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虚飾まみれの魔導書の世界をスッキリさせます。〜整理の天才児による、澱みゼロの最短魔術ライフ〜  作者: 寝不足魔王


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第28話:元勇者の澱みと、賢者の笑顔

 フィナが帰ってから三日が経っても、カイルはまだ王都にいた。


 宿の一室を借り続け、朝は王宮へ出かけ、夕方になると図書館の近くをぶらついている。用事が長引いているのだと言っているが、その言い訳の薄さは、元勇者とは思えないほどだった。


「父さん、帰らなくていいの? 母さんが一人で家にいるでしょう」


 図書館の前でばったり会った時、僕が聞くと、カイルは少し視線を逸らしながら答えた。


「レオンに付き合わされてるんだよ。あいつ、久しぶりに会ったからって宴会を開きたがってな。断りにくくて」


「レオン三世、毎日呼んでるの?」


「……まあ、そんなところだ」


 カイルの耳の端が、わずかに赤い。それ以上は聞かなかった。


 その日の午後、カイルが初めて図書館の中に入ってきた。


 セリスが「カイル様、いらっしゃいませ」と出迎えると、カイルは「邪魔するぞ」と言いながら書庫の入り口で立ち止まった。天井まで届く棚、整理された区画、棚に並び始めた清書済みの紙。その光景を、大きな体で黙って見渡している。


「……お前、本当にやってるんだな」


 ぽつりと、そう言った。感嘆でも驚愕でもない、ただ静かな確認のような言葉だった。


「せっかくだから、見ていく?」


「ああ」


 カイルが作業机の近くに椅子を引いて座った。僕は一冊の上級術式系の魔導書を手に取り、いつもの工程を始めた。


 まず表紙を確かめ、封印の有無を確認する。エレナがすでに解析済みの印がついているものだ。次に脳内で内容を読み解き始める。著者の思考の軌跡を辿りながら、不純物と本質を仕分けていく。どこが恐怖の産物で、どこが著者の本当の発見なのか。それが見えてきたら、脳内で最短の形に組み立て、指先で最小の実証を行う。


 小さな炎が指先に静かに灯り、すぐに消えた。


 成功だ。羽ペンを手に取り、清書を始める。著者の発見だけを、誰でも辿れる形に記していく。


 カイルが、一言も話さずに見ていた。


 清書が終わると、僕は紙の端に著者の名前を記した。カイルがその動作に目を留めた。


「……お前が整理している本、誰が書いたんだ」


「色んな人だよ。魔導師団の人、旅の途中で研究を続けた人、昔の学者さん。著者の名前は全部、目録に残してある」


「目録に?」


「うん。発見はその人のものだから、整理されても消えてしまわない方がいいと思って」


 カイルが「そうか」と言って、目録の棚を見た。その目が、何かを探すように動いた。


 ◇


 その夜、カイルに「少し付き合ってくれ」と言われ、宿の食堂へ向かった。


 夕食の時間を少し過ぎていたせいか、食堂には他に客がいなかった。テーブルに向かい合って座ると、カイルはいつもの酒ではなく、お茶を頼んだ。それだけで、今日の話が普段とは違うものだとわかった。


 しばらく、二人でお茶を飲んだ。カイルは何かを言いかけては、また口を閉じる。元勇者として修羅場を潜り抜けてきた人間が、言葉を探している。


 やがて、静かに話し始めた。


「昔、俺たちが旅をしていた頃、パーティに一人の魔法使いがいた」


「うん」


「すごい奴だった。魔法の研究に命をかけていて、旅の合間にも記録を取り続けていた。お前みたいに、魔法の本質を追いかけることに、生きがいを感じているような人間だったよ」


 カイルがティーカップを両手で包むように持った。その手が、わずかに力を込めている。


「旅の途中で死んだ。魔物との戦いでな。遺した研究は、俺たちが形見として持ち帰ったが……どこに預けるべきかもわからなくて。結局、王立図書館に収めてもらったんだ。でも、その頃の図書館はもうすでに澱みの中にあって、受け取られたきり、何も聞かなくなった」


 カイルが遠くを見るような目をした。


「ずっと、気になっていた。あいつの研究が、誰にも届かないまま眠っているんじゃないかと。でも確かめる方法もなくて、そのまま時間が過ぎた。……整理できないまま、ずっと心の隅に引っかかっていたんだ」


 僕は少しの間、カイルの言葉を受け止めた。


「……その人の名前、教えてもらえる?」


 カイルが名前を言った。


 僕は脳内で、これまで目を通してきた目録の記録を辿った。整理済みの区画、封印解析待ちの区画、用途不明系の棚。その中に、確かにその名前があった。


「……目録で見たよ、その名前」


 カイルが「え?」と顔を上げた。


「上級術式系の封印済みの区画に、その人の研究書が二冊ある。エレナさんが封印を解析中で、もうすぐ整理に入れるはずだよ」


 カイルが、動かなくなった。


 大きな体が、石のように固まっている。ティーカップを持ったまま、僕の言葉を何度も噛みしめているような沈黙が続いた。


「……あいつの研究が、あそこにあったのか」


「うん。ちゃんとそこにあったよ。封印されていて、誰にも読めなかっただけで。整理が終わったら、ちゃんと届く形になる」


 カイルがゆっくりとティーカップをテーブルに置いた。それから天井を仰いで、長い息を吐いた。


「……そうか」


 その一言だけが、食堂の静寂に溶けた。


「父さんも、整理できないものがあったんだね」


「……お前には、かなわないな」


 カイルが苦笑いした。照れ隠しと、安堵と、長い年月の重みが混ざったような、複雑な笑い方だった。


 ◇


 翌朝、リーサが王都に到着した。


 カイルが手紙で呼んでいたらしい。宿の入り口でリーサの顔を見た時、カイルは「来たか」とだけ言って、照れ隠しのように視線を逸らした。


「あなたが珍しく呼んでくるんだもの。何かあったのかと思って急いで来たわ」


「別に、お前に会いたかっただけだ」


「まあ」


 リーサが柔らかく微笑んだ。長い年月を共に過ごしてきた二人の間に、言葉以上のものが流れているのが見えた。


 図書館に三人で向かうと、リーサはカイルとは少し違う目で書庫を見渡した。元賢者としての鋭さと、母親としての温かさが混ざった眼差しで、整理された棚と、まだ作業中の区画を静かに眺めている。


 しばらくして、リーサが僕に向き直った。


「アルス、一つ聞いていい?」


「うん」


「整理していて、怖いと思ったことはある?」


 僕は少し考えた。怖いという感覚を、これまで自分の中でちゃんと言葉にしたことがなかった。


「怖いというより……もったいないという方が大きいかな。でも、禁書エリアの前では少しだけ、怖いと思った。触れてはいけないものがある、という感覚が」


 リーサが「そう」と静かに頷いた。


「怖いと感じられるなら大丈夫よ。怖さを知らずに整理しようとする方が、ずっと危ないから。あなたが禁書エリアの前で立ち止まれたのは、正しかったわ」


 その言葉が、静かに胸の奥に届いた。ルナミスの警告と、リーサの言葉が、同じことを指しているのだとわかった。整理できるものと、できないものの境界線。それを感じ取れるかどうかが、大切なのだと。


「アルス、もう一つだけ」


「うん」


「整理することが好きなのはわかるけど、整理できないものも、ちゃんと大切にしてね。あなたが一番大切にしているものが、整理しなくていいものであることを、お母さんは知っているから」


 僕は少し考えてから、素直に答えた。


「わかってるよ。フィナのこととか」


 リーサが「そうね」と微笑んだ。


 横でカイルが「なんでそこでフィナの名前が出てくるんだ」と目を細めた。その口元が、かすかに緩んでいる。


 耳が熱くなった。


 ◇


 その夜、三人で夕食を食べた。


 宿の食堂に並んで座り、王都の料理を囲む。昨日のカイルの沈黙とは打って変わって、今日のテーブルは穏やかな会話で満たされていた。


 カイルがリーサに、旅の仲間の話をした。あの人がどんな人物だったか、旅の途中でどんな発見をしていたか、その研究が図書館に眠っていたこと。リーサは静かに聞きながら、時折「そうだったの」と相槌を打った。


「あの人の研究、ちゃんと届くのね」


 リーサが静かに言った。


「ああ」


 カイルが短く答えた。その一言だけで、二人の間に長い年月の重みが流れた。勇者として共に旅をした時間、仲間を失った時間、それでも前を向き続けてきた時間。整理できないまま抱えてきたものが、少しずつ届く形になっていく。


 僕はその二人を見ながら、静かに思った。


 整理するのは、魔導書だけじゃない。人の中に長い年月をかけて積み重なった、整理できなかった想いも、ちゃんと届く形になっていく。そのことが、今夜初めてはっきりとわかった気がした。


 窓の外で、王都の夜が静かに更けていく。


 三人分の影が、食堂の壁に柔らかく落ちていた。

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