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the game  作者: moshiro
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5.デンバー球場・3連戦 (メジャー)

5.デンバー球場・3連戦 (メジャー)

 次の敵地へ向かう道中、メジャー恒例の「新人イジリ」が行われた。

 今年デビューした三人は、次の試合が行われるコロラド州・デンバーの球場に着くまでの間、先輩メジャーリーガ―たちが選んだおかしな衣装を着て移動しなければならない。

マッケンジーは「神父」、ヘンダーソンは「カウボーイ」、そして、俺は、サムライの格好をさせられた。

 1年中温暖な気候が続くカリフォルニアと違い、ロッキー山脈の麓に位置し、その標高の高さから「マイルハイ」と呼ばれるデンバーの9月の空気はとても冷たい。上下とも薄っぺらい胴着一枚で空港に降り立つと、左脇にさした刀を支える指は、寒さのあまり小刻みに震えだした。

「刀を抜いてみてください!」

 空港で待ち構えていた記者に無茶ぶりをされ、俺はカメラレンズに向かって刀を抜こう試みる。しかし、指先がかじかんでいるのと、腕の長さが足りないので鞘から長い刀を抜き切ることが出来ない。

「貸してみてくれ」

 横からヘンダーソンが太い指を伸ばしてくる。身長198センチの彼がやると、刀はあっさりと鞘から抜き取られた。

「キム! お前、それでもサムライか?」

 後ろから、学ランのような服を身につけたマッケンジーに、俺は袴のケツを蹴られる。アスレチックスのSNSにアップするための写真を撮ることになると、結局、俺がカウボーイの拳銃を、ヘンダーソンがサムライの刀を構える。そしてヘンダーソンは、左手にはロザリオを、右手にはなぜか手裏剣を持っている。三人の衣装は『DO OR DIE』というタイトルの格闘ゲームに登場するキャラクターたちのコスプレだった。マッケンジーが扮する神父のキャラクターは、ロザリオに似せた手裏剣を使って相手の喉を掻っ切るのだという。

俺たちがゲームのパッケージに似せたポーズをとると、爆笑しながら先輩たちがスマホカメラのシャッターを切り続ける。


 俺たち3人が会見場に入ってくると、すでに到着し檀上の椅子に座っていたヒメネスは、口に含んだミネラルウォーターを噴き出しそうになる。

「『ドゥ・オア・ダイ』か……」

ヒメネスの吐く息が、目の前のテーブルに置かれたマイクにかかる。敵地の球場内に設けられた会見場にくぐもったマイク音が響き、俺たち3人と、ヒメネスとの間を埋めた記者たちの顔が一斉にこちらを振り返る。

「お前たち、俺を笑い死にさせる気か?」

「ゲット・アウト!」

 隣からサンチェスが怒鳴り、緩みかけた会見場の空気に緊張が走る。二人のベテラン選手の脇には、アスレチックスのGMと、監督がそれぞれ席についている。

「そう怖い顔するなよ、サンチェス」

「だが、ポップス」

「あれは、俺を驚かせるために用意してくれた衣装なんだろう」

 するとヘンダーソンが黒いローマンカラーの前で、右手の指を使って十字を切る仕草を見せたが、それ以上は言葉が出てこなかった。

「手裏剣だぞ、それ」

 サンチェスが突っ込むと、この会場に急遽かけつけたメディアや、ヒメネスの親族たちからも笑いが起こる。それまで張りつめていた会場の空気が少しだけ、和らぐ。

 

 ヒメネスがマイクに大きな顔を近づけ、彼の引退会見が始まる。

「まず初めに、急な発表であったにもかかわらず、このような会場を用意してくれたロッキーズの皆さんに感謝したい。ありがとう」

 そして彼は、緑色のパーカーを羽織った肩を一度、大きくすくめ、スタート直前の陸上選手のように、大きく息を吐き出してから続ける。

「俺は今シーズンをもって、現役を引退する」

 ヒメネスはそう告げ、じっと前を見据えた顔にフラッシュが焚かれる。隣で顔をくしゃくしゃにしたサンチェスの肩を、ヒメネスの『A,s STORONG』とプリントされたパーカーの腕が絡んで引き寄せる。

「ちなみに、この男はまだ引退しない」

 記者席から笑いが起こる。サンチェスはうつむきかけた顔を上げ、

「アイム・イモウタル(俺は不死身だ)」

 髭の生えた唇を歪め、ヒメネスの口真似をして見せる。

「この男は前の試合で観客に暴力をふるって、3試合の出場停止処分を食らったところだ」

 お返しとばかりにヒメネスは、サンチェスの頬っぺたに貼りついたガーゼを指で軽くはたく。

「これで『ロベルト・クレメンテ賞』はおじゃんになったが、来シーズンは『絶対にサイ・ヤング賞を獲るんだ!』と今から息巻いているんだ。

ヘイ、パードレ! この男のために祈ってやってくれ」

 ヒメネスが言うと、会見場の一番後ろで見ていたマッケンジーは険しい表情のまま、右手の手裏剣でローマンカラーの胸に十字架を描いて見せた。


「けがの状態が思わしくなく、これ以上プレーしてもチームに貢献できないと思った」

 ヒメネスの会見が続く中、舞台袖から、小さな「ホワイト・エレファント」の着ぐるみがゆっくりと近づいてくる。

「俺は選手であることをやめ、これからは一ファンとしてエーズを応援することにしたよ」

 ヒメネスの元に近づく子象のような『ホワイト・エレファント』の足取りが、車輪が坂道を転げ始めたように早くなる。そして、ヒメネスの太い腕に縋りつく刹那、ゾウの被り物が脱げ、長いチリチリ髪が露になる。

「DADDY!」

 引き裂くような声と、泣き顔になったわが子にしがみつかれる。さらに、別れたはずの奥さんまで現れ、会見場が騒然となる。ヒメネスは目を丸くして固まる。奥さんは背中に「JIMENEZ 18」とプリントされたシャツを着て、夫の髭と繋がったもみあげの近くにキスをする。ヒメネスの表情から、それまで堪えていたものが一気に溢れ出した。


「……キベ」

 記者席の群れからスーツ姿の小男がぬっと立ち上がり、おもむろに近づいてくる。

「カノン・キベ!」

 ハタケヤマだった。俺の横を通り過ぎて会見場を出て行く時、160センチちょっとしかない背をめいっぱい伸ばして、俺の耳元に囁いた。

「次のホーム3連戦で、ヒメネスの引退試合が行われる」

「だろうね」

 ハタケヤマの囁き声に対して、俺は敢えて普通の声で返す。前の椅子に座っていた記者の一人が、怪訝な表情でこちらを振り返る。

「ヒメネスを選手登録するために、誰か一人をチームからリリースしなければならない」

「フー・イズ・ザット? (誰だろう?)」

 俺がふざけると、ハタケヤマは一重瞼を剥いた。俺を指さす時、左腕にはめられた金縁の時計が砂利のような音を立てて揺れた。彼は、随分苛立っているように見えた。

「君かヘンダーソンの、どちらかになるだろう」


 

 鋭い打球が、ライトを守るヘンダーソンの後方を襲う。メジャーでも珍しい標高1マイルを超えるデンバー球場の空気は、平地よりも極端に乾いていて、薄い。空気抵抗をほとんど受けない打球は、ライトフェンスめがけてぐんぐん伸びていく。

 紫色のレプリカユニフォームを着たファンたちの歓声が、次の瞬間には、ため息に変わる。ライトフェンス手前には、すでにヘンダーソンが待ち構えていた。彼が伸ばしたグラブの中に、ボールはあっさり収まる。

「ナイス・プレーだ!」

 出場停止を命じられている筈のサンチェスがベンチに現れて声を張り上げる。気が付いたアンパイアや相手チームの選手やコーチから睨まれると、サンチェスは顔を帽子のつばと「A,s」のパーカーで隠しながらベンチ奥のスペースに逃げていく。

 俺はこの球場に着いてからヘンダーソンが守備練習を繰り返していたことを知っている。ライトの定位置と、フェンスの間を何度も、何度も往復して距離を測る。芝生のあらゆる位置に立ち、頭上に手のひらをかざし、ボールを運ぶ風向きを注意深く確認する。メジャーリーグ球場の形状は複雑で、さらに、その日の天候や、その土地の気候によって打球の質も大きく変わる。平凡なフライキャッチに見えるプレーが、実は血の滲むような努力と、入念な準備によって成し遂げられていることがある。同じ外野を守るプレイヤーだから、俺にはよくわかる。

 だが、試合後にヘンダーソンの周りに集まってくるメディア関係者たちの質問は、平凡に見えるフライキャッチよりも、彼が喫した「5打数0安打」という打撃成績の方に集中した。

「チームに貢献できず、申し訳ないと思っている」

 そのような台詞に反して、ヘンダーソンは二つに割れた顎を上げる。マイクを向けてくる相手の顔を、その聡明な瞳で真っすぐに見つめる。

「ファンやフロントの期待に応えられていないことは、私自身が一番わかっているつもりだ」

「自分のどこが悪いのか、具体的に教えてもらえますか?」

「一番求められているバッティングで、結果を残せていない点だね」

「もっと具体的に教えてもらえますか?」

「チェイス・レートが高い。つまり、ボール球を追いかけすぎているというコトだ」

 鎌をかけようとした相手の質問にも、ヘンダーソンはバットで空振りをするモーションまで再現して見せるなど、全く動じるそぶりを見せない。なかなか尻尾を出さないヘンダーソンに、苛立ったインタビュアーの表情が少し引きつる。

「私には、参考にしたいチームメイトがいる」

 突然切り出すと、彼と同じ白人のインタビュア―が「それは誰ですか?」と呟いてから、マイクをヘンダーソンの緩みかけた口元に向ける。

「カノン・キムだ」

 首から緑色のユニフォームとインナーを抜きかけた俺は、着替えの動きを止める。

「彼は私と同じアウト・フィールダーであるにもかかわらず、チームの求めに応じて今はサードを守っている」

 彼の答えに驚いているのか、或いは冷やかしのつもりか、チームメイトの一人が口笛を吹く。俺は土がついたユニフォームと汗が滲んだインナーを脱ぎ、タオルで頭をごしごしと擦って聞こえていないフリをする。

「彼のプレーは、献身の塊だ」

「その彼も、今日は5打数0安打だったのに?」

 インタビュアーの言葉には、明らかに俺に対する蔑みが含まれていた。差別的な意識もあったかもしれない。ヘンダーソンが口を閉ざし、チームメイトたちがタオルやユニフォームのズボンを床に擦る音も止み、ロッカールームに沈黙が広がる。頭上を照らす明かりが一段暗くなり、空気が重くなったような錯覚にさえとらわれる。ヘンダーソンが次の言葉を発するまで、誰も、何も言えなくなる。俺は知っている。彼は一瞬で、そういう空気を作り出せる男だ。

「3回表の攻撃時」

 ヘンダーソンは相手を諭すように、ゆっくりと、重い口を開く。

「0アウト、2、3塁の場面で、キムが一塁方向に放ったゴロを貴方は覚えているか?」

 マイクを握りしめた相手の表情が凍り付く。まるで過ちを犯した生徒を諭すように、ヘンダーソンは、一回り以上も年上のインタビュアーに向かって話し続ける。

「インコースのボールを、無理やり一塁ベース方向へ流し打ちした。彼自身はアウトになったが、ランナーはそれぞれ進塁した」

おそらく彼は、自分に鎌をかけようとした相手に怒っているのではなかった。ただ、彼は間違っていることを放置できず、正さなければ気が済まない性格なのだ。

「自分を殺して、チームのために迷わず行動する。そういうプレーができる彼のことを、私は心の底から尊敬している」

「じゃあ、どうすれば」

 インタビュアーの男は再び顎を上げ、渾身の嫌味を込めてヘンダーソンに問いかける。

「どうすれば君も、彼のようになれると思う?」

「バットに当たるよう、練習するしかないだろうね」

 そう言ってヘンダーソンが掲げた手のひらに、相手の視線が釘付けになる。肌の色に同化して見えたテーピングからは、茶色いシミのような血が滲んでいた。「あれでバットが握れるのか?」後ろでチームメイトの一人が、息だけの声でもう一人に囁いている。

「ケチャップだよ」

 相手の視線に気づいたヘンダーソンは、恥ずかしそうに口籠る。

「ハンバーガーを食べたときに、ついたんだ」

そう続けて彼は、スウィングのし過ぎで傷らだけになった手のひらを後ろに隠した。



 一人部屋の夜は重くて、静かだ。

 布団が擦れる音が、手繰り寄せた俺に孤独と、静寂を感じさせる。まだ体温が馴染んでいない布団の中で瞼を開き、閉じ、また開く。眼球に貼りつくような漆黒が、胸の中心に、風穴を開けたように広がっていくのを感じた。

 マイナー時代は、宿代を節約するためにチームメイトと相部屋をとることがよくあった。2つのベッドを、4人で共有したこともある。互いの身体から発される体臭や、歯ぎしりやいびきの音が耐えがたかったが、孤独を感じることは無かった。

 メジャーリーグでは、選手の宿泊先に一流ホテルの部屋を用意する決まりとなっている。ここでは備え付けの電話を使ってフロントに頼めば、大抵のものはすぐ手に入る。食べ物や酒はもちろん、合法化されている州であればマリファナをデリバリーすることもできる。俺はキメたことは無いが、マリファナは吸うタイプだけでなく、ソーダやチョコに混ぜ込んだタイプも選べるので、落ち込んだ気分を紛らわせるために使う選手も多いという。

 俺はオプションに「相部屋」という選択肢もあったらいいのに、と思う。暗闇の中でスマホの画面を開き、閉じ、また開く。アトランタの球場で別れた後、マイクは実家のあるフロリダへ帰ったはずだった。フロリダのある東海岸は今、何時だろうか?

あいつは寝ている間に屁をこくし、いびきはマジでうるさかった。寝相が悪く、俺は頭を馬の後ろ脚に蹴られたような衝撃で目を覚ましたことも一度や、二度ではない。

アトランタのホテルを出て別れてから、俺とマイクは一度も、電話や、ラインでさえやり取りしていなかった。

 勝者の余裕か? 暗闇に浮かんだスキンヘッドのボーンが、嫌味を込めて俺にそう語り掛けてくるような気がする。俺は紙飛行機のようなラインの送信ボタンを押す指を、止める。


 リリースされるかもしれない。


 シャツの袖を噛み、こみ上げる感情を抑える。この孤独と、恐怖は、同じ場所を潜り抜けてきた者にしか分からない。高級ホテルの一室で、頭から被った羽毛布団の暗闇が、一瞬で、スラム街の路上を満たす漆黒にすり替わることだってあり得るのだ。サンチェスの元チームメイトで、日系人の「ハタノ」という男は、マイナーチームを解雇された後、有り金を全てドラッグにつぎ込んでハイになったまま死んだらしい。メジャーリーガーになり大金を掴んでも、酒やギャンブルにつぎ込んだり、起こした事業が失敗に終わり破滅した選手もいる。この国では、誰もが夢を掴みのし上がるチャンスを与えられている代わりに、滑り落ちるのもあっという間だ。


 俺の前の打席で、ヘンダーソンがその大柄な体躯に似合わないへっぴり腰のスウィングを繰り返して、2ストライクまで追い込まれる。ミート中心でコンパクトにスウィングしているので、打球はファールにはなるが、前には飛ばない。

下手くそ! 俺はネクストバッターズサークルの土に膝と、バットをつきながら口の中で呟く。「プア―! (下手くそ!)」すぐ後ろにある最前列の席から、酔った男性ファンのだみ声が飛び、壁のようなヘンダーソンンの背中に突き刺さる。そのヤジの飛ばし方からして、男性はアスレチックスファンなのだろう。アスレチックスのホームであるカリフォルニアから、900マイル以上も離れているここデンバーまでわざわざ駆け付けているのだから、男性はよっぽど熱心なファンなのかもしれない。

 3球目。ミートすることで頭が一杯になったヘンダーソンは、胸より高い明らかなボール球にも手を出してしまう。何とかファールにするが、後ろからは「プア―! (下手くそ!)」とか「ファック・オフ! (死んじまえ!)」といった罵声と共に、ビールがグラウンドに投げ込まれ、細かい飛沫が俺の肩にかかる。

 4球目。左打席でバットを構えたヘンダーソンの背中は、マイナーリーグで初めて目にした時よりも、一回りくらい小さく見えた。ミートすることに執着するあまりバッティングフォームが縮こまり、長打という彼本来の持ち味が失われかけている。

ヘンダーソンは昨日のインタビューで、俺のプレーを「尊敬している」と語っていた。彼はもともと打率は低く、確実性が低い代わりに圧倒的な長打力が持ち味の選手だった。だが、嫌味なインタビュアーに対して、俺のプレーを「尊敬している」と本気で言ってしまうあの男は、今のスウィングについて監督やコーチから注意されても、きっと耳を傾けないだろう。

 4球目のスプリットを、ヘンダーソンは態勢を大きく崩して空振りし、ロッキーズファンの歓声と、チームカラーの紫が埋め尽くしたスタンドの中で、グラウンドにビールを投げつけた男性ファンは頭かを抱え「オ・マイ・ガ……」とか細い声を漏らす。このまま放っておけば、ヘンダーソンはバッティングフォームを崩して自滅するだろう。

「ファック・オフ!」「ホワイト・ピッグ! (白豚め!)」再び男性の怒声が耳をつんざく。ヘンダーソンは空振り三振を喫した悔しさを押し殺すように、或いは、自分に向けられた怒声を正面から受け止めるかのように、二つに割れた顎をくっと上げ、こちらにゆっくりと近づいてくる。

メジャーに昇格してから、俺とヘンダーソンが放ったヒットは2本ずつ。俺たちは100マイルを超えるハード・シンカーにバットを根元からへし折られ、見たことない動きをする変化球には、何とかバットの先っぽを当てるだけで精一杯だった。

長打力では負けるが、ミート力ならヘンダーソンよりも俺の方がはるかに上だ。ヘンダーソンは打席からこちらに向かって歩みを進めながら、九の字に作った手を、肉の詰まった胸の前で動かしている。俺ならあのスプリットをすくい上げて、シングルヒットなら打つことが出来るだろう。長打を捨て、ミート中心なら俺はヘンダーソンには負けない。

俺がアドバイスしなければ、ヘンダーソンはこのままスランプに陥ってしまうだろう。白い大柄な体躯が、ネクストバッターズサークルのすぐ前まで迫ってくると、俺はバットで地面を突くようにして立ち上がる。このままなら、リリースされるのはあいつの方だ。空をうつしたような瞳と、俺は目が合う。お前は、俺には勝てない。

「キム」

 ヘンダーソンは胸の前で作った指を動かし、俺にスプリットの軌道を伝えようとする。

「ヘンダーソン」

 俺は二つに割れた顎を下から、睨む。

「お前は、俺に勝てない」

「ホワッツ?」

「お前にミート中心のバッティングは無理だ」

 ヘンダーソンは見開いた瞳を瞬く。

 空振りを恐れるな。

 ミートを捨て、長打狙いの力強いスウィングに戻せ。

「それがお前の持ち味だろう?」

「キム、僕は……」

 何か言いかけたヘンダーソンの弛んだ胸を右手で叩き、左手にはバットを握りしめて俺は自分の打席に向かう。


 打席から見える鮮やかなビジョンに、紫色のタオルを振り回すロッキーズファン、満員のスタンドを縫うように歩きながら「ヘイ、ホットドッグ!」と声を張り上げる売り子。ファンを煽るように踊る『GET ROUD!(叫べ!)』の文字と、階段を一段ずつ駆け上がっていくような電子ピアノの旋律。サインが決まり、頭上に一度、払うように伸ばされた相手ピッチャーの汗ばんだ右腕が、スタンドの照明に反射してキラキラと輝いて見える。

 俺は夢を見ているのだろうか? スタンドの照明が眩しく、俺は右手を上げてアンパイアが「タイム」を宣告する。俺が焦らそうとしていると勘違いしたのか、マスク越しにキャッチャーが舌を打つ。唾とヒマワリの種でまみれた土から顔を上げ、「レッツゴー! ロッキーズ!」のチャントが響くスタンドを掠め、眩い照明の向こうにある、漆黒の空をじっと見つめる。俺はまだ、この夢を見続けていられるだろうか?

 相手バッテリーは初球から、決め球のスプリットを投じてきた。6回表で、スコアは0対0。相手は1球で俺をゴロに打ち取って球数を抑え、イニングを稼ぐつもりだろう。俺はバットのヘッドをやや寝かせ、右足に力をため身体が前に泳がないよう踏ん張る。腹の前に迫ったグリップに、心地よい感覚が走る。バットのスウィートスポットよりやや先に吸いつくように当たったボールを、俺は逆方向へ払うようにスウィングする。バットからボールが、離れる。俺はバットを投げ、一塁ベースへ向かって駆け出しながら、すべての光景がまるで、スローモーションになったような錯覚にとらわれる。ボールが小さくなり、白い点のようになる。俺はまた一歩、一塁ベースへ向かってスパイクの足を踏み出す。ファーストの選手が、右手にはめたミットを伸ばす。視界の中で、ボールが米粒のように小さくなる。俺はまた一歩、足を前へと踏み出す。米粒のようになったボールが、ファーストの選手が伸ばしたミットめがけて、飛んでいく。

「Oh……」

 一塁線をまたぐように立ったアンパイアが、右こぶしを勢いよく振り上げる。スタンドのほとんどを埋め尽くしたロッキーズファンたちが、安堵の息を漏らす。鋭い打球がアウトになり、俺は一塁ベースへ向かっていたスピードを緩める。またも失点を0に抑えたロッキーズナインに、スタンドのファンから歓声と、拍手が送られる。

 3アウトになり紫色のユニフォームを着た選手たちが次々にベンチへと引き返していく。俺だけが、ホームベースと一塁ベースを結ぶ線上にじっと、立ち尽くしている。

「キム!」

 アスレチックスのベンチから、サンチェスが俺のグラブを掲げながら叫んでいる。

「なにボオっとしてんだ!?」

 アンパイアに睨まれると、無駄なのにサンチェスは帽子の縁で顔を必死に隠す。しかし、俺は力が抜けたように、一塁線上に立ち尽くしている。久しぶりに放った鋭い打球は、まるで何かの力で導かれるように、ファーストの選手が伸ばしたグラブに一直線に飛んでいき、ノーバウンドで収まった。鋭い打球がライナーでアウトになる時、「流れがない」という言葉が野球には存在する。

俺は視線を上げ、黒い大きな穴のようになった漆黒をじっと、見上げる。ファンから送られる声援と、頭上から降り注ぐ眩い照明が、俺の中から魂のようなぼんやりとした何かを、すっと、抜き去っていくような感じがした。



 両軍ともにピッチャーが好投し、スコアは「0対0」のまま9回表、アスレチックスの攻撃。ヘンダーソンは悠然とした足取りで自分の打席に向かう。バットを構えた肉付きの良い背中は、前の打席のときよりも一回りくらい、大きくなって見えた。

 ヘンダーソンは初球を一閃。静まり返った空気を裂くように打球が伸びていき、紫色で埋め尽くされたライトスタンドにあっという間に吸い込まれていった。見たことがないスピードの打球に、選手もファンもアンパイアも、誰もが言葉を失った。呆気にとられていた塁線上アンパイアが、はっと我に返ったように、頭上で右手の指をくるくると回し始める。

だが、一番驚いているのは、打った本人のようだった。

「UNBELIEVABLE(信じられない)」

 打席からこちらを振り返った彼の唇はそう動いたように見えた。俺は、何も言うことが出来ない。爆速のホームランに、歓声が、息を吹き返したように大きくなる。ヘンダーソンはようやく動き出し、歓声が響くグラウンド上を太い足を引きずるように駆けていく。「ファッキン・グッド!」

アスレチックスベンチからも、頭を抱え、目を剥いたチームメイトたちの声が飛び交う。みんな鼻に拳を当て、象のセレブレーションをやるよう促すが、ヘンダーソンは口をつぐんだまま塁間を黙々と駆けていく。


 ネクストバッターズサークルの土に膝と、バットをついたまま、俺は動くことが出来なかった。


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