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珈琲

作者: 歯磨き子
掲載日:2025/11/16

 そろそろ閉店して仕事も終えようと気持ちを整えているところに客人が来ると気が滅入る。ぶっきらぼうに目を向けた先には、どうにも放っておけない不格好さの女であった。しかし、彼女がボロボロの服を着ているというわけではなく、普通のスーツを身に纏っていた。私が感じ取った不格好とは、彼女の内から滲み出ている不吉な何かであった。一言で言い表すならば、正に訳ありといった様子を見せていた。どうしても興味が湧いてきてしまった私は、じゃあ、あなたが最後の客ということで、と言って彼女を店に受け入れ、扉に懸かっている『OPEN』の札を『CLOSED』に入れ替えた。承った注文は珈琲であった。白いマグカップにそれを注いで、湯気と共に立ち上った香しい匂いがこの空間を彩った。──それから彼女が珈琲を一口飲んだと見えて、「仕事の帰りですか」と訊いた。彼女は、「ええ」とだけこちらに返した。彼女はマグカップを片手にどこかを見ていた。その目線は集中しているともとれたが、黄昏に酔う惰性ともとれた。なんだか会話が弾むような気がしなかったので、しつこく話しかけることもなく彼女のマグカップの底が白くなるのをただ待っていた。それは不思議と気まずくはなかった。帰り際に、また来てくださいね、とだけ添えて、私は彼女の背中を見送りながら、滲み出る不吉な何かを探るためにどんな言葉を掛ければ良いか、考えに耽っていた。そうして、次第に薄れていく彼女の影を捉えることはもう叶わなかった。


 三日後になって、彼女は同じ時刻に再び姿を見せた。相変わらずの重い足取りで入店すると、カウンター席の同じ席に腰掛け、珈琲を頼んだ。私は同じように珈琲を入れ、彼女の前に差し出した。彼女は前回と同様に無言で受け取り、一口啜った後で静かにカップを置いた。その動作一つ取ってもどこかぎこちなく、やはり何か抱え込んでいるものがあると感じさせられた。今日は少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか、と思い切って切り出すと、彼女はゆっくりと顔を上げた。初めて見る彼女の瞳は黒く深く沈んでおり、それは長い間雨風に曝され錆びついたようであった。「……何か聞きたいことが?」彼女の声は掠れ、乾いていた。しかし拒絶する様子はない。私は慎重に言葉を選んだ。「お客様からは、張り詰めた空気を感じます。まるで何かを必死に抑え込んでいるような」彼女の目が僅かに揺らいだ。カップを持つ指が微かに震えている。「誰でも疲れる時があります。ですがあなたのは……少し違うように見えて」

「……違う?」

「ええ。もっと、心の底から孤独に苛まれて、喉笛をきゅっと絞めながら涙を堪える。そんな夜が増えてはいませんか」明らかに踏み込み過ぎた発言であると言った後になって後悔した。しかしその瞬間、彼女の肩がぴくりと動いた。部屋の空気が重く淀むのをこの眼で見た。彼女の周囲は全く冷たいのに、陽炎越しにゆらゆらと見るようで、いわばそれは『負の熱』であった。ああ、これが彼女の不吉な何かか。彼女の経緯や心情を知らないながら、私は勝手に心を痛めた。「無理にとは言いませんが、あなたに何か辛くてたまらないことがあったなら、私に話してください。相談に乗る程度のことはできますから」そう言い終わるが早いか、洟を啜る音が聞こえて、思わず背けていた目に意思が戻って音の方へ向けた。彼女はその華奢な肩を揺らして、鼻と耳を紅くしながら、顎に雫を滴らせていた。「ごめんなさい、ごめんなさい、でもいいんです」

「そうですか。であるなら良いのですが」手拭いを渡しながら、やはりどうにも放っておけない、と独り思っていた。錆びついた瞳を思い出してもう一度彼女を確認する。それでもどうかその瞳に光を宿していて欲しい、と親しい間柄でもないのに感情が込み上げてきたのは、人の性というものであろうか。彼女の涙が、真下の珈琲へ一滴溶けていった。彼女の珈琲はすっかり湯気を出さず、冷えていた。その涙にあなたの何がこもっているのだろうか。悪口しか言えない友人、横柄な上司、形だけの交尾に溺れる恋人、過干渉な親、痛い怪我、苦しい病気、山積みの課題、化け物のような劣等感、圧し潰してくる将来の不安、そういった輩が寄ってたかって、彼女のことを虐げたのかもしれない。彼女にも生きたいと思える何かが必要だ。それはきっと、まずは他者からの施しなのではないか。そう結論付けたとき、私は無意識に口を開いていた。「ここの珈琲はお気に召しましたか」彼女は、「ええ」とだけこちらに返した。それで良かった。だから私は、「であるならば、明日もまたここの珈琲を飲みに来てください。明日は丁度、頼んでいた少し質の良い豆が届くんです」と伝えた。それはある意味での呪いであった。しかしもしも彼女が自ら命を絶ってしまう最悪の世界線を歩むのであったら、呪いだとしても必要だと思った。彼女は驚いた様子を見せたものの、やがて小さく微笑んだ。その笑顔には、まだ翳りがあったが、確かに希望の灯火が見えた。


 翌日の午後、彼女は再び店を訪れた。今度は少し明るい表情で、足取りは軽かった。「昨日は……本当にありがとうございました」彼女は息を切らせながら話し始める。「あの、私……」途切れ途切れに話す言葉には何か重大な内容が含まれているらしい。「ここで珈琲を飲むために、生きたいって思いました」曰く、昨日帰宅後すぐに自宅マンション屋上へ向かい飛び降りる予定だったそうだ。しかし実行当日になって私に言われたことが頭の中で反芻して仕方がなかったらしい。「いつも一人で寂しい思いをしていた私が……」そう言ってまた涙ぐみ始めてしまうのを見かねてハンカチを渡すとそれで優しく拭い続ける姿には哀愁を感じるものがあった。──その後しばらくお互い沈黙が続いて、私は珈琲を出した。「昨日言った通り、良い豆で作ったんですよ。」

珈琲の湯気は再び立ち上り、香しい匂いがこの空間を彩った。彼女はそれに満足気に頷いた。土曜日の午後、夕方に灼けた空が暖かい光をこちらに差していた。

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