7.エピローグ
7.エピローグ
廃ビルの隙間からのぞく空を見上げる。一筋の雲が、小さな筆で掃いたようにぽつんと浮かんでいる。
口を閉じ、鼻から空気を吸い込むと、生ごみと、甘いような苦いようなドラッグ独特のにおいが鼻腔にへばりつく。
足元のラジオからは、メジャーリーグ中継が流れている。砂嵐の向こうから聞こえてくるような音声が、アスレチックスのバッターが空振り三振に倒れたことを告げる。
「ファック!!」
襟がボロボロのシャツを着た中年とも、高齢とも見える男が叫ぶ。頭には、生地が毛羽立ち、ところどころ綿が飛び出した「A、s」の帽子を被っている。贔屓チームの惨状に、怒りに任せてラジオを踏み壊そうとする男の動きを、周りで一緒に中継を聞いていた仲間たちが必死にしがみついて止める。
「ホワイト・ピッグ! (白豚め!)」
男は声を裏返して叫び、唇の端から飛んだ唾が白髪交じりの顎髭にこびりつく。
「バットにボールを当てろと、何度言ったら分かるんだ!?」
長打狙いよりも、コツコツ当てて塁に出るんだ。バントでつなぎ、盗塁で相手ピッチャーを掻きまわすんだ……仲間の腕を振りほどくと、懐から白い粉を取り出して紙の上に乱暴に注ぐ。鼻から吸引するはずのドラッグを口に放り込もうとする男の腕を、俺はとっさに掴んで阻止する。
「オールドスクールか?」
興奮した男の気を逸らせるために、俺は敢えてフランクな感じを装って話しかける。
「スモールベースボールなんて、今のメジャーじゃ流行らないぜ」
「データ野球なんてクソくらえだ!」
叫んだ拍子に手の中の紙が傾き、ドラッグの粉が地面に零れ落ちる。周りで見ていた仲間たちが頭を抱え「Oh……」と情けない悲鳴を上げる。
「プレーするのは人間だ! 数字やアルファベットの羅列じゃない」
叫びながら男はシャツの胸元をはだけ、勢いでボタンが二ついっぺんに飛ぶ。
「俺はエーズのソウルだ!」
金色の胸毛が生えた肌には、ぼやけた「A、s」のロゴと、ホワイト・エレファントのタトウーが彫られている。
彼は熱狂的なアスレチックスファンで、幼い頃から憧れていたメジャーリーガーになる夢は叶わなかったが、知人の伝手を借りて、グリーンスタジアムの売り子として働いていた。
しかし、売り子として球場を練り歩くうちに、選手に暴言を浴びせるファンとたびたび口論になった。どんなに注意してもトラブルを繰り返すので、遂には売り子の仕事をクビになった。
「俺はこんなにもチームを、愛しているというのに……」
やけくそになり粉を口に放り込もうとした腕を掴み、代わりに、袋から取り出したパンを握らせる。
「良いことがあるだろうか」
アスファルトから立ち上がった俺に、熱狂的なアスレチックスファンの男は胡坐をかいたままポツリ呟く。安価なフェンタニルは、アメリカ人の死因で一位になるほど蔓延しているという。彼が地面に零した粉に、他の仲間たちが競って頭を突っ込んでいる。
「生きていたら、良いことがあるだろうか?」
「ああ……」
うな垂れ、力なく首を振る男に向かって、俺は
「メイビー(多分ね)」
そう答えることしか出来なかった。
俺は炊き出し用に買ったパンの袋を抱え、紙くずと注射の容器が敷き詰められたアスファルト道を練り歩く。
「俺はハトじゃねえ!」
最近顔見知りになった青年にパンをあげると、突然怒り出して俺は拳で顔面を殴られそうになる。怒声を聞きつけたSPが空中に向けて威嚇射撃を行い、居合わせた者たちは一斉に態勢を低くする。
「ミスター・キム」
駆け付けたSPのリーダーが、ヘルメットの下から俺をじろっと睨む。ぞろぞろと集まってきた完全防備の男たちの周りから、それまで路上に寝そべったり胡坐をかいていたドラッグ中毒者たちが怯えた表情で後ずさりしていく。
「炊き出しに参加するのは結構だが、街を一人でうろつくのはやめていただきたい」
「ソーリー」
俺は冷や汗をかいた頭を掻く。
「それから」
相手は迷彩柄のストラップを弄り、緩みかけていた顎紐を締めなおす。
「ミスター・サンチェスからの伝言です」
銃声を聞いて鉄格子の奥にあるシャッターが閉まり、動ける者は転びそうな勢いで俺たちの傍から離れていく。鋭い視線を巡らせ、安全を確認したSPのリーダーは、肩にライフルの銃口を掛けなおし、サンチェスから預かった言葉を手短に伝える。
「『奉仕より、まずは身体を大事にしろ』とのことです」
試合の開始時刻が迫ると、俺はSPのリーダーが運転する車で球場まで送ってもらうことになった。
俺は後部座席に乗り込むと、運転席に座った相手にチップを差し出す。
「ソーリー」
俺は財布から取り出した一ドル札二枚を、相手の横顔に差し出しながら告げる。
「今はこれしか払えないんだ」
「ノー・プロブレム」
相手は俺が差し出した一ドル札を受け取りながら、首を横に振る。
「また貴方がメジャーに上がったら、その時にたっぷり払ってもらいますよ」
俺に説教した彼の口元が緩み、初めて笑みが零れた。
この街の北端に位置する川のほとりで、俺は送迎の車から降ろしてもらう。
古びたイースト・サンフランシスコ球場は、壁面の水垂れがひび割れたように見え、澄んだ青空の下、爆撃を逃れた巨大な廃墟のように映る。頭上までアーチ状の有刺鉄線が張り巡らされた歩道を、俺は野球道具が入った袋と、生活用品が詰まったバックパックに押しつぶされそうになりながら歩いていく。川の向こう岸では、炊き出しの列に並んだ住人たちがゆっくりと蠢いている。遠くから聞こえてくるドラッグ中毒者の奇声と、靴の裏に踏まれた注射器の破裂音。その中に、微かに、軽やかな打球音も混じり始める。
狭いロッカールームに入ると「一人2個ずつあります!」と張り紙された盆はすでに空になっている。ケチャップ味のハンバーガーを食べそびれた代わりに、俺は何杯注いでも無料のウオーターサーバーから、ミネラルウォーターを3杯立て続けにコップに注いで飲み干す。
パイロッツのユニフォームにそでを通しながら、ベンチに到着した時にはもう他のチームメイトたちはグラブをはめ、グラウンドに飛び出していくところだった。俺は壁に貼られたメンバー表を見て、今日も「1番・ライト」で先発出場することを確認する。
もうウオーミングアップをしている時間はない。ライトの定位置へ向かう前に、俺はベンチ前のスペースで右足と左足のアキレス腱を交互に2回ずつ伸ばしながら、センター後方に映し出されたビジョンに視線を移す。画面の両端には対戦チームのラインナップが並び、中央には「A、s」の帽子を被ったヘンダーソンが、はにかんだ笑みで軽くバットをスウィングしたり、頷く動画が繰り返し流されている。膨れた腹の下には『新人王は確実だ!』といった意味のテロップと共に『打率.239』『ホームラン39本』『打点99』という彼のここまでの成績が表示されている。
「さっさとライトの守備に就くんだ、キム!」
そう俺に忠告したのは、右打席に入った相手チームのバッターだった。
「早くしないと、僕がヒットを打っちまうぜ?」
そう言ってマイクが笑う。『フィッシュアンドチップス』の深海魚のキャラクターがプリントされた胸元を摘まみ、左手で掴んだバットの先端を、ライトの方向へ傾けて見せる。その仕草を、マウンド上のピッチャーは『ホームラン予告』と勘違いしたらしい。ロジンバックを叩きつけて怒り、耳の端まで赤く染めたマッケンジーは、何かをぶつぶつと呟き続けている。よく聞こえないが、きっととんでもなく汚い言葉に違いない。
「キィィム!」
ライトフェンスの向こうから、子供のファンの金切り声が寂れた球場全体に響き渡る。
「キィィム!」
何度も俺の名前を叫ぶので、相手ベンチと、スタンドの一角から呆れた笑いが起こる。
「キィィィム!」
それでも、かつて俺を『チャイニーズ!』と嘲った金切り声は、何度でも叫び続けた。
「エラーしたら、許さないからな!」
少年の声に俺は背を向けたまま、左手にはめたグラブを軽く上げてこたえる。
マイクは初球を一閃。マッケンジーはフライアウトを確信して頭上を指さす。しかし、バットで払うように打ち返されたボールは、俺が思ったよりも伸びてくる。
「キィィム!」
俺はフェンスとの距離を目で測り、落下予想地点を確認する。
「キィィム!」
ライトフェンスに細く白い腕を絡めながら、ファンの少年が叫ぶ。
「キャアッチ!」
ライトフェンスに向かって駆け出しながら、俺はもう一度、頭上にあがったボールを見上げ、落下地点の予想を修正する。
「キャアッチ! (獲れ!)」
俺はライトフェンスを蹴上がり、右手で縁を掴み、左手にはめたグラブを頭上にめいっぱい伸ばす。
「キャアアアッチ! (獲れえ!)」
すぐ後ろで少年が、喉が引きちぎれそうな勢いで叫ぶ。漆黒の空からボールが落下を始め、みるみる大きくなってくる。
「キャアアアッチ! (獲れえぇ!)」
獲れるだろうか。グラブを伸ばしながら、俺は胸の奥が疼くのを感じた。
「キャアアアアッチ!(獲れええぇ!)」
視界の中で、ボールの赤い縫い目がはっきりと見え、激しくスピンしながら迫ってくる。
グラブをはめた腕を力強く伸ばしながら、耳の奥で心臓が、心地よく鳴る。
キャアアアアッチ! 視界の中でボールが、みるみる大きくなっていく。キャッチを試みようとフェンスの向こうに逸らせた関節が、軋んだように痛む。
キャアアアアッチ……!? 俺は……獲れるだろうか。
完。




