが最後の答えも嘘では?
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