第47話:二つの研究書と、著者の声
朝、宿の部屋で著者の研究書の写しを広げた。
王立図書館で整理した、あの記述だ。脳内で何度も辿ってきた内容なのに、今日は少し違う目で読み始めた。昨日、地下書庫で感じた魔導書の気配を思い出しながら、どこが繋がっているかを探していく。
エレナが向かいの椅子に座り、昨日確認した封印の構造をノートにまとめていた。
「昨日の封印、改めて整理したわ。『理解した者が触れれば開く』という構造は間違いないけれど、何を理解すれば開くのかが、まだ明確じゃないの。著者の研究書にヒントがあるはずだと思うのだけれど」
「うん、そこを今見ているところだよ」
リディアが「私は照合の補助ができます。農業魔法に関連する術式の記述があれば、見つけやすいかもしれません」と申し出た。アルスが「ありがとう、一緒に見ていこう」と答えると、リディアがノートを開いた。
フィナが「私は何もできないけど、一緒にいていい?」と聞いた。
「うん、いてくれた方がいい」
「……なんか照れるな」
フィナが俯いた。エレナが「フィナちゃん、素直ね」と微笑んだ。
◇
地下書庫に戻ると、台座の上の魔導書が昨日と同じ場所に静かに置かれていた。
使者が案内してくれて、部屋を開けてくれた。ランプの光が、石壁に揺れる影を作っている。冷たい空気が、地下書庫特有の静けさを作っていた。
アルスが著者の研究書の写しを広げ、台座の前に立った。エレナが封印の外層を改めて確認し始めた。リディアがアルスの横に並んで、写しの記述を目で追い始めた。フィナが少し離れた場所に座って、静かに見ていた。
照合を始めた。
著者の研究書に記されている「水の本質」の記述を、脳内で改めて辿る。王立図書館で整理した時に見えた、水が浸透していく流れの核心。それをヴァルナの魔導書の気配と照らし合わせていくと、少しずつ輪郭が見えてきた。
著者の研究書には、何かが抜けていた。
(水の流れを整理する方法は書いてある。でも、その流れを土地に合わせて届ける方法が書かれていない)
もう一度、魔導書の気配を確かめた。封印の向こうに、何かがある。触れることはできないが、気配だけなら感じ取れる。その気配を追うと、逆に見えてくるものがあった。
(ヴァルナの魔導書には、土地への届け方がある。でも、水の整理方法がない)
二つが、補い合っている。
「著者は意図的に、二つに分けたんだ」
声に出すと、エレナが「……そういうことね」と呟いた。
「王都の図書館には、水の本質を整理する研究書を預けた。ヴァルナには、それを土地に届ける方法を書いた魔導書を遺した。どちらか片方だけでは、本当の本質に辿り着けない。両方が揃って、初めて完成する」
「だから百年間、誰も開けられなかったのね。ヴァルナの人たちがどれだけ優秀でも、王都の研究書がなければ理解できない。そして王都の研究書だけでは、ここの魔導書は開かない」
エレナの言葉が、静かに響いた。
その時、リディアが「……それは、私の術式に近い発想ですね」と言った。
「どういうこと?」
「水を主にして、土をその流れに従わせる。そして複数の場所に均等に届ける。私が辿り着いた発見と、著者の発見が……同じ方向を向いています」
リディアが、静かに驚いていた。師匠の術式でも、魔導書から学んだことでもなく、自分で辿り着いた発見が、百年前の著者と同じ方向を向いていた。
(もったいなかった)
その言葉が、脳内で静かに灯った。
百年前に著者の発見が届いていれば、リディアの発見と著者の発見が、もっと早く繋がれた。でも今日、繋がった。順番があっただけで、ちゃんと繋がった。
◇
二つの研究書を照合して、全体像が見えてきた。
著者が伝えたかったのは、「水の本質を整理して、土地に合わせて届ける」という農業魔法の体系だった。現在ヴァルナで使われている農業魔法よりも、はるかにシンプルで、はるかに効果的な方法が、二つの記述の中に眠っていた。
封印の鍵も、見えてきた。
「『理解した者が触れれば開く』という封印の『理解』が、何を指しているかわかった。著者の研究書とこの魔導書、両方を持っている人間が触れた時に開く、という構造になっているんだと思う」
「片方だけでは開かない、ということ?」
「うん。だから百年間、誰も開けられなかった。ヴァルナの人たちが王都の研究書を知らなかったように、王都の人たちはここの魔導書を知らなかった。両方が揃わないと、著者の意図にたどり着けない」
エレナが「……著者は最初から、二つが揃った時だけ開くように設計していたのね。その人を待っていた封印だわ」と静かに言った。
台座の前に立った。著者の研究書の写しを手に持ったまま、魔導書にそっと手をかざした。
その瞬間、封印が動いた気がした。
開こうとしている、という感覚だった。完全には開いていない。でも、昨日とは明らかに違う。封印の向こうが、少しだけ近くなった気がした。
「……開く」
「今日はここまでにします。明日、ちゃんと整理してから向き合う」
フィナが「うん、それがいいと思う」と言った。エレナが頷いた。リディアが「万全の状態で向き合った方が、著者にとってもいいはずですから」と静かに言った。
◇
地下書庫の出口へ向かうと、入り口の前でミアが待っていた。
使者に頼んで待たせてもらっていたのだろう。アルスたちが出てくるのを見て、立ち上がった。
「……何か、わかりましたか?」
「うん。著者がちゃんと伝えたかったことが、少し見えてきたよ。明日、本格的に向き合う」
「そうですか……!」
ミアの声が、わずかに高くなった。こらえようとして、こらえられなかった、という声だった。
「明日には、もっとわかるよ、きっと」
フィナが笑顔で言った。ミアがフィナを見た。
「……ありがとうございます、フィナ様」
「フィナで、って言いましたよ」
「……フィナさん」
ミアがかすかに笑った。この旅で初めて見る、ミアの笑顔だった。
◇
宿へ戻る道を歩きながら、リディアが「アルス様、一つ聞いていいですか」と言った。
「どうぞ」
「著者と私の発見が同じ方向を向いていると、今日わかりました。でも著者は百年前に、同じ本質に辿り着いていたのに届かなかった。……私の発見も、届かない可能性があったんでしょうか」
リディアが静かに、でもはっきりと聞いた。百年前の著者と自分を重ねながら、その問いを出してきていた。
アルスは少し考えてから答えた。
「でも今日、届いたよ。リディアさんの発見はちゃんと形になって、清書されて、名前が残っている。著者の発見も、明日届く。順番があっただけで、両方ちゃんと届くんだよ」
リディアがしばらく黙って、歩き続けた。
「……そうですね」
静かに言った。その目が、穏やかだった。百年前の著者への思いと、自分の発見への確信が、その一言の中に静かに混ざっていた。
夕暮れの農地が、橙色に染まっていた。水路の水が、この時間だけは穏やかに光を返していた。明日、著者の声が届く。百年間待ち続けた、その声が。




