第45話:道中の馬車と、静かな暴露
旅二日目の朝、馬車の中に柔らかい光が差し込んできた。
夜の間も馬車は走り続け、街道沿いの宿場で少し休んでから、また動き始めていた。フィナが窓の外を飽きずに見ている。昨日から何時間も同じように外を見ているのに、その目がいつも新鮮な発見をしている顔をしていた。
エレナが本を読んでいた。旅慣れした様子で、馬車の揺れにも全く動じていない。リディアが実証記録のまとめをしていた。ノートに丁寧に書き込みながら、時折考え込む顔をしている。
静かな朝だった。
「エレナさんって、どんな魔法が得意なんですか?」
フィナが窓から顔を引っ込めて、エレナに聞いた。
「封印解析と、上級術式全般ね。特に複合術式は得意よ。長い時間をかけて積み上げてきたものだから」
「すごい! アルスくんの魔法とどっちが強いんですか?」
エレナが少し間を置いた。
「……それは、比べるものじゃないわ。私はアルスくんの整理を補助する側だから。彼が本質を見つけて、私が封印を解いて、リディアが実証する。それぞれの役割があるの」
「へえ……」
フィナが少し考えてから「エレナさんって、アルスくんのことすごく大切にしてるんですね」と言った。
エレナが「……っ!」と固まった。
本のページをめくろうとしていた手が止まっている。それ以上何も言えなくなっているエレナを見て、リディアが「フィナ様は……直接的な方ですね」と小声でアルスに言った。
「いつもこんな感じだよ」
「……そうですか」
リディアが少し苦笑いした。
◇
しばらくして、フィナが今度はリディアに話しかけた。
「リディアさんって、ゼノスさんの弟子なんですよね。師匠ってどんな人ですか?」
「……厳しくて、でも本質を見る目がある人です。最近は少し柔らかくなりましたが」
「アルスくんに崩れ落ちた人ですよね?」
リディアが「……はい、そうです」と答えてから、少し笑った。珍しい笑い方だった。師匠の話をする時の、敬愛と複雑さが混ざった笑顔ではなく、ただ素直に可笑しいと感じた時の顔だった。
「フィナ様、師匠のことをご存知だったんですか」
「アルスくんから聞いてたんです。すごい人が崩れ落ちたって。でも、すごい人だからこそ、アルスくんの整理を受け取れたんですよね、きっと」
リディアが「……そうですね」と静かに言った。その目が、少し柔らかくなっていた。フィナの言い方が、師匠への敬愛を自然に肯定してくれた形になったのだろう。
「二人って、仲いいんですか?」
フィナがエレナとリディアを交互に見ながら聞いた。
エレナとリディアが揃って「……そこそこです」と答えた。声のトーンが微妙に揃っていた。
「そっか。でも同じ人のことを大切にしてる人同士だから、仲良くなれると思いますよ」
フィナが笑顔で言った。
「……フィナちゃん、それはどういう意味かしら」
エレナが静かに、でもはっきりと聞いた。
「え? そのままですよ。みんなアルスくんのこと好きでしょ?」
馬車の中が静かになった。
エレナが口を開きかけて、閉じた。リディアが実証記録のノートを持ったまま、視線を落とした。
アルスの耳が熱くなった。
「フィナ……」
「あれ、違った?」
フィナが首を傾げた。本当に違ったと思っているのか、それとも確かめているのか、その顔からは読めなかった。
「……正直な子ね」
エレナが静かに言った。
「……そうですね」
リディアが静かに同意した。
「え、正解だったの?」
フィナがさらに言った。
「少し静かにして」
アルスが言うと、フィナが「えへへ、ごめん」と笑った。謝っているのに全く反省していない顔をしていた。でもそれが、フィナらしかった。
馬車が揺れた。エレナが本を膝に置き、窓の外を見た。リディアがノートを閉じた。少しの沈黙が流れたが、不思議と重くはなかった。フィナが言葉にしてしまったことを、誰も否定しなかった。ただ、その空気が馬車の中に静かに漂っていた。
◇
午後になると、馬車の外の景色が変わってきた。
王都周辺の、建物が密集した景色から、広大な農地が広がる景色へ。畑が地平線まで続いていて、遠くに山の稜線が見えている。情報のノイズが、少しずつ薄れていく感覚があった。
でも、農地を見ていると、何かが引っかかった。
「あの農地、水の引き方が少し澱んでいる気がする」
思わず声に出すと、リディアが「……そうですね。均等に水が届いていない区画があります。ここから見える範囲だけでも、三か所ほど」と答えた。
「ヴァルナの農業魔法の問題が、この辺りにも影響しているのかもしれないわ」
エレナが窓の外を見ながら言った。
「お花も少し元気がなさそう……」
フィナが小さく言った。花の元気のなさを見つけるのは、フィナらしかった。
「もったいないな」
アルスが呟いた。水が届いていないせいで、本来育てるはずのものが育っていない。著者の発見が届けば、ここの農地も変わるかもしれない。
「ここの農地も、整理できるんですか?」
リディアが聞いた。
「できると思う。でも、まずヴァルナで著者の研究の本質を掴んでから。それができれば、もっとちゃんと届けられる」
「……私の術式が、役立つかもしれませんね」
リディアが静かに言った。水を複数の場所に同時に均等に浸透させる、あの術式だ。農地の水不足に、直接応用できるかもしれない。
「うん、きっと役立つよ」
リディアの目が、少し輝いた。師匠から受け継いだものではなく、自分で辿り着いた発見が、実際の誰かの役に立つかもしれない。その可能性が、リディアの顔を少し変えた。
その時、フィナが鞄から押し花の道具を取り出した。
「あ、さっき窓から摘んだやつ」
小さな野の花が、フィナの手の中にあった。馬車の窓から伸ばした手で摘んできたらしい。道端に咲いていた、名前もわからない薄紫の花だ。
「旅の最初の押し花、これにしよう」
フィナが丁寧に道具の間に花を挟みながら言った。集中した顔で、でも楽しそうに、一枚ずつ丁寧に押していく。
「……フィナちゃんって、どこへ行ってもフィナちゃんね」
エレナがしみじみと言った。
「そうだね」
アルスが答えた。
フィナは馬車が揺れても、誰かが話しかけても、押し花の作業を止めなかった。旅の最初の一枚を、丁寧に、確かに作り上げようとしていた。
◇
夕暮れが来た頃、馬車が宿場に止まった。
翌日にはヴァルナに入る見通しが立ったと、御者が教えてくれた。
「明日からヴァルナだね。楽しみ」
フィナが言った。押し花の道具を丁寧にしまいながら、窓の外の夕暮れを見ている。
「うん、待っている人たちがいるから」
「そうだね。あの時泣いてた人、笑顔になってほしいな」
フィナがそれだけ言った。
使者として来た若い女性のことだ。百年間封印が解けなかった魔導書のために、収穫が安定しなかった村のために、涙をこぼした人のことを、フィナはちゃんと覚えていた。
「うん」
アルスが静かに頷いた。
その言葉が、一番本質に近かった。難解な術式の理論でも、整理の工程でもない。ただ「あの人に笑顔になってほしい」という、純粋な一言が。
馬車の扉が開き、夕暮れの空気が流れ込んできた。ヴァルナの夕暮れはこの辺りと似ているだろうか、それとも違うだろうか。
明日、着けばわかる。




