第1章
「今回の旅は長くなりそうなの」
「春には新しい人も来るから留守にするわけにいかないのよ」
薄暗い部屋で悶々と過ごしていた三月、孔雀夫人から電話がきた。
しばらくの間、夫人が経営しているシェアハウスの管理人をぼくに代わってほしいという。
孔雀夫人は、ぼくの血のつながらない母親で画家だ。クジャクの羽根模様をモチーフにした抽象画ばかり描いているから孔雀夫人。ぼくにはちっとも良さがわからないけれど、夫人の作品は世界中から評価されている。
昔からあちこち駆けずり回っている忙しいひとだった。展示会が決まれば、長く海外で過ごすこともある。そんな状況で、どうして施設にいたぼくを引き取ったのか未だ謎だ。あまりにも無責任じゃないかと夫人に怒りを抱いていた時期もある。そんなわけで、ぼくは中学生になるまで孔雀夫人よりも彼女の世話人だった花子さんと過ごした時間の方が長い。
「悪い話じゃないわ」
「シロの部屋だってあるし、こもっていたって家賃収入で暮らしていけるのよ」
引きこもりのぼくに、「こもっている」と遠慮なく言うところが孔雀夫人だ。あけっぴろげで周囲に気を遣わない。母親ならもっと息子を心配するものじゃないのか。思い切り反抗してやりたくなるけれど、言ったところで夫人が変わるはずもなく、結局、孔雀夫人とは本当の親子じゃないのだからとあきらめてしまう。それに、ぼくが仕事をやめて半年もアパートに閉じこもったままでいるのは言い逃れできない事実だった。
いい加減、働かなければいけないことくらいわかっている。貯金は底をつき、この先不安しかない。いっそこのまま死んでしまいたい。そう願ってみたところでぼくには死ぬ覚悟も勇気もない。今すぐ道路に飛び出して車に轢かれてしまえばいいと望みながら、毎回青信号を待ってしまうし、屋上から身を投げ出してしまえばいいと思うのに、いざ淵に立って地面を見下ろせば足がすくむ。
もやもやしているうちに、無駄に時間だけが過ぎて行く。日がな一日求人サイトをスクロールし、だらだらと過ごしている。履歴書を書こうとしたこともある。けれど、いざ書き始めると、上司がまたいやな人だったらどうしようとか、同僚とうまくつきあえなかったらどうしようとか考えてしまう。頭はパンクし、胃がキリキリと痛みだし、結局ぼくはくじけてしまう。
不器用で、優柔不断。
どうしてこんな性格になってしまったのだろう。どうしようもないことで迷ってばかり、自分では何ひとつ決められない。二十歳をとっくにすぎているのに、いつまでもぼくはちゃんとした大人になれないでいる。
シロという名前は、孔雀夫人がつけた。どんな色にもなれるから。子供の頃、犬みたいだとからかわれた名前を、ぼくは今も好きになれないでいる。白がどんな色にもなれるなんて嘘っぱちだ。図工の時間、パレットにしぼった白い絵具は、まわりの色に浸食されて、ただ汚れていくだけだった。結局、ぼくはいまだに何色にもなれていない。
「面倒なことなんて何ひとつないわ」
「みんないい人たちばかりだもの」
「修理が必要になったら藤島工務店さんを呼べば見てくれるし、月に一度町内会に顔を出してくれればいいだけよ」
なんでもないことのように孔雀夫人は言う。
管理人なんて、ぼくには無理だ。そりゃあ、収入のないぼくにとって、外に出て働かなくていいというのは好条件だ。けれど、いくらなんでも知らない人たちと同じ家で暮らすなんて。住人が何を言ってくるかわからないし、正直ぼくには荷が重すぎる。
「ずいぶん難しく考えるのね」
「知らない人だなんて」
「ここに住んでしまえばもう知らない人じゃなくなるっていうのに」
こういうところ。夫人の何にも考えていない呑気なところ。こんな性格だから、ほとんど留守ばかりしているのに、子供を引き取ろうなんて無責任な発想が思い浮かぶのだろう。ぼくのことだって、きっと軽い気持ちで引き取ったのだ。
「じゃ、お願いね」
「引継ぎもあるから、二十日までには引っ越して来て」
一方的に言って、夫人はさっさと電話を切ってしまった。ため息が出た。
どうしよう。シェアハウスの管理人にされてしまった。それに一か月以内にここを引き払わなければいけない。高校を卒業してからずっとお世話になっているアパートだ。殺風景だけれど、愛着もある。それに、退去を伝えたら大家さんはなんて言うだろう。会社をクビになって家賃を払えなくなったと心配されるのもいやだし、実家に出戻るどうしようもない息子と思われるのもカッコ悪い。
頭の中でぐるぐる考えたあげく、三日後にようやく大家さんに電話で話せた。退去を伝えると、大家さんは「あらそう」と少しだけ残念そうに言っただけだった。なんだか拍子抜けしてしまった。
引っ越しの荷物なんて大してなく、必要な着替えや持ち物は全部リュックひとつにおさまった。
「元気でがんばるんだよ」
大家さんにカギを返しに行くと、なぜか励ましの言葉をかけられ、腕をポンポンたたかれた。やっぱりしようもない出戻り息子に思われてしまったのだろうか。そう思うと、もやもやした。
「カラフル」は、孔雀夫人がアトリエに使っていた家を五年前に改装したシェアハウスだ。一階に二部屋、二階に三部屋の個室がある。キッチンとバスルームは共同だ。ちなみに一階の二部屋のうち、一部屋を孔雀夫人が使っている。つまり管理人室だ。夫人が留守の間、ぼくが寝泊まりする。
予想はしていたけれど、気持ちの悪い部屋だった。アールデコ調の壁紙はすべてクジャクの羽根模様で、天井にも羽根を広げた大きなクジャクが描かれていた。滲みついた香水の匂いに思わずむせそうになる。
「今日からシロの部屋になるんだもの。好きに模様替えしていいのよ」
夫人はそう言ったけれど、今までアパートの部屋にうずくまっていただけのぼくにそんな気力があるとでも思っているのだろうか。今すぐ消臭剤を置いてくれさえすれば、壁紙や家具なんてもうどうだっていい。
得体のしれない植物が複雑に絡まりあったような柄のゴールドのカバーがかかったベッドの脇に荷物を置き、夫人についてキッチンへ行った。
「はい、これはシロのぶん」
「管理人といっても入居者と何ら変わらないから」
ファイルからひきぬいた紙を一枚、夫人はぼくの目の前に置いた。入居のしおり。シェアハウスで暮らすルールなどが書いた手引書かと思ったらまったく違った。
ようこそ、シェアハウス「カラフル」へ。
この建物は、わたくしのアート作品でもあり、未完成の作品です。
お部屋の壁紙、照明、インテリア。お好みに合わせて自由にアレンジOKです。
みなさまのアートで「カラフル」は完成するのですから。
管理人 孔雀夫人
「なに、これ」
入居時や退去時のルール、家賃の納付、メンテナンスについて。そうした具体的なことが何ひとつ書かれていない。それに、この家がアート作品だなんて、夫人はいったい何を言っているんだ。
「お、新米さんの登場だね」
声がしてふりむくと女性が階段の途中に立っていた。五十代くらいだろうか。たっぷりとした身体にエプロンが少し窮屈そうだ。
「ああ、そうそう、この子がシロ」
「201号室の緑川さんよ」
ぼくは、頭を下げた。すると、二階から次々と人がキッチンに集まってきた。
「202号室の桃子さん」
「203号室の青山さん」
おなかの大きい桃子さんは、じきに出産を控えているという。近くの大学に通っているという青山さんは、背の高い、きれいな顔立ちの人だった。女性にも見えるし、もしかしたら男性かもしれない。もやもやしているうちに、目が合ってしまった。あわてて視線を反らしたけれど、青山さんは気分を悪くしたかもしれない。
「どっちでもいいし」
青山さんがぼそっと言ったのが聞こえた。ぼくはもう顔をあげることができなかった。孔雀夫人がぼくを紹介しているあいだ、ずっと下を向いていた。靴下の親指に穴があいているのに気がついた。恥ずかしくて、もう早く部屋にひっこんでしまいたかった。
「シ、シロです。よ、よろしくお願いします」
ぼくの挨拶が終わると、緑川さんも桃子さんも青山さんも、みんな驚くほどの速さで自室にもどっていった。住人からあれこれ話しかけられたりしなかったことにはほっとした。けれど、もしかしたら嫌われたかもしれないと思うと、喉がつまりそうになった。変な汗が出た。
「102号室はもうじき引っ越してくるはずよ」
「入居のしおり、ここに入っているから渡してね」
そう言って、夫人はファイルを棚に戻した。
「それじゃあ、引継ぎも終わったことだし、お昼にしましょう」
驚いた。入居のしおりと藤島工務店の連絡先を書いたメモを渡しただけで、夫人のなかで引継ぎは終わったことになっている。ぼくの不安をよそに夫人は鼻歌を歌いながら、冷蔵庫をのぞいていた。
「緑川さ~ん、八宝菜もらうわよ~」
孔雀夫人が二階に向かって叫んでだ。いいとも悪いとも緑川さんの返事がないのに、夫人はさっさと耐熱容器に八宝菜を移し替えレンジにかけた。
「どうぞ召し上がれ」
おなかが空いていた。朝から何も食べていない。熱々で湯気のたっている山盛りの八宝菜を目の前に、ぼくはもうがまんができなかった。れんげにたっぷりとよそい、夢中でかきこんだ。
うまい。
白菜も人参も、もやしも木耳もうずらの卵も、とろりとした餡がからまっていて噛むとぎゅっとうまみがあふれ出てくる。手作りの食事を口にするのは久しぶりだった。アパートに居た時は、コンビニの総菜やカップ麺ばかり食べていた。あっという間に平らげてしまうと、夫人がおかわりを温めてくれた。タッパーが空になっている。さすがに全部食べては悪いだろうと思っていると、
「いいのよ。なくなれば緑川さんはまた作るんだから」
夫人がさらりと言って、がちゃがちゃと食器を洗いはじめた。その背中がとても新鮮だった。夫人と一緒に暮らしていた頃、家事をするのは花子さんの役目だった。少なくともぼくは夫人が台所に立っているのを見たことがない。
「何見てるの?」
「シロ。自分の食べたものくらい片づけなさい」
注意されて、どきりとした。気が利かない子だと思われてしまったかもしれない。ぼくは夫人の横に立った。夫人が洗った皿を茶碗カゴから一枚ずつ取り出して布巾で拭いた。居心地の悪い空気を感じて、何か喋らなきゃと思う。けれど、何を話していいかわからず、ぼくはただこの時間が早く過ぎてほしいと思っていた。
最後の一枚を拭き終えた時、外で車のエンジン音が聴こえた。
「時間だわ」
そう言って、夫人は玄関まで小走りで行ってドアを開けた。いつの間に用意していたのだろう。真っ赤なヒールと大きなスーツケースが玄関に並んでいた。
ドアが開くと、見覚えのある顔がのぞいた。
「花子、さん?」
白髪が増え、顔にも皺が目立つようになっていたけれど、花子さんに間違いなかった。夫人を迎えに来たという。花子さんが今も辞めずに夫人の世話係をしてくれていることにぼくは感謝した。
「シロくんね。立派になって」
そう言って、花子さんはぼくの頭に手を伸ばして、「やだ。届かない」と笑った。
「じゃ、あとはよろしく頼むわね」
孔雀夫人が車に乗り込んだ。クジャクの羽根に似た深い緑色のドレスの裾をするりと呑み込むと、車のドアがバタンと閉まった。軽快に走り出した車が小さくなっていくのを目で追い、そう言えば夫人の行き先を聞いていなかったと思う。
ま、いいや。こんなことは今にはじまったことではない。ニューヨーク、パリ、ミラノ。いつだって夫人は突然家を出ていく。夫人だけが世界中を旅していて、ぼくはいつだって置いてきぼりだ。
足音がして、ふりむくと緑川さんがキッチンにおりてきた。洗い終わった食器を見ると、にっこりとぼくを見て笑った。
「おなかが空いたでしょう。今すぐ作るからね」
まだ午後の三時だ。それに、さっき食べたばかりだ。
「あの、ぼくなら大丈夫です」
そう言っても緑川さんは手を止めない。冷蔵庫から次々肉や野菜を引っ張り出している。
「若い人が、遠慮なんかするもんじゃないよ」
「今すぐ作るからね」
「八宝菜、好きでしょう」
え? どうしてまた八宝菜なのか。確かに緑川さんの作った八宝菜はおいしかった。おかわりもした。夫人とぼくでタッパーに入っていたものを全部食べてしまった。けれど、今はおなかがいっぱいだし、いくら好きでももう食べたくない。
どう言えば緑川さんに通じるのだろう。
「あの、八宝菜、おいしかったです。でも……」
言いかけて、見事に遮られてしまった。
「そうでしょう。あたしの八宝菜は世界一おいしいんだから」
ものの三十分で中華鍋いっぱいの八宝菜を作ってしまった。緑川さんは熱々の八宝菜を山盛りよそってぼくの目の前においた。自分のお皿は用意しなかった。緑川さんは食べないらしい。
「食べないんですか」
ぼくが聞くと、緑川さんは満面の笑みで言った。
「いいのよ。食べてもらうために作ってるんだから」
さっき一度胃におさまった八宝菜が逆流してきそうなのをがまんして、ぼくは八宝菜を食べた。れんげを口に運ぶスピードが遅くなり、半分も食べないうちに苦しくなった。しかたなく、れんげの先を舐め舐め食べているふりをしていると、
「あら、おいしくない?」
「冷めちゃったかしらね」
緑川さんはそう言って、中華鍋をもう一度火にかけ、湯気の立つのを確認すると、ぼくの皿にまた八宝菜を追加した。
うんざりした。けれど、そんなこと言えるはずなかった。
「わたしがいただくわ」
いつのまにやって来たのだろう。桃子さんがゆっくりと椅子を引いて、ぼくのとなりに座った。
「まあ、桃子ちゃん。今すぐよそうわね」
食器棚から皿を出すと、緑川さんはたっぷりと八宝菜をよそって桃子さんの前に出した。
「赤ちゃんの分もちゃんと食べないとね」
嬉しそうにそう言った。山盛りの理由はそういうことだったのか。
「ありがとうございますっ」
しばらくの間、緑川さんはぼくたちが八宝菜を食べるのを見ていた。山の中腹あたりまで食べると、桃子さんが言った。
「とってもおいしいです。ゆっくり味わって食べたいので、緑川さんはもうお部屋へあがって大丈夫ですよ。あとはわたしたちが片づけておきますから」
「よかった。そう言ってもらえると作った甲斐があるわ。じゃ、あとお願いね」
緑川さんが満面の笑みで言った。それから「悪いわね」と何度もぼくたちを振り返りながら二階へあがっていった。
緑川さんの部屋の扉が閉まる音を確認すると、桃子さんが立ちあがった。
「食べないの?」
「当たり前じゃない。いくら妊婦でもこんなに食べたら中毒症になるでしょ」
そう言って八宝菜をゴミ箱に捨ててしまった。ゆっくり味わって食べるからって、さっきの彼女の話はなんだったのだろう。ひょっとして、桃子さんは二重人格なのか。
「こうするしかないのよ」
「だって、あのひと、また作っちゃうんだから」
「ほら、貸して」
桃子さんが手を伸ばした。はち切れそうなおなかを抱え、ぼくは、食べかけの皿を桃子さんに託した。少しのためらいもなく、桃子さんはごみ箱のふちにコンコンと皿ぶつけ八宝菜を落とした。これでやっと八宝菜から解放されたと思うと、ぼくは心底安堵した。
それから桃子さんと一緒に片づけた。さっきまで孔雀夫人が立っていた場所に桃子さんがいて、ぼくはまた同じように食器を拭いているのがなんだか不思議だった。
足元のごみ箱を覗いたら、びしゃびしゃに広がった八宝菜が目に入り、少しだけ悲しかった。




