第4話:情報の澱みと、小さな手
ハイハイができるようになったということは、僕にとって単なる身体的成長を意味しない。それは、この家の「配置」を自らの意思でパトロールできるようになったという、劇的な環境の変化だった。
僕は、リーサが家事に勤しんでいる隙を突き、居間の隅へと向かった。
前世の僕のデスクは、常に整理され、必要なもの以外は何一つない作業スペースが確保されていた。それに引き換え、この家の収納はあまりに情緒的すぎた。
(……あそこの棚、物の重なり方が少し不自然だな)
赤ん坊特有のおぼつかない手つきで床を這い、僕は目的の場所へと辿り着く。
そこは、居間の片隅に置かれた古い木製の棚だった。最下段には、使い古された農具や予備の布、そして用途の分からない道具が、無造作に、それこそ「とりあえず置いておけ」と言わんばかりの雑さで詰め込まれている。
その時、僕は見てしまった。
雑多な道具の重なりに押しつぶされるようにして、斜めに、それも逆さまに突っ込まれた一冊の分厚い本を。
きったな!?
声に出したつもりだったが、実際に口から漏れたのは「あうっ!?」という短い叫びだった。
だが、僕の心の中は驚愕と絶望で埋め尽くされていた。
本の表紙には、指でなぞれば跡が残るほど厚く埃が積もっている。角は無残に折れ曲がり、ページの一部が湿気で波打っている。中身以前の問題だ。情報の扱い方が、あまりに雑すぎる。
(もったいない……。せっかくの知識が、こんなに窮屈そうにしていて、こんなに汚れてしまっているなんて……!)
居ても立ってもいられなくなった僕は、必死に手を伸ばした。
重い。赤ん坊の腕力では、その分厚い本を引き出すだけでも、一本道の最短ルートを見つける必要がある。
僕は体重をかけ、周囲の道具を少しずつ整理しながら、ようやくその本を床に引きずり出した。
バサリ、と重い音を立てて本が開く。
埃が舞い、僕は思わずくしゃみをした。だが、ページを直視した瞬間、僕の衝撃は最高潮に達した。
心の中の叫びは、もはや怒りに近かった。
そこには、書き損じを塗りつぶした真っ黒な塊と、その横に震えながら書かれた巨大な文字。それらが余白なく詰め込まれた紙面は、もはや文字の体をなしていない。『汚い!!』。これでは、一番伝えたいことが完全に隠れてしまっている。
余白という概念が、この本の著者には存在しなかったのだろうか。文字と文字がひしめき合い、挿絵は線の密度が高すぎて、何が本質なのか一目では全く分からない。
そこには、一画でも間違えれば台無しになる恐怖に怯え、震えながら大きく書きなぐられた文字が、紙面を埋め尽くしていた。
書き損じを真っ黒に塗りつぶした跡や、その隙間の余白に無理やり押し込まれた微細な補足。文字の大きさはバラバラで、インクの滲みが重なり合い、どこが本質(一文)の区切りなのかさえ判別できない。情報の整理を諦めたような、その物理的な「ぐちゃぐちゃ」さに、僕は眩暈を覚えた。
(中身をスッキリさせたい……! でも、まだ読めない! なんて、なんてもどかしいんだ!)
僕は眉間に深いシワを寄せ、赤ん坊とは思えない般若のような形相で、その「汚い」記述を睨みつけた。
このグニャグニャの一つ一つに、きっと価値のある「本質」が隠されているはずだ。それを最短距離で掴み取れない自分自身の未熟さが、何よりも歯がゆかった。
「あら? アルス、そんなところで何を――まあ、そんな古い本を引っ張り出したの?」
背後から、リーサの声がした。
彼女は僕の険しい表情に気づく様子もなく、むしろ「本に興味を持つなんて偉いわねえ」とばかりに、のんびりと微笑んでいる。
「それはカイルが昔使っていた魔導書よ。今はもう使わないから、そこに置いてあったのね。……あ、ちょうどいいわ。お客様が来たみたい」
リーサに抱き上げられ、僕はその「汚い本」から引き離された。
せめて今の埃だけでも払わせてくれ。そんな僕の切実な願いは届かず、僕は玄関先へと運ばれた。
そこに立っていたのは、近所に住む女性だった。
そして、その腕には、僕と同じくらいの月齢の赤ん坊が抱かれていた。
「こんにちは、リーサ。フィナを連れてきたわよ」
「いらっしゃい! さあ、アルス。お友達のフィナちゃんよ。仲良くしてね」
床に、柔らかい布が敷かれる。
僕と、フィナと呼ばれた女の子の赤ん坊は、向かい合わせになるように並べて座らされた。
「……あ」
フィナが、僕を見つめていた。
彼女の瞳は、一点の曇りもなく、とても澄んでいた。
彼女は僕の顔をじっと見た後、あどけなく、ふにゃりと笑った。
その瞬間。
魔導書の「汚さ」でパンクしそうになっていた僕の頭が、スッと軽くなるのを感じた。
最短ルートも、情報の純度も、今はどうでもいい。
フィナが、ぷくぷくとした小さな手を、僕の方へ一生懸命に伸ばしてくる。
僕は理屈も、本も、情報の澱みも全部忘れて、その手を握り返した。
あたたかい。
ただそれだけの感覚が、僕の中に真っ直ぐに伝わってくる。
「あー、うー」
僕が声を出すと、フィナも「うー!」と嬉しそうに声を上げた。
一緒に笑い合っていると、さっきまでの「汚い!」という焦燥感が、嘘のように溶けていく。
「あら、見て! アルスとフィナちゃん、もう手を繋いでるわ!」
「本当ねえ、仲良し。将来が楽しみだわ!」
両親たちの能天気な、けれどあたたかな会話が頭の上を通り過ぎていく。
いつか、あの放置された魔導書を一本道に変えて、スッキリさせてあげよう。
そんな野望を胸の奥に秘めながらも、今は隣で笑うフィナの手のぬくもりを、ただ大切に感じていた。
僕はフィナの笑顔に応えるように、赤ん坊らしく、けれど本質を噛みしめるように笑った。




