第30話:司書の本棚と、整理しない時間
その日の午後、書庫はいつもより静かだった。
エレナが上級術式系の封印解析に集中するため、書庫の奥の区画へと向かっていた。リディアは実証記録のまとめ作業をしており、ハミルトは外部からの問い合わせ対応で図書館を出ていた。いつもは誰かの気配や声が絶えない書庫が、今日は水音一つないような静けさに包まれている。
僕は棚の整理をしながら、書庫の奥へと進んでいった。
整理が進むにつれて、書庫の地図が脳内で少しずつ正確になってきている。どの棚に何が、どの程度の密度で収められているか。まだ手をつけていない区画がどこに残っているか。その全体像を把握しながら進んでいくと、普段は気にとめていなかった小さな区画が目に入った。
書庫の隅、他の棚より少し狭い通路の奥にある場所だ。
足を踏み入れた瞬間、他の区画とは空気が違うことに気づいた。埃がほとんどない。本が丁寧に並べられている。整理されているというよりも、大切に扱われている、という感じだった。棚に並んでいる本の背表紙を見ると、術式の魔導書ではなく、見慣れない題名が並んでいる。
セリスに声をかけた。
「あの区画、誰が管理してるの?」
セリスが手を止めて、こちらを見た。少し驚いたような顔をしている。
「……気づかれましたか。あそこは私が個人的に管理している場所なんです」
「個人的に?」
「はい。図書館の整理とは別に……私が好きな本だけを集めた棚なんです」
セリスがそう言って、少し目を伏せた。言い訳をするような、でも隠すつもりもない、という微妙な表情だった。
「見せてもらえる?」
「……はい、どうぞ」
◇
セリスが案内してくれた棚には、十数冊だけが並んでいた。
一冊ずつ背表紙を確かめると、旅の記録、植物の図鑑、遠い国の風土を記した書物、短い物語をまとめた薄い本。どれも、魔法とは直接関係のない本たちだった。魔導書の整理に追われる日々の中で、この区画だけが別の世界のように静かに佇んでいる。
僕は一冊を手に取った。表紙の絵が、どこか遠い山の風景を描いている。
「これ、読んだことある?」
「はい、何度も」
セリスが少し照れたように答えた。
「どんな話?」
「旅の記録なんです。著者が大陸のいろんな場所を歩き回って、その土地で見つけたものを書き留めていて。植物のことや、人々の暮らしのことや、夕陽がどんな色だったかとか……そういうことが、ただ丁寧に書かれているだけなんですが」
説明しながら、セリスの言葉が少し弾んでいた。いつもの落ち着いた司書官の口調ではない。本が好きな人間が、好きな本について話している時の声だった。
「図書館の本は、整理して、届けるべきものです。でも……この棚の本だけは、整理しなくていいと思っていて」
「整理しなくていい?」
「はい。誰かに届けるためではなく、ただ私が好きだからそこにある本たちなので。順番も、分類も、関係なくて。読みたい時に取り出して、また戻す、それだけでいいと思っているんです。だから、目録にも載せていないんです」
セリスがそう言って、棚の前に静かに立った。
整理しなくていい本棚。
その言葉が、脳内で静かに響いた。フィナの隣にいる時間、母さんのクッキーの温かさ、カイルの手の重さ。整理する必要がない、そのままが一番温かいものが、セリスにもあったのだと気づいた。
二人で棚の前の床に座った。書庫の他の区画より少し狭いその場所は、二人が並ぶとちょうどいい広さだった。
セリスが、先ほど僕が手に取った旅の記録を差し出した。
「よかったら、読んでみますか。私が一番好きな本なんですが」
「うん」
僕が受け取ると、セリスが「どんなところが好きなの?」という僕の問いに、しばらく考えてから答えた。
「著者が、どこへ行っても何かを見つけることを楽しんでいるところです。整理しようとするのではなく、ただ見つけることを喜んでいて。草の一本にも、石の一つにも、ちゃんと目を向けていて。そういう人が書いた記録だから、読んでいると、自分もその場所にいるような気がするんです」
「……それは、素敵だね」
「……アルス様みたいだと思っていたんです」
セリスが小さく、でも確かにそう言った。
僕は少し驚いて、セリスを見た。彼女は棚の本を見ながら、少し頬が赤くなっている。
「僕が?」
「はい。アルス様も、どの魔導書にも、ちゃんと目を向けるじゃないですか。著者が誰で、何を発見して、どんな思いで書いたのか。整理することが目的ではなくて、その本の本質を見つけることを、本当に楽しんでいるように見えて」
セリスがそこまで言って、口を閉じた。言いすぎたと思ったのか、また目を伏せた。
◇
二人でしばらく、その本を読んだ。
僕が少し読んで顔を上げると、セリスが「どうでしたか」と聞いてくる。感想を話すと、「その場面、私も好きなんです」と目を輝かせる。普段の落ち着いた司書官とは少し違う、本が好きな一人の人間としての顔が、そこにあった。
著者は旅の途中で出会った老人の話を、丁寧に書き留めていた。その老人は長い年月を同じ村で過ごし、毎日同じ道を歩き、毎朝同じ場所から日の出を見ていた。それをつまらないとは思わなかったのかという著者の問いに、老人は「毎日少しずつ違うから、見飽きることがない」と答えていた。
「セリスさんが司書になったのは、本が好きだからなんだね」
「……はい。それだけです。難しい理由があるわけじゃなくて」
「それが一番いいと思うよ」
セリスが「でも、仕事としては不十分な理由で……」と言いかけたのを、僕は遮った。
「セリスさんの本への愛情は、整理されていないけど一番真っ直ぐだよ」
セリスが「……え?」と顔を上げた。
「この棚を見ればわかる。分類も順番も関係なく、好きなものだけがそこにある。それが一番、本質に近いと思う。整理しようとしていないのに、ちゃんとそこに本質がある」
セリスが「……アルス様」と呼んだきり、言葉が続かなかった。眼鏡の奥の目が、ゆっくりと潤んでいく。泣きたいのか、笑いたいのか、その表情はどちらとも取れた。
その時、書庫の奥から足音が聞こえた。
エレナが封印解析の区画から戻ってきたのだ。彼女はいつものように颯爽と歩いてきたが、書庫の隅の小さな区画に二人が並んで座っているのを見て、ぴたりと足を止めた。
「……あら。こんなところで、二人で何を……」
エレナが状況を把握するのに、数秒かかった。薄暗い棚の前の床に、肩が触れそうな距離で並んで本を読んでいるアルスとセリスを、交互に見た。
「……ずるいわ、セリス。そんな場所があったなんて、教えてくれなかったじゃない」
「エレナ様には関係のない場所ですので」
セリスが静かに、しかしきっぱりと答えた。エレナが「……っ! セリス、あなた、そういうところが……!」と胸を押さえた。
「エレナさん、お茶飲みますか?」
僕が声をかけると、エレナが「いただくわ……」と力なく答えた。崩れ落ちそうになりながらも、なんとか踏みとどまっている。セリスが「私が用意します」と立ち上がり、棚の前を離れた。
◇
夕方、棚に本を戻しながら、セリスが「ありがとうございました」と言った。
「何が?」
「この棚のことを誰かに話したのは、今日が初めてで……アルス様に話せて、よかったと思って」
「こちらこそ。セリスさんに整理しなくていい場所があるのが、嬉しかった」
セリスが、静かに微笑んだ。
その笑顔が、いつもの司書官としての穏やかな笑顔とは少し違って見えた。肩の力が抜けた、ただ嬉しい時の顔だった。眼鏡の奥の目が、夕暮れのランプの光を受けてきらきらと揺れている。
僕は本を棚に戻し、最後にもう一度その区画を見渡した。
十数冊だけが並ぶ、目録にも載っていない小さな棚。分類も順番も関係なく、ただ好きなものだけがそこにある。整理しようとしていないのに、確かな温かさがある。
整理しなくていい場所が、人にはいくつかある。
それでいいのだと、この棚が静かに教えてくれた気がした。




