6.ラスト・ゲイム (メジャー)
6.ラスト・ゲイム (メジャー)
デンバー球場の廊下の壁には、チーム名の由来であるロッキー山脈の写真がプリントされている。
薄明かりに開かれていく大自然を眺めていると、まるで山脈の尾根を、自分の足で歩いていくような気分になれた。
スパイクの歯が床面に触れる音が、人気のない廊下に異様に大きく響き渡る。今日もチームメイトの誰よりも早く球場にやって来てユニフォームとスパイクに着替え、ロッカールームを出てグラウンドに向かおうとした時だった。外で待ち構えていた球団スタッフに、俺は呼び止められた。
ヘイ、ワッツ・アップ? キム。(調子はどうだい? キム)
ナッシング・マッチ(まあまあ、だね)
アイ、シー……(そうか……)
相手は何かを堪えているような、何とも言えない表情で口籠った。まるで便意を我慢し、
そのことさえ隠そうとしている子供のような表情。
うんこでも我慢しているのか? そう、ふざけてやろうとしたが、
これは上司からの命令なんだ、キム。
意を決したように相手は、今度は苦しそうに歪んだ顔を上げた。
監督室へ向かってくれ。
両脇に続く山脈の光景以外、同じだ。日本から海を渡って、8年あまり。もう何度この道のりを歩んだだろうか。ロッキー山脈の写真は、朝と晩の景色を交互に繰り返すように並んでいる。俺が行く先にあるのは山頂か、それとも……。
監督室のドアに触れかけた手が、止まる。考えるよりも先に震えが喉元からこみ上げてくる。目の前のドアに広がった影に向かって、俺は小さく「アズ・ユウズアル・キム(いつも通りだ、キム)」と呟いてみる。8年あまりを過ごすうちに、俺は脳裏で呟く言葉さえ英語になっていた。落ち着くんだ、キム。すると、強張っていた筋肉が緩んで、口元には自然と笑みが零れるのを感じた。死ぬわけじゃないんだ。肩から力が抜けると、拳がスッと落ち、目の前のドアを二度、ノックした。
俺が中に入ってくると、ハタケヤマは椅子の上で組んでいた短い足を解く。
「よく来てくれた、カノン・キベ」
俺の右手のひらを掴んで振る。分厚い一重瞼を伏せ、いつになく難しい表情をしているハタケヤマに「うんこでも我慢しているのか?」と俺はふざけてやった。しかし、ハタケヤマは無視して続ける。
「君は私がスカウトした選手の中でもベスト・プレイヤーだったよ」
しかし、台詞に反してハタケヤマは目線を上げようとはしない。160センチちょっとしかないハタケヤマの根元に白髪が混じり始めた脳天を俺は見つめ続けるような格好になる。
「ミート力は素晴らしいし、足も速い。バントヒットも狙えて、おまけにサードの守備までそつなくこなした。素晴らしい。君は本当に素晴らしいプレイヤーなんだよ、カノン・キベ」
俺は救いを求めるように視線を上げる。監督は、目の前のデスクに置かれたパソコンに、いつもの感情の薄い視線をじっと注いでいる。
「だが、時代が悪かった」
「時代?」
「そう、時代だよ、カノン・キベ」
ようやく顔を上げたハタケヤマの、細長い目は悲しみのためか、それともこみ上げる怒りのためか、少し充血していた。
「データ分析が発達し、メジャーでは『盗塁』や『バント』のような小技よりも、ホームランのような長打の方が効率よく得点できるという結果が出た。
我々が理想としたスモールベースボールの時代は終わり、新たにフライボールの時代がやってきたのだ」
ハタケヤマが言った「アワー(我々)」という言葉が俺は気になったが、彼が俺のプレーに目をつけ、今日までチャンスを与えてくれたことは確かだった。
「フライボール理論では『盗塁』や『バント』が得意な選手よりも、『二塁打』や『ホームラン』のような長打を打てる選手の方がより重宝される」
ハタケヤマはまだ俺の右手のひらをぎゅっと握りしめている。分厚い一重瞼を剥き、施しを求める乞食のように、上目遣いでまくしたてる。
「悔しいが、認めるしかない。悔しいが……」
「ミスター・ハタケヤマ」
後ろから、監督が声を上げる。
「早く結論を述べるべきです」
ハタケヤマは部下に話を遮られて、振り返る。しかし、監督の表情は揺らがなかった。
「彼はプロです。覚悟はできている筈です」
その言葉に、ハタケヤマは自分に何かを言い聞かせるように二、三度ゆっくりと頷く。そして、俺の手を離し、二、三歩後ずさりする。1メートルほど離れて正対すると、胸元でよれたネクタイの位置を掴んで直す。
「カノン・キベ。君をリリースする」
ハタケヤマは狭い肩を小さく上下させ、呟いた。
「これが、チームが出した答えだ」
監督の言うとおりだ。覚悟はできていたはずだった。しかし……一瞬、身体からすっと力が抜けるのを感じた。眼下の景色が浮き上がり、床面が割れ、大きく揺れ出すような錯覚にさえ捉われた。
情けない。俺は……泣きこそしないが……返す言葉が、見当たらない。「シャル・ユー・シット・ダウン?」目の前に椅子を差し出され、俺は自分が膝に手をついていたことに気が付く。まだ言葉は出てこず、揺れる視界の中で身体を支えるだけで精一杯だった。うつむいたまま俺は何とか首を横に振る。
「まだチャンスはある」
「何の?」
ハタケヤマの言葉に、俺は汗ばんだ顔を上げた。こみ上げる怒りが、俺の身体に再び力を与えてくれる。
「チームをクビにされて一体、どんなチャンスがあるっていうんだ?」
「キム!」
監督が近づいてきて、ハタケヤマの言葉を最後まで聞くよう諭す。
「まだ一試合ある」
ハタケヤマは、襟元のネクタイの位置をしきりに気にしている。
「ロッキーズとの3連戦は、まだあと一試合残されている。その試合に、君を先発出場させる」
ハタケヤマの言葉に、隣にいる監督も頷いて同意する。
「確かにエーズと、君との契約はこれで終わりだ。だが、君のプレーを見て、他のチームからトレードの打診があるかもしれない」
一度戦力外となった選手が、他チームにトレードされて成功を収めるケースはまれだ。
でも、0ではない。俺のプレーが、球場のどこかにいるスカウトマンの目に留まることだってあるかもしれない。
「これは、私から君にあげられる最後のプレゼントだよ、カノン・キベ」
「プレゼント?」
再び熱いモノが、喉元からせり上がってくる。
「でも貴方は、これからもチームに残るんだろう?」
意味のないことだと分かっていても、止められない。全身を巡る血流が早まり、脳天へ猛スピードで駆け上がっていく。
貴方はマイクや俺や、その他大勢の選手を起用しては、その首を切った。また起用しては切って……そうして、自分だけは生き残っている。分かっていても、止められない。まるでハイエナのように貴方は、死んだ肉の美味しい部分だけを噛みちぎって、そうやって貴方は……。
「ミスター・ハタケヤマ。貴方はそやって、これからも生き残っていくんだろう?」
「ノー」
「は?」
「私もだよ、カノン・キベ」
私もだよ? 言っている意味が分からなくて、俺はハタケヤマの言った「ミー・トウー」という単語を口の中で繰り返してみた。
「私もクビになったんだよ、カノン・キベ」
俺は信じられなくて、視線を巡らせる。監督は後ろで腕を組んだまま、黙っている。
「次のGMには、ジャックが就任する」
そう続けたハタケヤマは、不貞腐れた子供のようにうつむく。
「今の私の気分を教えてやろうか?」
ハタケヤマの顔が半分だけ歪み、ひび割れた鏡のような、奇妙な笑みに代わる。
「ファック!!」
発音と同時に、唇の端から大きい球のような唾が飛ぶ。そして、革靴の先で、傍にあった椅子を思い切り蹴り上げた。
相手バッターが放った打球が、デンバー球場の密度の薄い空気を切り裂き、スタンドに吸い込まれていく。初回から打者一巡の猛攻をくらい6点を失ったマッケンジーは、マウンドに上がった監督に声を掛けられると、素直に従ってボールを手渡した。
俺が「ノー・マインド(気にするな)」とか「ゼアズ・ネクスト・タイム(次があるさ)」と声をかけても、マッケンジーは放心したように口を薄く開いているだけで、返事をしない。紫色に染まったスタンドを見上げながら、少しおぼつかない足取りでマウンドを降りていく。
マッケンジーの後を継いだピッチャーも打ち込まれ、結局、1回裏だけで10点も失った。
ヒメネスの引退発表を受け、わざわざ敵地まで応援に駆け付けてくれたアスレチックス
ファンからうねる様なブーイングが飛ぶ。
「すごく長い夢を見る時って、あるじゃん?」
敗色濃厚になり、集中力を切らしたアスレチックスの選手たちは、最近流行りのドラマやゲームの話題など、全く関係ない雑談に興じている。
「でも夢から覚めると一瞬に感じるじゃん、あれって何なんだろうな~」
今日は非番のローテーションピッチャー同士が、自分の爪先を気にしながらぼんやり話している。ピッチャー陣のリーダー格であるサンチェスは、まだ出場停止が解かれていないのでベンチには姿がない。
「いい女が相手だと緊張して、ベッドですぐにイッちゃうことってあるだろ?」
「イエア(うん)」
「あれと同じだろ」
「アイ・シー……(そっか……)」
すっかり集中力を切らした選手たちに、一番奥のベンチに腰かけているヒメネスは呆れてものが言えない。一か月前にデッドボールを受けた右膝には包帯こそ巻かれていないが、彼の脇には松葉づえが立てかけられている。あれで本当に、明日から始まるホーム最終戦に出場できるのだろうか?
打順が6番に上がったヘンダーソンが、初球のストレートを迷いなく振り切る。バットがボールのやや上っ面を叩いたが、鋭い打球が一、二塁間を抜けヒットになる。
「イエス!」
握りこぶしを作り立ち上がったヒメネスは、右膝の痛みに顔を歪め、ベンチにドスンと尻餅をついた。
2アウトでランナー三塁の状況になり、相手監督がマウンドに上がりピッチャー交代を告げる。ネクストバッターズサークルから打席に向かう時、三塁ベース上に立ったヘンダーソンが大きく手を叩きながら「レッツゴー、キム!」と声をかけてくる。
せっかく10点を取ったのに、先発ピッチャーが崩れて不穏な空気が漂い始めた紫色のスタンドからも「レッツゴー! キィム!」という裏返った、素っ頓狂な掛け声が響く。そんな物好きなファンを「クレイジー(気違い)」とあざ笑う声も聞こえてくる。
敗色濃厚の状況から、勝利へ僅かな光が差し始めた展開に「LET,S GO! A,s」「THANKS! JIMENEZ!」などのボードを掲げたアスレチックスファンたちの声が、うすい霜のようにグラウンド全体を覆い始める。
ヒメネスの引退発表にショックを受け、涙を流したアスレチックスファンたちは、今日が俺のラスト・ゲームになることを知らない。交代が告げられマウンドに上がったピッチャーは、木の枝のように細長い右手の先をマウンドの土につけ、左手の指は額に押し当てて目をつむる。尖らせた口元は、何か祈りのような言葉を呟いている。
打席の土をスパイクの裏で踏みしめながら、俺はヘルメットのつばに指を当ててアンパイアと、相手キャッチャーにも挨拶の言葉を述べる。
「彼は新人なんだ」
キャッチャーはマスクをずり上げ、太い顎をマウンドの方へしゃくる。
「お手柔らかに頼むよ」
俺は軽く肩をすくめて見せる。
後ろからアンパイアが指さし「プレー!」がかかっても、マウンド上でピッチャーは祈る仕草を止めようとしない。首から下げたロザリオをぎゅっと握りしめ、その口元は夢遊病者のようにぶつぶつと言葉を呟き続けている。
祈っても無駄だ。グリップを掲げバッティングフォームを固めながら、俺も口の中で呟き返す。祈っても神に届かないこともあれば、諦めた時にふと、チャンスが巡ってくることもある。
「呟き作戦か?」
マスク越しにキャッチャーが嘲笑い、左手にはめたミットを突き出す。
「荒れ球に気をつけろ!」
三塁ベース上から、ヘンダーソンが両手を筒のようにして叫ぶ。
「彼のストレートは、胸元に食い込んでくるぞ」
新人ピッチャーの球質まで頭に入っている彼の勤勉さには感心させられる。
だが、インコースのボールに腰が引けていては、アウトコースにバットが届かなくなってしまう。俺は例えインコースにボールがきても決して逃げないよう、背筋を伸ばし、前足に力を籠める。
1球目。スリークオーター(4分の3)の角度から、ボールが放たれる。長い腕を覆った汗がはじけ、二本の指先がボールを引っ掻く。ピッチャーの頭よりもかなり高い位置でボールはリリースされ、投げた勢いで、相手ピッチャーの態勢が前のめりに崩れる。リリースした瞬間に分かる、抜け玉。ピッチャーはマウンドの傾斜に足を滑らせて倒れ、ボールはみるみる眼前に迫ってくる。このまま避けなければ、当たる。
だが、身体が動かない。視界の中で、ボールがみるみる大きくなる。インコースのボールから逃げまいと意識するあまり、俺は前足をアウトコースへ踏み込んでいくような軌道を描いてしまう。
最初は米粒のようだったボールが、赤い糸が縫い込まれた硬球に代わり、そして、13,4ポンドもあるボーリング玉のようになって、俺の視界を侵食する。
避けられない。ちょうど交差点に差し掛かった車が急にバックすることが出来ないように、スウィングをかけ始めた俺の身体もまた、後ろにのけぞってボールを避けることが出来ない。
ボールが当たった瞬間、痛みは無かった。低い衝撃音がヘルメットの内側に響き、視界の景色がカラフルな線のように流れていく。そして、次の瞬間には暗転した。
※
※
※
甲子園予選、決勝。
9回裏、2アウト満塁。
県営球場の古びたスコアボードに、俺と、相手ピッチャーが刻んだ0が並んでいる。
ここまでのスコアは0対1。初回にとられた1点を、こちらが追いかける展開。最後のバッターとして打席に入ると、顔の下半分をグラブで隠した相手ピッチャーと俺は目が合う。
鉄をも溶かすような鋭い日差しが、スタンドに並んだ金管楽器の滑らかな側面に反射して、なおその強さを増す。今にも湯気が立ち上りそうなグラウンドで、俺はマウンドにいる相手とここまで投げ合ったことを、汗で濡れた肩を叩き合い、誇りたい気持ちになった。
9イニング投げ続けた疲労を吹き飛ばすように、俺は背筋を伸ばし、頭上でバットをピンと立てる。そして、リストの強さを生かすために、ヘッドをピッチャー方向へねじるようなバッティングフォームを作ると、スタンドを埋め尽くしたブラスバンドの爆音が息を吹き返す。
まつ毛に溜まった汗が、滴りそうになる。だが、指で拭っている暇はない。相手ピッチャーがもう初球を投じたからだ。スライダーの抜け玉。投げた瞬間に、相手ピッチャ―の口が開き、悲しそうに歪んだ表情からは「しまった!」という声さえ聞こえてくる気がした。
右打席からスウィングをかけながら、俺はマウンド後方のすり切れた芝生が、まるで緑色の絨毯が広げられていくように、美しい新緑に代わっていくのを見た。
真夏の日差しを力強く跳ね返す銀傘。満員のスタンドに轟くサイレン音。グラウンドに立つ選手の一挙一動に沸き、地底から揺るがすような大歓声。誇らしげなブラスバンドの旋律。
勝たなければ、意味がない。行かなければならない場所。そこに、俺はもう立った気分になっていた。
しかし……外野に広がった美しい新緑がひび割れ、すり切れた芝生に代わる。ハッとして、ボールをバットの芯でとらえる刹那、グリップを握った指先に力が入った。
バットの軌道が変わり、ボールの下っ面を叩く。強烈なバックスピンがかかった打球が頭上高く打ちあがり、スタンドから聞こえていた歓声が、悲鳴に代わる。
ピッチャーが指を天高く突き上げ、キャッチャーはマスクを放り投げて叫ぶ。
オーライ!
1球で勝負が決まる、緊迫した状況に似つかわしくないパスンという、まるで車の扉を優しく閉じたような生易しい効果音が、長いゲームの終焉を告げる。
キャッチャーが、ボールが収まったミットを突き上げてマウンドに駆け出し、敵チームのスタンドから割れんばかりの歓声が起こる。向こうに見えるベンチからも日焼けした選手たちが駆けだして、グラウンドの中心に歓喜の輪が出来上がる。
信じられなかった。
現実を受け入れられないのか、歓喜の声を背にグラウンドを後にした俺の中には怒りも、悲しみさえもなかった。かたや、ベンチの中で泣き崩れ、地面に突っ伏したチームメイトの肩を叩きながら、よくやったよ、とか、整列しよう、とか、俺はここまで戦った仲間たち一人一人に声をかけて労をねぎらう。勝負に負けた悔しさよりも、キャプテンとしての本能が、頭で考えるよりも先に俺の身体を突き動かしたのかもしれない。
大人げなく顔を歪めて泣きじゃくる監督とも握手を交わし、そして、最後はタカヒロだった。俺が差し出した手のひらから、彼はじろっと視線を上げる。
下手くそ。
俺の握手を無視してタカヒロは言った。ニキビが浮いた唇が横に伸びて開き、白い、大きな前歯が覗いた。こいつは笑っていた。
スパイクの裏を揺るがすような何かが、俺の中で沸き起こった。その揺れは、鳥肌のように俺の足から腰、胸、そして、脳天へと瞬く間に昇っていく。激しい揺れに耐えるように、俺は両足を踏ん張り、右手の指を強く握りしめる。バットのグリップを握っていなければ、爪の先が肉に食い込んで、俺の右手は血だらけになっていたかもしれない。
そのままグリップを振り上げる。耳の後ろではなく、真上に。振り下ろす刹那、タカヒロの顔から笑みが消え、丸くすぼめた唇から「あ」と「う」の間のような、腑抜けた呻き声が漏れた。
バットの側面が肉をえぐり、心地よい感触がグリップを通して伝わってくる。俺の身体を襲った揺れの正体は「怒り」だった。後ろから監督とチームメイトたちに引き止められるまで、およそ2回半。頭を抱え転げまわるタカヒロの身体に、俺は夢中でバットを振り下ろした。
※
※
※
医務室のベッドで目を覚ます。俺は目の前に右手のひらをかざし、じっと見つめる。ヒトの肉を打ち、手の皮膚が焼けつくような感触が、俺の手のひらにまだはっきりと残っている。
「夢か……」
あの光景が夢だったと、自分の胸に言い聞かせるように、俺は独り言ちた。
「ノー」
視界の隅から、黒い大きな手のひらが伸びてきて、俺のユニフォームの肩を掴む。甘ったるいスポーツドリンクの息が頬に吹きかかる。
「まだ夢の中だよ、キム」
ヒメネスの髭面がぬっと現れる。厚い唇がめくれ、湿ったピンク色の皮膚が露になる。
「気が付いたか!」
サンチェスの顔も現れ、口ひげが近づいてくると俺は反射的に顔を反対方向にそむける。すると、脳が内側から激しく揺さぶられるような感覚が起こって、同時に、胸がムカムカとするような吐き気にも襲われる。
「監督……」
振り向いた先、医務室を出てベンチに向かおうとする人物に向かって、俺は声を張り上げる。
「ストップ!」
監督の足が止まり、俺の容態を心配して医務室に集まったチームメイトたちも、驚いた表情でこちらを振り返る。
「続行だ」
考えるよりも先に言葉が、口を突いて出てくる。灰色の、感情の薄い目がじっと俺を見下ろす。
「俺はまだ一打席しか立っていない」
俺は頭にボールを食らい、意識を失って医務室に運ばれたようだ。第一打席の結果はヒット・バイ・ピッチ(デッドボール)だから、俺は一塁にすすむ権利が与えられるはずだ。
「俺はまだいける……」
そう続け、ベッドから上半身を起こそうとした時、再び脳みそが激しく揺さぶられるような感覚が起こる。視界の景色がぐるぐると回り始め、平衡感覚を失った俺はベッド脇の床に転げ落ちる。
「無理だ!」
とっさに俺の身体を支えたサンチェスが、耳元で叫ぶ。
「体を壊したらどうする? 次の試合にも響くだろう」
「次は、ない」
サンチェスの言葉に被せるように、俺はきっぱりと言う。
「この試合の後、俺はチームからリリースされる」
俺の言葉に、人がぎっしり詰まった医務室の空気が沈黙する。
メジャー最弱といわれるアスレチックスから放出されれば、俺がこの世界に留まれる可能性は、ほぼ残されていないだろう。
「それでも」
沈黙を打ち破ったのは、ヘンダーソンだった。
「君には母国でプレーするチャンスがあるだろう? キム」
ヘルメットを外し、坊主あまたに溜まった汗を手のひらで拭う。
「それも、ないんだ」
俺はヘンダーソンに向かって苦笑いを浮かべた。
甲子園予選決勝の直後、俺はタカヒロの肩付近をバットで殴打した容疑で、警察の取り調べを受けた。
幸いタカヒロの怪我は軽傷で済み、彼の両親からは「子供同士の喧嘩」ということで、被
害届は提出されなかった。俺たち二人が幼馴染だったことも影響しているかもしれない。ケ
ンサツは事件を「起訴猶予」とし、俺は前科を免れた。
しかし、日本のプロ野球界は、事件を起こした俺の素行に「問題がある」と判断したよう
だ。ドラフト候補生に送られる調査書が俺に元にも届いていたが、結局、ドラフト会議で俺
の名前が呼ばれることは無かった。
あと一歩のところで甲子園出場を逃し、プロ野球選手になる夢も経たれた。絶望の淵に立たされた俺に、最後のチャンスを与えてくれたのが、メジャーリーグのスカウトマンだった。
「だから俺には、ここしかないんだ」
俺はベッドの端を掴み、震える足を踏ん張り何とか立ち上がる。まだ脳が揺さぶられるような眩暈と吐き気は収まらないが、先ほどよりは少しマシになった気がする。
「死ぬぞ」
「構わない」
「キム、俺は……」
サンチェスの細めた瞳が、端から潤む。
「チームメイトを失うのは、もう嫌なんだ」
後ろでは、俺を止めようとした医師と、その前に立ち塞がったヒメネスがやり合っている。「危険だ!」「でも、死ぬわけじゃないんだろう?」「しかし……」少しマシになったかに思えた眩暈と、吐き気は、耳の奥で鳴る鼓動に合わせて酷くなったり、マシになったりを繰り返している。
「行かせてくれ」
俺は頭を押さえていた手を離す。そして、サンチェスの、赤らんだ瞳を真っすぐに見つめる。
「死んでも知らんぞ」
そう言ってサンチェスは、俺の脇に頭を通す。
「もし、俺が死んだら……」
左脇をサンチェスに支えられ、右手の指はロッキー山脈が描かれた壁に這わせながら、グラウンドへと続く廊下を一歩ずつ進んでいく。
「俺の遺体は、グリーンスタジアムのグラウンドに埋めてくれ」
「バカ言うな」
俺たちは薄明かりが灯るグラウンドの方へ、一歩ずつ、スパイクのつま先を床面に這わせるように、ゆっくりと、近づいていく。
「お前が化けて出たら、気持ち悪くてプレーに集中できないだろう?」
俺は、口元には笑みを浮かべてこたえる。
「ああ、化けて出てやるさ」
後ろから現れたヘンダーソンが、壁に這わせていた俺の右手を取りあげる。身長が低いサンチェスとのバランスが悪くなり、揺れと、吐き気がかえって酷くなる。
「エーズが負けたら、アンタらを祟ってやる」
「とんでもないファンだ」
ヘンダーソンが笑う。その瞳にうつる光が、強くなる。貝殻に耳を当てて聞く細波のように小さかった歓声が、大きくなる。ベンチに出て、グラウンドへと続く段差を上がる時、俺は二人の手から離れる。支えられている姿をアンパイアに見られたら、俺は出場を止められてしまうだろう。試合が中断している間、ボールを回したり身体をほぐしていたロッキーズの選手たちは、医務室から現れた俺の姿を見て驚愕し、言葉を失う。
「キィム!」
どよめくスタンドから、物好きなファンの声が俺の背中を突きさす。
「サインをくれ!」
馬鹿な奴だ。そう思い、振り向いた時だった。
俺は、思わず叫んだ。
「マイク!」
「キム!」
興奮したマイクは、内野席の通路からベンチ上の屋根に飛び乗る。すぐに気づいた警備員が5,6人がかりで屋根上に昇ったマイクを止めにかかる。
「キム、君は、僕に嘘をついたな!?」
「ホワッツ!?」
「君は、僕に……ラインでこう、言ったじゃないか」
マイクは太い手足を振り回し、止めようとしがみついていた警備員が二人まとめて左右に吹っ飛ばされる。
「チームをリリースされるかもって……でも、君はここにいるじゃないか!」
マイクが屋根の上をスニーカーで走って逃げ、警備員が追いかける様子を見た観客が、紫色も緑色も関係なく、一体になって声援を送る。
「東海岸からここまで来るのに、飛行機代と合わせて一体いくらかかったと思っているんだ?」
「知るかよ!」
叫んだ時、側頭部を鋭利なモノで突き刺されたような痛みが走った。
「契約金を全部使い果たしてしまったよ!」
警備員の一人が、マイクの左腕に再び何とかしがみつく。
「だから、君のサインをくれ!」
歓声が大きすぎて聞き取りにくく、俺はほとんど怒鳴るような声で「なんで?」と聞き返す。
「ネットオークションで売り飛ばす! 失った僕のお金を回収するんだ」
とうとうマイクが警備員に取り押さえられると、落胆したスタンドからはブーイングが飛ぶ。
「カアノン・キム!」
マイクの分厚い身体に、警備員たちがサンドイッチのパン生地のように5人も、6人も覆いかぶさる。
それでも、マイクは顔を上げ、大声を上げて観客の熱狂を煽った。
「カアアノン・キム!」
カアアノン・キム!
カアアアノン・キム!
俺を励ますチャントは、スタンド全体にあっという間に広がっていく。だが、よく耳を澄ましてみると「カモン・キム!」とか「カノン・キル!」とか、微妙に間違っている者もいる。
それでも、構わなかった。
俺は右腕に立った鳥肌を抑え、一塁ベースにゆっくりと、歩み寄る。
ファーストの選手が帽子を取り、ボールを食らっても立ち上がってきた俺に敬意を表する。
「クレイジーだな」
俺も再び被ったヘルメットのつばに、指で軽く触れてこたえる。
「これがサムライ・ダマシイってやつさ」
俺の言葉に、相手は可笑しそうに「ふっ」と短い息を吐き出す。
「鞘から刀も抜けないくせに?」
俺の再出場が認められ、アンパイアが「プレ―再開」を宣言する。
「プレーに集中した方がいいぜ」
俺がそう言って相手の胸を軽く叩き、一塁ベースからゆっくりと距離を取った時、紫と緑の入り混じったスタンドから「ラン!」の掛け声が響く。
ラン!(走れ)
ラン!(走れ)
ラン!(走れ)
敵味方のファンに関係なくスタンドから繰り返されるチャントと、一塁ベースからじわりじわりと離れリードをとる俺の姿に、マウンド上のピッチャーは気が動転してしまったようだ。素早いターンで牽制球を投げるも、すっぽ抜けてしまう。ボールはファーストの選手が伸ばしたミットの先を掠め、ファウルゾーンを転々と転がっていく。
キィム!
ラン!(走れ)
観客のチャントに、興奮したマイクの絶叫も混じる。
ファーストの選手が後逸したのを見て、俺は2塁ベースを目指してスタートを切る。
が……スパイクの先がもつれ、すぐに視界が暗転する。空を裂くような悲鳴が、頭上で木霊する。俺は、自分がよろめいて、地面に倒れたことに気が付く。口の中に沸いた生ぬるい唾と、甘い血と、苦い土の味が混じり合う。デッドボールを食らった部分が、今になってひび割れたようにズキズキと痛み始める。
それでも俺は、目の前に広がる暗闇に指を這わせ、ようやく見つけたグラウンドに両手をつき、何とか立ち上がろうと試みる。上半身は大きな荷物を背負わされたように重く、下半身は骨を抜かれたみたいにぐにゃぐにゃとして、言うコトを聞かない。
それでも、俺は……立ち上がろうとする。汗と土が入って痛む目を、必死に開けようとする。後ろからスパイクの歯が土を噛む音が、猛スピードで迫ってくる。
それでも、俺は立ち上がろうとする。汗と土でまみれた顔を、必死に上げようとする。どうなるか分からない。暗闇の彼方から聞こえてくる絶叫が、耳の奥をつんざく。それでも、俺は、どんなに罵られ、嘲られようとも……前を向く。
生き残る。生き残ろうとすることを、やめない。




